『終わりよければすべてよし』
彩の国さいたま芸術劇場公演
観劇日: 2021.5.16 13:00-15:45(15分のインターバル含む)
劇場:埼玉芸術劇場 大ホール
演出: 吉田鋼太郎
原作: ウィリアム・シェイクスピア
美術: 秋山光洋
衣装: 西原梨恵
照明: 原田保
音楽: 角張正雄
出演:
バートラム:藤原竜也
ヘレン:石原さとみ
デュメイン(弟):溝端淳平
デュメイン(兄):河内大和
ラフュー卿:正名僕蔵
ダイアナ:山名花純
ルシヨン伯爵夫人:宮本裕子
バローレス:横田栄司
フランス王:吉田鋼太郎
☆☆☆ / 5
最後にいつどこの劇場で演劇を見たか思いだせない。そのくらい久しぶりに劇を見た。近年、ブログも途絶えがちになっているので、記録も取っていない。そのくらい久しぶりに出かけた今回の舞台は非常に刺激的で、シェイクスピアなので色々と考えさせてもくれ、大変楽しめた。吉田鋼太郎さんを始め、埼玉芸術劇場の劇場関係者、そして俳優やスタッフの方々には、このコロナウィルスが広がる難しい状況下で公演して下さったことに深く感謝したい。また、この上演は、埼玉芸術劇場のシェイクスピア全作品上演の最後の作品。1998年に始まり、23年間、全37作品の最後にあたる。記憶力が乏しいので覚えてはいないが、おそらくほぼ全部の上演を見てきた私としても、かなり感慨がある。専任教員をしていた間は、大学に演劇鑑賞会の制度を作ってもらい、ホリプロの方に便宜を図っていただき、何度かかなりのチケットを確保して(30〜40枚くらい)、学生にシェイクスピア作品を見せることが出来たのも良い思い出。あの頃劇場に連れて行った学生達が、その後も演劇を見るようになっていたら嬉しいな。
さて、今回の上演、蜷川さんが最後までやらなかった作品で、やはりシェイクスピア作品としては面白みに乏しい。筋立てもキャラクターもぱっとせず、思わず聞き惚れる様な台詞もほとんどない印象だった。所謂「問題劇」、あるいは「問題喜劇」(problem play / problem comedy)と後世の学者によって名づけられた作品のひとつ(他には『尺には尺を』、『トロイラスとクレシダ』等、それ以外にも『冬物語』や『ヴェニスの商人』、『アテネのタイモン』などを含める場合もあり)。だから、からっと、めでたしめでたし、で終えられない複雑な印象が残るので、どうしても「わからない」と言う感じがする。また、主人公は一応バートラムみたいだが、ヘレンの方が強い印象を与え、焦点が定まらない。でもそういう「問題劇」的な面が中世的で、私には面白い。そもそも、「喜劇」と「悲劇」をはっきり分けるのはルネサンス演劇以降で、イギリスの中世劇にはそういうレッテルはない。
作品の出来不出来はともかく、私にとって面白いのは結構中世文学風のモチーフが見られること。実際、シェイクスピアのソースは『デカメロン』に含まれている小話だそうだ。若い男性が彼に恋いこがれる女性に結婚を迫られ、自分の仕える主人に命じられて嫌々結婚せざるを得ない状況になる、というのはチョーサーの「バースの女房の話」と似たストーリー。それに伴って、ヒロインの占める役割が大きくなっている。また、「バースの女房の話」の騎士と同じく、バートラムは自己中心的なろくでなしである。フランス王に、「ヘレナは美徳そのものだから、結婚しろ」というような台詞があったが、彼女は未熟な主人公を改心させる「美徳」みたいな面があり、そう考えると、この作品のベースには(多くのシェイクスピア作品同様)、中世道徳劇の枠組が感じられた。失敗を重ねつつ、美徳に導かれ、最後は恩寵により正しい道を行くことになる、というわけ。カトリックの宗教劇ではないので、神様は出てこず、代わりにフランス王が究極の権威という位置を占める。また、その王は「美徳」を体現するヘレナの医術により、死の床から蘇る。ヘレナ自身も表面的には死から蘇り、結婚に至る。更に彼女がその「蘇り」への糸口を得たのは聖ヤコブへの巡礼に行った時である、など、色々な中世的モチーフが散見される。
