2014/01/26

放送大学の井口篤先生の論文:「伝えるということー公開遠隔教育、ICT、そして教養教育の苦境ー」を読んで 

世界の大学が、そして大学における人文科学の教育・研究さえも、数値化され経済的利益に繋がらないと存在価値が失われそうな昨今だ。そして、組織としての大学、学習の場所としてのフィジカルな大学という場も、MOOC(インターネット上の無料の大学コース)やその他のデジタル教育によって、無用と言われかねない時代になっている。日本の放送大学やイギリスのOpen Universityは、その性格上、まさにそうした大きなうねりの中心で揉まれていると言っても良い。 

そのような場所から、日本の放送大学の専任教員として、そして中世英文学という、正に「数値で測れない」、「お金にはならない」学問分野の研究者として、デジタル時代における人文科学の存在価値を論じた井口篤放送大学准教授の論文に、大変感銘を受けた。 

特別に新しい事が書いてあるわけでは無いが、中世における大学の成立、19世紀における人文教育の革新などを踏まえ、また、アラン・ベネットの傑作戯曲『ヒストリー・ボーイズ』における名物教師ヘクターの言動や、古典学者ジョージ・スタイナーの、ニューヨーク大学の夜間成人学級での素晴らしい体験、マイケル・クッツェーの『エリザベス・コステロ』の一節などを引用しつつ、学問的かつ文学的に、人文科学教育の存在意義を探っている。若い先生で、教育学がご専門でもないのだが、古今の名作に目配りした広い教養と視野に感銘を受けた。まさに井口先生自身の広く深い教養が、人文学の価値を証明していると言っても良いだろう。 

英語なので、日本では多くの読者は獲得出来そうも無いのが残念。日本語でも発表してほしいと思った。 

論文のPDFはこちらからダウンロードできる。

※ICT: Information and Communication Technology

2014/01/19

無料のオンライン大学講座(MOOC)

2、3年前、MOOCと略される大学の無料オンライン講座 (Massive Open Online Courses) を知り、凄い時代になったな、と思ったが、今やあまねく知られることとなった。今日1月19日の朝日新聞日曜版Globeの大学特集でも、議論の出発点として、冒頭の記事で取り上げている。オンラインで無料講座が配信され始めれば、莫大な授業料を払って従来の大学に入学する意味とは何か、当然問われざるを得ない。しかし、この現象はMOOCで突然始まったことではない。イギリスのOpen Universityとか、日本の放送大学などを始めとする放送メディアを使った安価な高等教育は既に定着しており、更に、オンライン講座で国内は勿論、世界の大学の学位が取れる環境もかなり整ってきている。特に人文社会分野では、かなり広く専門的な分野の勉強が出来る。しかし、MOOCの新しいところは、これらの講座が無料であることだ。

但、MOOCに加わっている大学も何の目的もなく無料にしているわけではないだろう。これらのオンライン授業を入り口にして、自分の大学に世界中の優秀な学生を引きつけようとしていたり、志願者数を増やそうとしたり、大学の宣伝と考えていたりと、社会へのサービスであると共に何らかの功利的な動機はあるだろうと思う。

MOOCによって日本の一般的な大学が大きな影響を受けるだろうか。ある程度の影響はあるだろうが、脅威を感じるほどでは無い、と私は思う。現在の学部教育は、小学校以来の全人的な教育の最終段階という意味が非常に強い。例えかなり大人数でも、対面授業で教師と学生がお互いの顔を見、声を聞きつつ、同じ時間と空間を共有することで成り立っている面が大きい。これをオンラインで代替することは出来ないだろう。一方、大学院レベルの学位や授業、あるいは、学位を欲しい訳ではなく、特定の技能とか資格取得に特化した教育を受けたい社会人などにとっては、MOOCは大変便利だろう。但、そうした「おいしい」分野をまるごと無料で受講させるほど、大学もお人好しではないと思う。まずは、入門講座などを無料配信し、残りは有料講座でどうぞ、ということになるのでは? あるいは、講義を視聴するだけなら無料だが、練習問題やレポートの添削まで付くと有料、修了証や認定証を出すと更にエクストラの費用、といった具合になるかもしれない。あるいは、受講生から料金を取るのではなく、企業や公共機関をスポンサーとして、広く無料で教育を行うということも考えられる。例えば福祉関連の講座などでは、ボランティアや専門のケアワーカーとして地域に貢献できる人材を養成したい地方公共団体とのタイアップなど考えられる。

