2009/12/24

カンタベリー大聖堂、2009年12月






12月18日に撮影したカンタベリー大聖堂の写真です。現在大幅改修中で、外壁のかなりの部分(内陣[chancel]の外壁部分)は、工事用の鉄骨で覆われていますが、なるべくそれを映さないように撮影しました。

ここで簡単にカンタベリー大聖堂の歴史を紹介。カンタベリーの町自体はローマ帝国時代にはあり、その当時からキリスト教の教会もあったと考えられています。しかし、5世紀初め頃、ローマの軍隊がブリテン島から撤退し、ブリテン島がアングロ・サクソン時代へ移行するとゲルマン人独自の宗教が持ち込まれました。英国が再度キリスト教化するきっかけになったのが、カンタベリーの聖オーガスティン(Saint Augustine of Canterbury)の宣教。彼は当時のケント王国の王、エゼルベルフトにキリスト教の教えを伝え、教会を造ることを許されました。これが597年でした。その後、カンタベリーにはキリスト教の教会や修道院が幾つか出来ます。最初の大聖堂(カテドラル)はオーガスティンの下で造られたとされています。アングロ・サクソン時代のカテドラルは現在見ることが出来ませんが、現在のカテドラルの身廊(nave)の地下にあるとされています。(以下は一般的な十字型教会の略図ですが、カンタベリー大聖堂も大体において、この形式です。)




1066年、ブリテン島の大部分は現在のフランスにあったノルマンディー公国からやって来たノルマン人によって征服されました(「ノルマン人のイングランド征服」)。その後、カテドラルは大火災に遭い、1070年から77年にかけ、カンタベリー大司教ランフランク(Archbishop of Canterbury, Lanfranc)の指揮の下、ノルマン様式(ロマネスク様式の一種)で完全に立て替えられ、現在のカテドラルのベースとなる建築が出来ました。その時代の建築の一部は、翼廊(transept)の北西部に残っているそうです。重厚なノルマン様式建築は、現在の地下聖堂(crypt)で顕著に見ることが出来ます。その後、中世を通じて増改築が行われ、1498年までに現在の姿とほぼ同様のものになっていました。現在見ることが出来る多くの部分は大まかに言って、一般にゴシック様式と呼ばれる形式です。

中世の大聖堂には、ここに限らず多くのマリアや諸聖人の像がありました。しかし、今のイギリスの大聖堂にはほとんどありません。16世紀の宗教改革以降、破壊されたのです。その前は、丁度日本の古い仏教寺院で本尊以外に色々な観音様とか毘沙門天などがあるように、色々な聖像、特にマリア像がたくさんあったことと思います。これらは宗教改革時に、カトリックの偶像崇拝として破壊されました。もともとカトリックには八百万の神々を信仰する多神教的なところがあります。またカンタベリー大聖堂では17世紀の清教徒革命(大内乱)の間、多くの素晴らしいステンド・グラスが破壊されましたが、これもカトリック的図柄があったためです。但、残ったものもかなりあります。

更に第2次世界大戦時には、ドイツ軍の爆撃にも遭い、大聖堂横の図書館が破壊されましたが、カテドラル本体は重大な損傷を免れました。しかし、カンタベリーの街では、現在のショッピング・センターの周辺はほぼ破壊され、貴重な中世の建築遺産が失われました。(以上、一部、カンタベリー大聖堂のオフィシャル・ホームページを参考にしました。また教会の略図は『プログレッシブ英和和英中辞典』電子版よりお借りしました。)

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