上演を担った人々には大いに感謝するが、上演の出来そのものには不満が点が目立つ。最初に舞台に照明が当たると、一面大きなサルビアのような赤い花が植えられていて、おおっ、とうならせるのは蜷川を思い出させ、その後を期待させる。しかし、舞台装置や照明で印象的だったのはそれだけ。後は全く驚きがない。場面転換の際などに何かもっとアクセントを付けられなかったのか、残念。ドアや窓を上げたり下げたりして、場所の変化を示しているが、機能的な役割を果たしているだけで、それ以上のものが感じられない。右手の大きな像も一体何の意味があるんだか?何か意味を込めているにしても、それを感じられず、インパクトがない。
妙に思ったのは、ダイアナの友人たちにまるでいかがわしい売春婦のような格好をさせたこと。そして、フィレンツェの宿も、巡礼宿のはずなんだが、背景に浮かび上がる窓にはまるで飾り窓の女のようなシルエット。巡礼宿が売春宿か?テキストを読んでないし、一度見ただけなので良く分からないが、こういうコスチュームや背景により、美徳の鏡としてのヘレンを際立たせるようにしたのかしら?これこそ「いかがわしい」解釈、と思えた。
俳優陣は上手なベテランと、人気の若手を配置し、それぞれがある程度その役割を果たしているが、演技に特に驚きや新鮮味は感じず、不満はかなりあった。まず、バートラムの藤原竜也だが、彼はいつもの真面目な演技で、冷たいプレイポーイのバートラムにはあまりに堅苦しい。若くてハンサムな溝端淳平の方がずっとはまったと思うが・・・。主要な役はホリプロ、端役はAUNとネクストシアターの面々に割りふる、というやむを得ない制作側の縛りもあるのあろうか。劇の最後はたたみかける台詞に迫力を感じ、ダイアナという役の重要性が際立ったが、山名花純は台詞を一本調子の大声で叫ぶだけで、謳いあげることが出来てない。大変印象的なキャラクターだが、もっと舞台の台詞に習熟した人ならさらにずっと良かっただろう。シェイクスピアでは台詞の量以上に舞台を盛り上げる道化役もちっとも面白くなく、無駄な動きが空回りしていた。宮本裕子や正名僕蔵、横田栄司などのベテランは安定した演技で、堅実にそれぞれの役をこなしていたが、蜷川が俳優の強みを驚くほど引き出したりしたのを思い出すと、今はベテランの演技は本人に任されているのかな、という印象だ。全体として、演出家のコンセプトが感じられず、手堅いが、平凡な上演という印象。
劇場に置いてあった『埼玉アーツシアター通信』92号(pp. 8-9)に彩の国シェイクスピア・シリーズの上演記録が載っていて、登場した俳優さんたちのことなど、色々と思い出している。最初は大沢たかおと佐藤藍子による『ロミオとジュリエット』。舞台が牢獄という印象的なセットで、ヴィジュアルでイギリスの批評家をうならせた蜷川の才能が満開だった。佐藤藍子がとても良かった気がするが、その後、舞台俳優としては成長したのだろうか(私はよく知らない)。月川悠貴など、このシリーズで特に花開いた役者が思い出される。かえすがえすも残念なのは、ニナガワ・スタジオの生え抜きで、素晴らしいシェイクスピア俳優として順調に成長していた高橋洋が(恐らく蜷川との確執で?)このシリーズから消えてしまったこと。その後も、テレビなどで俳優として仕事を続けているが、彼のシェイクスピア劇での才能が充分活かせなかったのは悔しい。彼はどういう気持ちでこのシリーズの終わりを見ているだろう。それとも、過去の事として、気にもしていないだろうか。
コロナウィルスは怖いけれど、沢山の人々と期待、緊張、感動を共有できる劇場空間の魅力を改めて実感した良い一日だった。
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