さて中世英文学でもMOOCはあり、一部利用したいと思わないでもないが(例えばこれ)、画面を1時間以上見ていると目が痛くなり頭痛もしてくる私としては、オンライン講座はフィジカルな面でダメだわ。オンラインでは、紙に皆印刷しない限り、興味深い中世関係のブログを読むくらいで精一杯。それも長めの英文ブログは印刷してから読んでいるくらいなんです。

2014/01/10

カンタベリー大聖堂図書室が所蔵する最も古い印刷物

カンタベリー大聖堂図書室にある一番古い印刷物:Ackerman von Böhmen, (『ボヘミアの農夫』、 別名 Der Ackermann und der Tod、『農夫と死に神』、作者はおそらくJohannes von Tepl (c. 1360- c. 1414) )が、大聖堂のウェッブサイトで公開され、また解説されています。解説者はフランス文学研究者で書物史の専門家でもあり、ケント大学の引退された先生のDavid Shaw博士。

この刊本は1463年頃、現在のドイツ南部のババリア州の都市、バンベルグ(Bamberg)で、ドイツ人の印刷業者、アルブレヒト・プフィスター(Albrecht Pfister (c. 1420 ‎‎‎‎‎‎‎‎‎‎– c. 1466) )によって印刷されました。但、カンタベリーにあるのは上記のウェッブサイトに掲載されている1葉(2ページ)のみです。プフィスターという人はバンベルグ市でおそらく10冊程度、印刷物を刊行していて、その最初の本がこれだそうです。彼は、ヨーロッパにおいて、ラテン語以外の近代語(彼の場合、ドイツ語)の書物を始めて印刷した人で、また、印刷物に木版画を組み込んだのも彼が最初だそうです。この本にも木版画が入っているのですが、残念ながら、カンタベリーの1葉には含まれません。プフィスターは、この他に、ドイツ語とラテン語で、聖書の絵本とでも言うべき本『貧者の聖書』(Biblia Pauperum)などを印刷しています。 

有名なグーテンベルグのラテン語聖書の刊行が1455年ですから、1463年刊とは、かなり古い本です。ちなみに、1460年頃のバンベルグにおいて、プフィスターはグーテンベルグと何らかの関係があったとも考えられるそうです。しかし、使った活字は、グーテンベルグ聖書とは異なった字体をもっているようです。 

フランスの国立図書館ビブリオテック・ナショナルにはプフィスターの書物(断片では無く)が保存されていて、ウェッブで公開されています。こちらは版画も付いています。

面白そうなので、この本の現代英語訳もいつか読んで見ようと思います。こちらのサイトにあります。翻訳、およびこのサイトの作成者はMichael Haldane博士。

2013/11/12

映画『あなたになら言える秘密のこと』("The Secret Life of Words")


『あなたになら言える秘密のこと』("The Secret Life of Words")
          スペイン映画、2005年、日本公開2007年

監督・脚本:イザベル・コイシェ
制作:アウグスティン&ペドロ・アルモドバル、エステル・ガルシア
撮影:ジャン=クロード・ラリュー

出演:
サラ・ポーリー (ハンナ)
ティム・ロビンス (ジョゼフ)
ハビエル・カマラ (サイモン)
エディー・マーサン (ビクター)
スティーブン・マッキントッシュ (医師)
ジュリィー・クリスティ (インゲ、心理カウンセラー)

☆☆☆☆ / 5

しばらく前に、イザベル・コイシェ監督、サラ・ポーリー主演の『死ぬまでにしたい10のこと』を見て、とても感銘を受けたので、同じ2人、そしてまたアルモドバル兄弟(アウグスティンはペドロの弟)が制作で協力したもう一つの作品のDVDを買って、見た。スペイン映画だが、英語の作品。舞台も主にUK。

ストーリーは:
過去の苦難の記憶を胸に秘め、誰とも言葉を交わすことなくひたすら孤独な毎日を送る若い女性、ハンナ。工場でも黙々と仕事をこなす彼女だったが、ある日、働き過ぎが問題となり、無理やり1ヵ月の休暇を取らされてしまう。宛てもなく長距離バスに乗り込んだ彼女は、ひょんなことから海の真ん中に浮かぶ油田掘削所でジョゼフという男性の看護をして過ごすことに。彼は事故でひどい火傷を負い、一時的に視力を失っていた。それでもユーモアを失わないジョゼフは彼女に名前や出身地を質問するが、ハンナは決して答えようとしない。この油田掘削所で働いている男たちは、それぞれに事情を抱えた者たちばかり。閉ざされた空間でそんな風変わりな男たちと生活を共にするうち、ハンナも少しずつ人間らしい感情を取り戻していくが…。(粗筋はwww.allcinema.netより引用)

