高度に専門的な議論に拘泥して、裾野を広げたり、わかりやすい議論をすることを怠ってしまった大学教師達。ふと気がついて足下を見ると、日本に仏文学研究を支えてきた裾野(つまり、フランス文学の愛読者、素人だけど玄人顔負けに関心のある人、仏文学大好きの熱心な学生などか)がなくなってしまっていたと、言われている。一部引用すると、
欧米文学研究者は、この20-30年の間に、欧米文学の紹介者、啓蒙者から、高度のテクノクラートになっていった。欧米の大学院で学位を取り、欧米の学会で発表し活躍する少数の知的エリートが生き残った。今、仏語や独語、あるいはそうした言語の文学の専門家として大学の専任教員になる人は、当該国で博士号を持っているのが当たり前になった。その一方、内田先生の言う「旦那芸」の延長のような学者は落ちこぼれの能なし扱いされつつあり、絶滅しつつある。全体としては、日本の大学において仏文学の学科はほとんどなくなり、学部の専攻分野として勉強できるところも非常に少なくなった。従って、日本で仏文学の大学院レベルの教育をして、専門家を養成する素地が消えてしまったということ。戦後、いや明治以降、先人が長年かけて築き上げてきた研究と人材育成の伝統が消えつつあるのだろう。寂しいことだ。他の歴史的理由もあるかも知れないが、私は(私をも含めた)専門家たちが「裾野の拡大」のための努力を止めてしまったからではないかと思っている。「脱構築」だとか「ポストモダン」だとか「対象a」だとか、難解な専門用語を操り、俗衆の頭上で玄人同士にだけ通じる内輪話に興じているうちに、気がついたら仏文科には学生がぱたりと来なくなってしまっていた。
時代の変化、高校生の変化、大学というものに対する考え方の世界的な変化、その他色々な理由はある。しかし、内田先生が反省しておられるような点もなかったとは言いがたいと思う。
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