2014/08/28

"The White Devil" (The Swan Theatre, RSC, 2014.8.22)

とてもモダンで刺激的なプロダクション

劇場:The Swan Theatre, The Royal Shakespeare Company
2014.8.22  19:30-22:30 (含む, 1 interval)

脚本:John Webster
演出:Maria Aberg
デザイン:Naomi Dawson
照明:James Farncombe
音楽と音響:David MaClean & Tommy Grace
音響:Tom Gibbons
衣装:Ed Parry

配役:
Vittoria Corombona: Kirsty Bushell
Camillo (Vittoria’s husband): Keir Charles
Flaminio (Vittoria’s sister & servant of Bracciano): Laura Elphinstone
Marcello (Vittoria’s brother & Francisco’s attendant): Peter Bray
Cornelia (the mother of Vittoria, Flaminio & Marcello): Liz Crowther
Bracciano (Isabella’s husband & Vittoria’s lover): Davi Sturzaker
Isabella (Bracciano’s wife): Faye Castelow
Francisco (Isabella’s brother, Duke of Florence): Simon Scardifield
Cardinal Monticelso: David Rintoul
Lodovico (a disgraced & banished nobleman): Joseph Arkiley
Dr Julio: Michael Moreland

☆☆☆☆☆/5

私はウェブスターが大好き。この濃密さ、男女の死闘が生む刺激がたまりません!彼の作品の大きな柱は、家父長的男性中心社会の孕む矛盾。シェイクスピアではオブラートに包まれてその残虐さが目立たないが、ウェブスターは容赦なくそれを利用してセンセーショナルなドラマに仕立てあげる。しかし、現代の作家と違い、作家の道徳的な視点から構成されているわけではなく、男も女もアモラルな闘争に明け暮れて、復讐の連鎖のうちに自滅していくという陰惨なドラマ。今回の上演は現代のセットとコスチュームで、退廃と残虐さを一層際立たせたが、いつの時代にセットしても、ウェブスターの基本的な面白さに変わりはないと思う。

(物語)Lodovico伯爵は汚職や殺人の罪でローマから追放されている。Bracciano公爵はIsabellaという妻を持ちながら、Camilloの妻のVittoria Corombonaと密通している。Vittoriaの姉妹で、Braccianoの使用人であるFlaminioはこの二人の密会を手伝っていて(チョーサーのパンダルスの役割)、一種の女衒(英語で”pander”)の役割を果たす。彼らは二人の恋路の邪魔になるIsabellaとCamilloの二人の邪魔者を殺害する計画を立てる。
 Isabellaがローマの宮廷にやってくる。彼女の兄弟FranciscoとMonticelso枢機卿はVittoriaとBranccianoの不貞の噂を聞きつけて激怒する。しかし、Isabellaは自分と夫の結婚の失敗の責任を引き受けて、宮廷を去る。FlaminioとBraccianoは医者のDr Julioを使ってIsabellaを毒殺する。また、酔ったうえでの喧嘩を利用して、FlaminioはCamilloを殺害させる。
 Vittoriaは夫を殺害した濡れ衣で裁判にかけられ、Monticelso枢機卿に激しく糾弾される。彼女は、売春婦を収容する施設に送られる。BraccianoとFlaminioはパデュアに逃れ、そこでVittoriaと落ち合って結婚する計画だ。追放されていたLodovicoがローマにもどってきて、Franciscoに亡くなったIsabellaを愛していたことを告白する。ふたりは、Isabellaの死の復讐を誓う。
 Monticelsoは教皇に選ばれ、BranccianoとVittoriaの破門宣告を下す。そのふたりはパデュアに逃れるがLodovicoが彼らを追っていく・・・。(英語のプログラムより)