見始めてすぐに引き込まれた。静かな始まりだが、主人公の日常の一コマ一コマ(工場の風景、ひとり暮らしのアパート、上役との面接、そして、バスの中や海辺のホテルの一部屋等々)が何故か印象的。私の好きな俳優、エディー・マーサンが出て来て、これからどうなるのかな、とワクワク。でもその後は、静かに静かに物語が進む。主な舞台は海上の油田基地。事故で火災が起こりその後は掘削を停止中。そこに残った10人にも満たない男達とハンナの静かな日々。火災で大やけどや骨折をし一時的に失明してもいるジョゼフの看護に、今は工場労働者だがかって看護婦をした経験のあるハンナが派遣される。どちらも心に深い傷を負ったふたりが、共に取り返しのつかないトラウマに悩まされているだけに、お互いに対し徐々に心を開いていける。

そこまでは、ありそうなストーリー。飾り気の無い演出と、俳優達の名演が楽しいが、ついうとうとした時もあって、5分くらい前に戻って見なおしたりもした。しかし、終わりに近くなって、ハンナが過去の話をしはじめたところで、それまで伏されていた彼女の過去に、聴衆は愕然とする。今の彼女の静かな日常と、彼女の語る過去とのギャップは凄まじい。

目の前で苦しむジョゼフの大火傷や失明が、ハンナが負った過去の心の傷の一種のメタファーとして機能しているように思う。ジョゼフが置かれている盲目の暗闇や全身の痛みは、ハンナの心の鏡のようだ。

真面目すぎて休暇を取らないハンナは、勤務していた工場の管理職の男に、南国のビーチなどに出かけて長期休暇を取るように勧められた。しかし、彼女の出かけたのは寒々しい北の海辺。北海の大海原に、鉄の櫓に支えられてぽつんと立つ油田基地が、ハンナにとって、そしてそこで事故に遭ったジョゼフにとっても療養所か保養地のような役割を果たす。外国人、同性愛者、孤独な海洋学者、地上勤務になじめない物静かな管理職など、普通の暮らしからはみ出てしまった者達が、平和に共存し、そうあるべき世界のミクロコスモスを作る。北の海の絶え間なく押し寄せる波や、甲板にたたきつける雨が、不思議な優しさをかもし出す。

見終わって直ぐ、ほとんどの部分をもう1回見た。

映画としては、観客を惹きつける力がどれだけあるか、やや疑問に思う人もあるかもしれない。ハリウッドの娯楽作品のように、観客を始終惹きつけようとする作品では無く、見る側も理解しようとする努力が必要。ハンナやジョゼフ以外の登場人物の人生が持っている小さなドラマは印象的だが、それらが有機的に組み合わされてひとつに収斂するわけでもない。しかし、無理矢理エクサイティングにせずに、散文的で、ハンナとジョゼフのドラマの背景を作るだけのところが、かえって自然で、良いとも思える。

主役の2人はもちろんだが、エディー・マーサン、スティーブン・マッキントッシュ、ジュリー・クリスティなどのイギリス俳優の脇役がとても個性的で素晴らしい。

ハンナが語る自分の過去やナレーションとして出てくる子供の語りがどういう風に事実を反映しているのか、良く分からないところがある。トラウマを覆う深い霧のように、過去の傷が見え隠れしつつ終わる。いくらか曖昧なまま残して見る者に考えさせ、容易い解答やカタルシスを与えないのは、脚本も自ら書いたコイシェ監督の意図だろう。誰しも見て損はない、私達の多くがテレビで見、新聞で読んだ現代史を思い出すためにも。そして同じ事を繰り返さないためにも。

