2010/11/22

チョーサーを学び始めた頃

(昨日のエントリーに続き、学会に行って感じたことをMixiに書いたので転載します。)

昨日の学会で発表をした人に、Queen Mary, University of LondonのPh.Dの院生がいたが、チョーサーのテキストの引用を音読する時、ちゃんとMiddle Englishの発音で読んでいた。当然のことなのに、これがイギリスでは意外とめずらしい。彼の指導教授は有名なProfessor Julia Boffey。テキストの編纂などもして語学にも詳しい人だと思うので、ちゃんと発音も教えるのでしょう。こちらの中世英文学の先生は、MEも現代英語みたいに読んでしまう人が結構多い。でも現代英語にない語彙もあるし、綴りや屈折が甚だしく違う言葉もあるので、何だかごちゃごちゃした音読になり、詩としては体をなさないし、専門家としてそれではよろしくないと思う。それなら最初から現代英語訳か、綴りをモダナイズしたテキストを使えば良い。15世紀の過渡期となると、現代英語読みで済ませるのが良いかどうか、意見は分かれるかも知れないが。

それで感じたのだが、英米では分かって当然と思われているので、チョーサーなど中英語文学をやるのに、ちゃんと発音や文法を教えないことが多い。私がアメリカでチョーサーを習った時もそうだった。John Fisherの'Complete Poetry and Prose'を教科書に使っていたが、教科書には文法説明は表紙の裏にちょっと書いてあるだけ。各ページに語注がついてはいるが、グロッサリーは貧弱で、丁寧に理解しようと思うと分からないところだらけ。1回目の講義で簡単に音読の練習をやったら、すぐに文学的説明に入ってしまい、その後語学の解説は一切なしだった。その後、中世演劇を履修した時は、Bevingtonのアンソロジーが教科書だったが、あの本は、語の意味が横にちょっとあるだけで、グロッサリーもなかったと思う。だから、文学的な事は理解出来ても、英文の意味が分からないところが実に多いままでコースが終わってしまった。劇は中部か北部方言だし、Towneley Cycleなんか、かなり難しいところもあるのに。まあ、授業ではそういう細かい意味や古い言葉のことなどには、拘泥しないんだが、中世文学を学ぶのにそれでいいのか、とずっと思っていた。しかも、そういう授業だったのに、卒業試験の時には、チョーサーのテキストが少し出て、現代英語訳を書け、という問題だった!

一方文学としての解釈も、当時のアメリカでは、D. W. Robertson Jr.などに代表されるキリスト教的解釈が圧倒的な勢いで、私が習った先生の解釈も極めてキリスト教的であり、チョーサーは神父様か神学者かと思えた程だった。私は初心者ながら、何かおかしいと感じていたようだが、あの手の解釈がはっきり変だと感じるのには、その後長い時間を要した。ただ、「学部の授業では批評は読まなくて良いから、とにかくテキストを繰り返し良く読みなさい」、と教えてくれたのは、良かったと思う(私は院生だったが、チョーサーは学部の授業を取っていたので)。結局、中世文学に大変関心を引かれたのにも関わらず、基本的に読みこなすことも出来ないままになってしまった。

日本に帰ってきて、日本の大学院に入り、Sisam ('Fourteenth Century Verse and Prose")やBennet and Smithers ('Early Middle English Verse And Prose') を教科書として、語学的に細かくテキストを勉強して、やっとMEを正確に読んで意味を取ることことが出来、少しは分かったという自信もついて、胸のつかえが取れた。正確に言うと、自分で分かるところ、分からないところ、難しいところが判断できるようになった、と言えるだろう。また、小野茂・中尾俊夫、Mosse、Wright、その他スタンダードな中英語の文法書を読んで、やっとMEの構造が素人なりにも理解出来るようになってきた。その一方で、言語としての分析ばかりで、文学作品としての解説はほとんど受けなかったので、philology(史的言語学)の先生に教わった文学志向の学生には不満が残るだろうと感じた。私は文学的な事はアメリカで一応基礎をやっていたので、あとは自分で勉強する事が出来たが。

一般的に言って、日本の大学でチョーサーを習っている人は、和訳しつつでゆっくりとしか進まず、説明は語学的なことばかりで退屈に感じるかも知れない。英語圏諸国の大学で学んでいる人は、ネイティブに合わせた授業なので、日本人には、中英語そのものがかなり分からないままなのに授業はどんどん進み、フラストレーションが溜まるだろうし、試験やレポートが書けるか、常に不安がある。細かい英語の理解と作家・作品を見渡しての文学的解釈の両方が必要なんだが、バランスを取るのは難しい。ただ、これはどの科目でも言えるのだが,大学の授業はイントロダクション。授業が終わってから、深く理解したい本は、自分の足取りに合わせて、もう一度読んだり、調べ直したり、自分でやるほかないと思う。

と言うようなことを、昨日の発表を聞きつつ感じたり思い出したりしたので、書いてみました。ちなみに、チョーサーの作品をたくさん読む時に良い本というと、私は、A. C. Baughの'Chaucer's Major Poetry'が好きだ。かなり親切なグロッサリーや文法説明があり、註は脚注で参照しやすい。やはりこういう本は、昔の、フィロロジーの訓練を受けた大学者のエディションが信頼が置ける。

日曜とは言え、こんな駄文を書いている閑があれば勉強すべきなんだけど、ついつい・・・。大いに反省中 (^_^;)

(追記)Mixiで私の記事にコメントを書いて下さったチョーサー研究者の先生によれば、日本では近年チョーサーの若手研究者が減っているとのこと。確かに、学会のプログラム等を見ると、そういう印象だ。若手の人を育ててきたチョーサーの大家が段々と現役を引退されたり亡くなったりして、後進の研究者が育たず、いつの間にか寂しい状態になってしまったのだろうか。著名な先生の退職と共に、中世文学の先生のポストが廃止された大学もあるし、そもそも英米文学科がなくなることも長らく続いているから当然か。残念。シェイクスピア研究者は沢山いるんだけどなあ。この先生によると、近年は割合マイナーな作品を取り上げる研究者が目立つとのこと。その方が国際的にも通用する論文を書けるためだろうか。"Piers Plowman"なんか、本格的に研究している人は、現役の先生では3人も居ないだろう(間違っていたらすいません!)。実は私は一人しか思い浮かばない。あれだけの傑作なのにね。一方で、初期印刷本や写本の研究は大変盛んになった。これは大事な事だと思うが、しかし、チョーサー、ラングランドというイギリス中世文学の大作家の作品を文学作品として研究する人が少なくなって良いわけがない(と思いたい)。しかし、古英語、中英語の語学研究では、日本の学会で養われてきた伝統は綿々と続いて、立派な研究者を輩出しているので、喜ぶべき事と思う。


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