この劇の前日に見た“The Roaring Girl”同様、ジェンダーを強く意識した演出。また、男装のMoll Cutpurseを思い出させるかのように、Flaminioは原作の男性ではなく、女性に変えられていた。Vittoriaは夫を裏切る妻ではあるが、彼女の裁判での反論や殺される前の台詞はたいへん力強い居直りぶりで、女の底力を見せつける。彼女のアモラルな強さを強調したKirsty Bushellの演技が素晴らしい。また、マリアのように貞淑で、夫の罪まで引き受けるIsabellaも毒を盛られて殺害される前には、やさしいだけではない芯の強さを見せる。逆に言うと、彼らを辱め、苦しめる男たちの家父長的な女性への偏見、女嫌い(ミソジニー)の激しさもくっきりと描かれる。とりわけ、キリスト教会の権威的で教条的な男性中心主義と保守的倫理観はMonticelso枢機卿によく体現されている。こういうところは非常に現代的であり、むしろ南アジアやイスラム諸国、そして現代の日本にぴったり当てはまる。Monticelsoみたいな化け物、今でも日本の男の中にも結構いる。彼とVittoriaが対決する裁判のシーンはこの劇の白眉であり、帰国したらまたテキストでじっくり読み返したい。

Monticelso枢機卿(のちに教皇)が宗教裁判所で姦婦Vittoriaを裁くので分かるように、非常にキリスト教的な伏線が濃い劇だ。Vittoriaはいわば旧約聖書のイブを象徴しているとも見れるだろう。夫の姦通まで自分の責任とする貞淑なIsabellaは生身のマリア。ふたりは家父長的男性社会が女性に与えた二つのイメージであり、現実の生身の女性とは離れた男性の罪の意識、願望/欲望の化身でもある。Monticelsoに典型的に示される家父長的モラルの男性達は、女性が自らの肉体や欲望を蔑み、自らを男性の支配に従順に従うだけの存在におとしめることを要求しているかのようである。

原作では男の女衒的な役であるFlaminioを、Vittoriaの「妹」に変えてしまったのは、どういう意図なんだろうか?男たちが寄ってたかって、Isabellaを苦しめる、それも兄弟に至るまで、という構図は、Flaminioを女にすることで、文字通り一役分薄められた。しかし、同じ女同士までも家父長的な権力構造に組み込まれて動かされる、という新しい視点は感じる。女も、Flaminioみたいに仕事をしていれば、自分のジェンダーを押し隠し、同性も犠牲にせざるを得ない、という構図の極端な形かもしれない。Flaminioの台詞には、せっかく大学を出て貴族Braccianoの家中に就職したが、全く何の財も築けず(キャリアにならず)、貧乏なままだ、というような嘆きがあったが、彼女の上昇志向が、姉妹さえ売り飛ばすという行為に走らせたとも言えるだろう。キャリア志向の女性が他の女性を貶めたり、蹴落とすことを強いられるという構図か。更に演出家はもうひとひねりを加える。即ち、このFlaminioを演じる長身で短髪のLaura Elphinstoneは、男装した女性として宝塚のスマートな男役のようにこの役を演じ、また原作にはないことだが、Flaminioには女性の恋人がいるように演じられているので、レズビアンということだろう。ジェンダーの境界を限りなくあいまいにした配役と役作りである。女衒という役回りに、そういう中性的、あるいはその時に応じて男にも女にもカメレオンのように変化できる人物を充てるのは上手いアイデアだ。

FlaminioはVittoriaとBraccianoという主人公たちを罪に陥れる悪魔の手先である。だとすると、演出家は、背が高く、くねくねとした肢体を持ち、黒い衣装に身を包んだElphinstoneを、アダムとイブをそそのかした蛇のイメージに重ねているのかもしれない。中世の絵画における蛇は、時に男、時に女の顔を持って描かれ、ジェンダーが定まらないのも、Flaminioと共通する。

この劇のステージを黒々とした色調の陰鬱なデザインでまとめることもできるだろうが、Naomi Dawsonのデザインはその逆で、基本的にまぶしいばかりの白々とした光線とシンプルな背景が特徴だ。まさに、The WHITE Devilである。地獄に落ちる前のルシファーと家来の堕天使達がまぶしい黄金の光に包まれていたことを思い出させる。ローマ・カトリック教会の本山、金色の僧服や装飾に輝くキリスト教の中心から、まさに地獄に転げ落ちようとしている人々のドラマ。

最後にこの劇を象徴するような印象的なFlaminioの台詞を一行:

“Of all deaths, the violent death is best.” (Act V, Scene II)

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