(付け足し)ちょっと面白かったエピソード:
・ハンナの勤めている工場の管理職(工場長か)、自分が行ってみたい南国旅行のツアーのパンフレットを山ほどため込んでいて、ハンナに、行ってみたら、と勧める。
・ビクター(エディー・マーサン)とハンナが中華らしきものを食べている店、Jポップが流れていたみたいだ。
・ビクターは、ハンナを車に載せた時、「散らかっていてごめん」と謝ったり、「汚くないか」と尋ねる。小さい子供がいてオモチャとか縫いぐるみとかが散乱しているし、子供のもどしたものが残っていたりするらしい。こういうディテールって、さすが女性の書いた脚本だね、と感心した。
・ハンナはもの凄い潔癖症か?大きい四角の石鹸を自宅に山ほどストックしており、いつも新しい石鹸を使い、多分1回使うと捨てるらしい。でも、看護婦として患者の下の世話なども平気で出来る。あの石鹸、欲しいなと思った。
・ジョセフは溲瓶でハンナに小水を取ってもらうが、その時、彼は言う、「子供の頃、お袋に最後の一滴までちゃんと出しなさいと言われたよ」。そうなんだよね、トイレを汚したり、パンツやズボンがおしっこ臭くなっちゃいけない、とお袋に良く言われたものだ(^_^)。
・機関士のふたりはむさ苦しい、毛むくじゃらで、洒落っ気なしで、無礼な言葉使いの労働者。外国の洒落た料理を作るシェフのサイモンに文句たらたらで、バーガーとフライドポテトにしろ、とうるさい。彼らはそれぞれ陸の上には愛する奥さんと小さい子供たちを持っていて、ハンナに写真を見せて悦に入ったりする。それなのに、お互いに首ったけ。ひとりが「人生は分からん」と言う台詞が素晴らしい!こういう小さなディテールの積み重ねがこの映画をとても暖かく、面白いものにしていると思う。

なお、主演のサラ・ポーリーはカナダ人だが、政治活動でも知られた人のようだ。地元の社会民主主義政党、Ontario New Demoratic Partyを支持し、選挙運動に協力したりしてきた。デモに参加して警官に殴られ、歯を折られたこともあるそうだ。彼女は映画監督としての仕事もしている。その一作、"Away from Her" (2006) は2013年にノーベル賞を受賞したカナダ人小説家アリス・マンローの短編小説に基づいた映画である。

2013/11/06

アメリカの友人へのメールと福島原発処理の恐怖

先日、学生時代に知り合い、それ以降40年近く通信が続いているアメリカの友人から久しぶりにメールを貰ったので、自分や家族の近況などを知らせた。その折、日本の様子について書いているうちに原発の事にも触れざるを得なかった。親しい友人への私信として書いたものなので、いささか穏やかでない言葉も混じっているが、かえって私の偽らざる気持ちが現れているとも言える。英語だが、その原発についての部分を、ここにも載せることにしたい。

以下はその文章:

I am very angry with our stupid government which still pursues the energy policy using nuclear power despite the disastrous Fukushima accident. The accident itself is still very much an ongoing affair, and even if things go as they planned, it would take decades or perhaps more than a hundred years to contain it completely and reach the end of it. The melted core of the reactor is still in there, extremely hot and constantly emitting deadly radioactive materials which contaminate the underground and sea water around the plant. The scientists don't really know what to do with it, and they are forced to find new technological methods as they go forwards. Thus it really could turn worse again and threaten the safety of the Tokyo area if they fail to contain it. We have about 50 nuclear plants in this earthquake- and typhoon-infested country. It is a modern doomsday come true! I think we Japanese are in a collective amnesia, allowing our God-forsaken government to keep nuclear power plants. 

福島では安全な廃炉の見通しもつかず、地下水を汚染し、海に放射能を垂れ流し。海底や海産物はどんどん汚染されているだろう。一両日中にも始まるらしい4号機の1533本の使用済み燃料棒の搬出は、やらなければならないことらしいが、気の遠くなるような長く危険な作業。その間にいつ大事故が起こるかも知れず、日本のマスコミはわずかしか報じないが、他国では大変不安視しているようだ。私の友人には、事故が起こった時にどうしたら関東地方から逃げられるか真剣に悩んでいる人もいる。危険度については私にはわからないが、それについては京大の小出先生の話を聞いて欲しい。もしこの燃料棒が浸かっているプールが大地震などの事故で壊れて汚染水が周辺に流れ出てしまうと、首都圏全体が汚染の危機にさらされるくらい危険らしい。問題は、この作業がどのくらい大きな不安要因があるか、どのくらい危険かということを、素人の国民がほとんど理解していないし、政府もマスコミも知らせようとしていないということだ。更に、4号機の燃料棒は何とか取り出せても、既に炉芯が溶けて崩れている炉では、安全な炉の解体なんて夢のような話ではないだろうか。小出先生によると、今現在、その解体の技術はないそうだ。結局チェルノブイリみたいに、鉛漬けにして被ってしまうのか?その鉛などの壁も何十年か毎に取り替えねばならない。そうこうしているうちに、また福島を大地震が襲わないと誰が言えるだろうか?でもとにかく廃炉に向けた作業は進めて貰うより仕方ない。属する組織は何であれ、現場で奮闘する方々の懸命の努力には頭が下がるし、感謝したい。

東北大震災による原発事故で一歩間違えば首都圏全体が避難を迫られるような爆発になったかもしれなかった。それなのにまた原発を推進し、トルコのような地震国にまで売ろうとする政府、原発再稼働の推進をする連立政権を支持する多くの国民・・・。原発が無ければ電気の供給が不安定になったり、電気代がどんどん上がり、企業はやっていけない、と言われる。原発なしなんて、机上の空論とか、非現実的とも。しかし、目先の経済がどうなるか、というレベルの問題じゃ無いと思うが・・・。本当に東日本に住む私達自身の命の安全、そして特に小さな子供達の未来がかかっている問題だ。私も小さな子供がいたり、子供を作るつもりの若い夫婦だったら、関西以西に転職しようと必死になったかも知れない。

先々、炉芯が溶け出た炉がどうなるかは更に心配だが、まず始まるのは、4号機の燃料棒1533本 (!) の取り出し作業。これは来年いっぱいかかるらしいが、日常の雑事で紛れはしても、気が気じゃない。何だか、毎日ロシアン・ルーレットを見ているような・・・。

これを書いていて連想したのは、毒をはき続けながら暴れるドラゴンに単身戦いを挑んで、ドラゴンを退治はしたが、自らも命を落とすベーオウルフ。ドラゴンが何故暴れたかって?盗人が宝の塚から宝を盗んだから。放射能をはき出しながら暴れ続ける原発は、人間の思い上がりや強欲が生んだ、本当に黙示録的な怪物だ。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』も思い出させるし、何より新約聖書のヨハネ黙示録を再読してみようと思った。

2013/10/21

『エドワード二世』(新国立劇場、2013.10.20)


無いものねだりはするが、貴重な公演であり、楽しめた
『エドワード二世』 

新国立劇場公演
観劇日: 2013.10.20   13:00-16:00
劇場: 新国立劇場小劇場

演出: 森新太郎
原作: クリストファー・マーロー
美術: 堀尾幸男
衣装: 西原梨恵
照明: 中川隆一
音楽: 藤田赤目

出演:
榎本佑(エドワード二世)
中村中(イザベラ)
下総源太郎(ギャヴィストン)
安西慎太郎(エドワード王子)
窪塚俊介(ケント伯エドマンド)
原康義(ウォリック、ウィンチェスター司教)
大谷亮介(ランカスター、修道院長)
木下浩之(ペンブルック、トラッセル)
大鷹明良(アランデル、マトレヴィス)
中村彰男(レスター)
瑳川哲朗(モーティマー・Sr)
石田佳央(モーティマー・Jr)
谷田歩(スペンサー)
長谷川志(ボールドック)
石住昭彦 (カンタベリー大司教、ガーニー)
小田豊 (コヴェントリー大司教、ボーモント、エノーのサー・ジョン)
木下浩之 (トラッセル)
西本裕行 (ライトボーン)

☆☆☆☆ / 5

沢山の俳優、豪華なステージ・セット、やはり新国立は日本の舞台としてはお金がかかっている。しかもこの珍しい演目を選んだ事も大いに評価したい!幾つか気になることはあったが、それでも終わってみればかなり楽しかった。

プロットについては、新国立劇場のホームページにもあるし、私がこの夏ナショナル・シアターの"Edward II"を見た時の感想でも書いているので、それらをどうぞ。

全体が黄金に輝くステージ、時々運び込まれる巨大な王座も黄金。きらびやかでもあり、けばけばしくもある。豪華な王宮のようでもあるが、歌舞伎町、新宿2丁目やソーホーのクラブに迷い込んだとも感じる。時々、特にギャヴィストンの登場と共に流れるあやしげで安っぽい音色のサックスの音楽がそのキャバレー風の雰囲気を強める。そのギャヴィストンは、イザベラの取りなしで追放を解かれて呼び戻された時、カーニヴァルの踊り手のような、ドラッグ・クイーンの扮装で腰を振りつつ現れる。但、演じるのは中年のおじさんである下総源太郎なので、その効果はまったくエロティックではなく、コミカル。

良くも悪しくも榎本佑の作るエドワード像によってこの公演の好き嫌いは分かれるだろう。彼独特の、あるいは彼のお父さんも持っているあの脱力感、動作や台詞において常に少し的を外し、かる〜い息を抜いた演技で見せる。他の役者達、特にモーティマーやランカスターなどの大貴族達がひどく力を込めた怒鳴るような台詞の言い方をするので、それとくっきりした対称をなすように意図されているのだろう。エドワードはマーローの台詞自体からして弱々しい王だが、一方で愚痴っぽい人間に良く見られるように、妙に厚かましいところ、粘着質なしつこいところもある。榎本のエドワードはそのキャラクターを一層掘り崩し、愚痴を言い、自己憐憫している自分を自ら笑い飛ばす。しばしばずる賢そうな油断無い視線を飛ばして、弱さと同居する図太さ、計算高さを強調した性格付けだ。芸人のように弱さを自己演出したこのエドワードは、その意味で謂わば道化の王、フール・キングと言えるだろう。新宿のドラッグ・クイーンのような(?)ギャヴィストンとペアになると、まさに芸人ペア。

但、このような脱力感を特徴とするエドワードを延々と見せられ、ギャヴィストンの追放、帰還、追放、帰還、と続くと、それで無くとも結構長い前半、かなり単調になり、退屈した。インターバルに入った時点で、正直、「うーん、榎本エドワードは面白いキャラクターだけど、劇としては何だか面白くないなあ」と感じた。一因としては、中年おじさんの下総ギャヴィストンに魅力を感じない。酔っ払ったあか抜けないオヤジの宴会の座敷芸みたい・・・。他にやり方は無かったのか・・・。下品であろうが、やはり若く美しく妖艶なギャヴィストンであったら、と思わざるを得なかった。例えば、スペンサー役の谷田さんと代わっていたらどうだろう?

残念に思ったのが、大貴族達、特にモーティマーやランカスターが矢鱈と怒鳴ること。野外公演でも大劇場でも無いんだから、何故あれほど怒鳴らせるんだろう。1人ならともかく、貴族皆が声をからして怒鳴るから、これは演出家の意図だろう。脱力感の王とのコントラストを狙うのは分かるが、正直言って耳鳴りがした。特に小さめの劇場では、声を張り上げないで上手く強弱をつけながら怒りや威嚇を表現するのが俳優の技量であると思うし、貴族を演じた人達はキャリアを積んだ芸達者が揃っているのだから、充分にそれが出来たはずなんだが、ご本人達も納得してないのでは? 静かでありながら恐ろしい、迫力を感じる、というのが一番凄みがあるはず。

イザベラの中村中はすくっと立った姿勢とスタイルの良さが美しくて、とても見栄えのする王妃。声も歌手だけあって響きが良く、丁寧な台詞回しで聞き取りやすい。ただし、丁寧に台詞を言うあまり、感情が充分伝わってくるところまで至っておらず、教科書に忠実な優等生の演技という印象。もっとスマートさをかなぐり捨てた毒が欲しい。一方、キャラクター造形に好き嫌いはあっても、榎本エドワードの台詞の巧みさには感服し、大きな拍手!ルネサンス劇の、日本語としては言いづらい台詞を、とちる事も無く実になめらかに言ってみせる。天賦の才能!

最後だったので特に残念だったのが刺客ライトボーン。役の名前からしても動きの軽快な若者にこの役を振って欲しい。Lightbornとは悪魔ルシファー(Lucifer)の英語名。イギリス演劇では、悪魔はステージを飛び跳ねる身軽さが特徴だ。老人の役者さんには合っていない。更に、まるで歌舞伎の千両役者みたいなもったいぶった大見得。彼の台詞のおかげで最後にかなりガクッときた。大ベテランの重すぎる演技に、演出家は遠慮して口出しできなかった、というのは考え過ぎ?

全体に俳優の平均年齢が高すぎで、台詞のトーンも演技も重すぎる。蜷川シェイクスピアでもそうなんだが、ルネサンス劇の台詞を安心してゆだねられる常連の役者がかなり固定化している感じがし、同じ顔ぶれが長年繰り返し出ていて、自然と年齢が上がってきている。元々大変上手な人達でも、やはり年取った人が多くなりすぎるのは問題だし、自分達では意識して無くても、演技も台詞もスローになってくる。AUNなどの活動が貴重だが、シェイクスピアなどの経験の豊かな俳優や小劇団がもっと必要なのでは?あるいは演出家がもっと広く目配りして若いキャストを発掘して欲しい気がする。

とまあ、幾つか気になったことを書いたが、後半、国政の変転が加速してテンポが良くなり、悲劇性が増してくるとかなり引き込まれて、終わった時には満足感が残った。あの脱力感にはいささか疑問を感じるが、それでも榎本佑の役者としてのレベルの高さは感じた。一方、下総さんの技量を問うというわけでなくて、ギャヴィストン役の俳優の選択、そしてモーティマーやランカスターなどの台詞のデリバリーには工夫が欲しかった。

河合先生の翻訳は、聞いて分かりやすく、言うにも言い易そうな、日常的日本語の訳。しかし、この劇の内容からそうなる面もあるかとは思うが、ルネサンス劇の詩の優美さを伝えている感じはしない。

この夏ナショナル・シアターで見た時は、英語なので私には台詞の細部は分からないままになってしまったが、今回翻訳で聞いて、この劇が如何に階級の差を強く問題にしているか実感した。成り上がり者のギャヴィストンやスペンサーと、モーティマーを始めとするバロンの対立こそ、劇の最大の要点なんだな。歴史上は、ギャヴィストンもスペンサーもジェントリーであり、"lesser nobility"と呼ばれる下級貴族なわけだが、そうした点は抑えられ、彼らの身分の低さ、その卑しい身分に伴う下劣な品性(ホモセクシュアリティーもその一部)が繰り返し貴族達により強調される。確かにギャヴィストンは下品な男だが、一方で、モーティマー・Jrに代表される貴族達は、権力に飢えた醜悪なモンスターだ。靴屋の息子として生まれ、ボールドックのように、学問と才能、そして権力に取り入ることでのし上がってきたマーロー自身の半生が重なって見えた。更に、大貴族による国政干渉を出来るだけ退け、ジェントリーを国政や地方の要職につけ、また法律家などの知識層を側近として重用したチューダー朝政治を反映してもいるのだろうか。

(追記)その後、この劇についての幾つかのブログの感想や、プロの批評家が書いた新聞の評など読んだ。その中では、シェイクスピアなどの研究をしておられるsaebouさんの評が同感だったり、教えられる事が多かった。追放を解かれて王宮に帰還したギャヴィストンの緑の衣装は、アイルランドから帰ったからなのか。ハハハ。

2013/10/19

映画『死ぬまでにしたい10の事』 ("My Life without Me")





家族への愛と最後の恋愛:
『死ぬまでにしたい10の事』 ("My Life without Me")
(2003、カナダ・スペイン映画)

監督:イザベル・コイシェ(コヘット) [Isabel Coixet]
脚本:イザベル・コイシェ
制作:ペドロ・アルモドバル
音楽:アルフォンソ・ヴィラロンガ
撮影:ジャン=クロード・ラリュー


出演:
サラ・ポーリー (アン)
スコット・スピードマン (ドン、アンの夫)
デボラ・ハリー (アンの母親)
アルフレッド・モリナ (アンの父親)
マーク・ラファロ (リー、測量士)
レオノール・ワトリング (アンの隣人)
ジュリアン・リッチングス (トンプソン医師)
アマンダ・プラマー (ローリー、アンの同僚)
マリア・デ・メディロス (美容師)

☆☆☆☆ / 5

今月初め新聞のテレビ欄を見ていて、NHKの衛星放送でこの映画の放送予定を見つけ、制作者が私の好きなアルモドバル監督であったので、録画しておいて、先日見た。

(粗筋)
「23歳のアンは、母親の家の裏庭にあるトレーラーハウスで失業中の夫と幼い2人の娘と暮らし、時間に追われる忙しい毎日を送っていた。だがある日、彼女は突然腹痛に襲われて病院に運ばれる。そして検査の結果、医師から余命2ヵ月の宣告を受ける。若さのせいでガンの進行が早く、すでに全身に転移してしまっていた。アンはこのことを誰にも打ち明けないと決意し、ノートに死ぬまでにしたいことを書き出していった。それはちょうど10項目になった。そしてその日から、彼女はその秘密のリストを一つずつ実行していくのだった…。」(www.allcinema.netより引用)

アルモドバルの映画では無いが、彼が制作を引き受けただけあって、なかなか感動的な作品。彼の作品に見られるようなちょっとファンタジックなおとぎ話風の面があり、逆に偶然が重なりすぎるなど、リアリティーに乏しくて不自然という感想も出てくるだろう。現代の寓話と言えるだろうか。昔いくらか読んだラテンアメリカの小説などを思い出しつつ、文学でも映画でも、スペイン語圏の物語って、英語圏の物語よりもファンタジックな面が強いのかなと思ったりしている。逆に言うと、英米、特にイギリスって、他国の物語と比べ、身も蓋もない現実的な話が多いという気もする。

さて、アンは17歳の時に最初の子を出産し、多くのミドル・クラスの子が高校・大学で青春を楽しむ時期を、生活と子育てに追われつつ、貧しいながら必死で生きてきた。夫はお人好しで、彼女を大変愛し大事にしてくれるが、映画が始まる時点では失業中で、生活は不安定。彼女自身も大学の掃除婦として働いている。父親は長らく刑務所に入っており、妻(アンの母)とも娘のアンとも絶縁状態。その母親は彼女を愛し、孫娘達の世話などサポートしてくれているのだが、とても陰気な性格で、いつもネガティブなことばかりいうので、顔を合わすと気が滅入る。

というような暮らしのアンが、突然あと2ヶ月しか生きられない、と宣告されたのだからたまらない。これまでだって、ろくに「生きた」という充実感の無い生活を送っていたわけだから。彼女は癌の事を誰にも知らせず、しばし呆然としているが、夜中のカフェでノートを取り出して、標題通り「死ぬまでにしたい10のこと」を書き出す。全部は思い出せないが、例えば「ヘヤー・スタイルを変える」とか、「家族と海岸に行く」なんていう日常的なこともあれば、「刑務所の(絶縁状態にある)父親に会いに行く」、「子供達が18になるまでの誕生日のメッセージをテープに吹き込んでおく」というような重いものもある。そうした中でも最も重要なことは、「新しい恋をする」こと。そして、リーというひとり暮らしの測量士とそのカフェで出会い、恋に落ちる・・・。このあたりは、かなりご都合主事的なプロットだが、これはおとぎ話であると考えるべき。

突然死を宣告されて、わずかな残された期間をどう生きるか真剣に考える、というお話というと、黒澤明の『生きる』を思い浮かべる人が多いに違いない。それ以外にも、文学や映画、テレビ・ドラマなどでたくさんありそうだ。現実にだって、こういう事は誰にも起こりうる。いや、大多数の人は人生で一度は、程度の差こそあれ、こういう切羽詰まった気持ちを経験するのでは無かろうか。大変ユニバーサルな状況設定だ。これのもっとも原初的な形が、中世道徳劇、『エブリマン』とか『マンカインド』。そうしてみると、アンを取り巻く人々も、どこか中世道徳劇風の寓意的な人物に見えてくる。中世劇だと、例えば、「好色」、「友情」、「悔悛」、「物欲」、「慈悲」等々の寓意的人物が、死を宣告された主人公に近づいて来て、彼を誘惑したり、諭したりする。主人公は色々と懊悩を経た挙げ句、最後には悔悛の上で、神に召されることになる。カトリックの教えを伝える教訓的な劇であるから、結論は現代の映画とは大きく異なるが、構造は似ている。もちろん、現代のこの映画では、主人公アンは、自分の生きた証しを家族の心に刻みつけ、また家族が平和に愛に満ちて生きられるように出来るだけの事をする。と同時に、これまでに出来なかった自分の人生の為のささやかな希望を実現しようとする: ヘヤー・スタイルを変えてみようというのはそのひとつで、実に慎ましい。しかし、誰にも内緒で恋人を作りセックスまでしたのは、かなり大きな決断で、この映画の一番のクライマックス。夫は良い人で、彼女や娘達を充分に愛してくれ、浮気をしたりはしない。でも、何の説明も無いが、彼女の「私の人生、これで良かったのかしら。このまま死んでしまったら悔しい」、という気持ちが切なく伝わってきた。1人の人間の人生にとって、家族への愛と並んで、男女の(あるいは、ひとによっては同性への)性愛というものが如何に大事かを強く感じさせる作品だ。

日本人が作ると非常にセンチメンタルになりそうな題材だが、淡々と、まるでビデオ・ダイアリーのように撮られているところが大変良く、いささか不自然な設定を補っている。つまりおとぎ話をドキュメンタリーのように撮っているのだ。死の直前の苦しみなど、具体的に肉体の死にいたる局面は描かれていないので、不十分と感じる観客も多いかも知れないが、そこはおとぎ話と考えるよりないだろう。ロケの場所はバンクーバーらしいのだが、土地柄を感じさせない。ロンドンとか東京、パリなど、その場所に個性のあるところよりも、ロケ地の無機質さが、道徳劇のような一般性を強めていて良い。

20歳位の若い人、働き盛りで落ち着いて人生を考える暇のない多忙な世代の人、そして私のように老境にさしかかり自分の死を現実として感じ始めた(あるいは感じている)人、人生の色々な段階にいる人にとって面白いと感じさせる要素を持っていると思う。