2012/03/29

"Collaborators" (Cottesloe, National Theatre, 2012.3.28)

スターリンとブルガーコフ
"Collaborators"

劇場:Cottesloe, National Theatre
製作:National Theatre
観劇日・時間:2012.3.28, 19:30-22:00 (1 interval)

脚本:John Hodge
演出:Nicholas Hytner
デザイン:Bob Crowley
照明:Jon Clark
音響:Paul Arditti
音楽:George Fenton

配役:
Mikhail Bulgakov: Alex Jennings
Yelena, his wife: Jacqueline Defferary
Joseph Stalin: Simon Russell Beale
Vladimir, a censorship officer: Mark Addy
Grigory, a young writer: William Postlethwaite
Praskovya, a teacher: Maggie Service
Anna, an actress: Jess Murphy
Doctor: Nick Sampson
Vassily, ex-aristocrat: Patrick Godfrey


今回は、疲れのせいか、食事が重かったのか、劇を見る前にすでにとても眠くて大失敗。前半ずっとこくりこくりしていて、半分居眠りしたままインターバルになってしまったので、ちゃんとした感想が書けない。でも後半はしっかり見たので、一応感じたとことを書いておこう。

John Hodgeが書いた新作戯曲を国立劇場の芸術監督Nicholas Hytnerが演出。彼はこうした政治劇は上手い。主演はAlex JenningsとSimon Russell Bealeという芸達者で、この3人なら駄作は考えにくいし、実際なかなか面白いアイデアを巧みに舞台化した作品だが、前半の眠気を吹き飛ばしてくれるほどではなかったし、一生懸命見ていた後半も、いまひとつ引き込まれなかったのは何故?私の期待が大きすぎたかも。

題材は、ソビエト連邦、20世紀前半の大作家ミカエル・ブルガーコフとソ連の文化統制、そしてスターリンとの関係。スターリンの支配下にあるソ連は、厳しく芸術家を統制し、また、全土で粛清を進めていたのは言うまでもない。その中で、体制批判の筆を折らずに何とか生き延び、かつ執筆活動を続けたいブルガーコフだが、仲間も発表の場を奪われ、自分自身や妻にも危険が迫る。国家の検閲官が彼の自宅を訪れ、彼をどこか分からぬ場所に連行するが、そこに現れたのはスターリンその人自身だった(ここはフィクション)。ブルガーコフはスターリンを英雄視する伝記劇を書くよう命じられるが、到底不可能と言う。そうするとスターリン自身がその原稿を書いて、それをブルガーコフの名前で発行するということにしようと提案。事実上の命令である。スターリンの自伝劇をブルガーコフが書いたことにするというのだ。その見返りとして、ブルガーコフは自分の新作『モリエール』の公演を許されるという条件である。一種の隠れた転向、仲間たちに対する裏切りである。スターリンとの役割の交代はそれだけに及ばず、二人で協力して執筆するうちに、ブルガーコフはスターリンに政治についてもアイデアを提供するようになる。そして、自分の友人たちにまで、強権政治を国家安寧のために正当化するようなことを言うようになった。そして、そのつもりではなかったにしても、ブルガーコフのその場逃れのアイデアがスターリンに取り上げられて、大粛清の引き金を引くことにさえなってしまう。

これをストレートにやると、国家権力の恐ろしさを描く非常にシリアスで暗い劇になりそうだが、Hytnerは、ブルガーコフの作品を手本として、大変幻想的で、ユーモアをふんだんに取り込んだ、謂わば、全体主義ソ連を舞台にした『不思議の国のアリス』みたいにして見せた。戸棚の中に若者が住んでいたり、その戸棚を入り口にしてスターリンが出たり入ったり。キャロルだけでなく、C S ルイスも思い起こさせる。役者が踊りながらテーブルや椅子を運び込んで場面転換をしたシーンなど、ファンタジックで、上手いなあ、とため息。俳優の演技も、演出意図に沿って、デフォルメした、やや漫画的でギクシャクした動きや台詞による人物造形である。全体としては暗く青みがかった照明に、明るいハイライトをさっとあてて、明暗がくっきり分かれる舞台作りも巧み。人の生死、歴史の動きを、乱調のジャズに乗せて表現した。

そう書いてみるととても面白い劇のようなんだが、いまひとつ心に響かないのはどうしてだろう。軽いトーンで進めてしまったために、スターリンの恐ろしさ、ブルガーコフの置かれた状況の悲痛さのインパクトが十分伝わらなくなった気がする。『アリス』的にしつつも、カフカの『審判』のような恐ろしさがかもし出せなかったものか、と残念。また、ブルガーコフがスターリンに利用されただけで劇が終わるのも、これでいいのか、という気がした。実際には、彼は作品の発表ができないまま、後にソ連時代の文学の金字塔となる名作をひそかに書き続けていたのではなかったか。私が居眠りしていて前半が良くつかめなかったのかもしれないが(というわけで☆は付けていません)。もっと良いコンディションで見たかった。もう一回しっかりと見たいものだが、残念。でもこの公演、4月31日からOlivierにトランスファーするそうだから、それから2,3ヶ月は続きそうだ。

2012/03/28

"Bingo: Scenes of Money and Death" (Young Vic Theatre, 2012.3.27)

シェイクスピアの晩年の苦悶を通じて芸術家と
実人生の関係を探る
"Bingo: Scenes of Money and Death"

劇場:Young Vic
製作:Chichester Festival Theatre and Young Vic
観劇日・時間:2012.3.27  19:30-22:00 (1 interval)

原作者:Edward Bond
演出:Angus Jackson
デザイン:Robert Innes Hopkins
音響:Ian Dickinson for Autograph
音楽:Stephen Warbeck
照明:Tim Mitchell

配役:
William Shakespeare: Patrick Stewart
Judith (his daughter): Catherine Cusack
Ben Johnson: Richard McCabe
Old Man: John McEnery
Son: Alex Price
Young Woman: Michelle Tate
Old Woman: Ellie Haddington
Willaim Combe: Matthew Marsh

☆☆☆☆/5

不思議な劇だ。私の英語力不足以上に、内容理解の上でもよく分からない部分もかなりあった。しかし見終わった時に圧倒的なインパクトを感じた上演だった。リビューも大きく評価が割れているようで、一般の観客の印象も様々だろう。

シェイクスピアは晩年ロンドンからストラットフォードに戻って、あの巨大な(町で2番目に大きなお屋敷だそうだ)New Placeと呼ばれる家で、悠々自適の生活をした、と私は想像していた。しかし、作者エドワード・ボンドは、当時の地方都市の厳しい時代背景を、芸術家としてのバードが一家庭人として長年留守にしていた自分の家族に溶け込めない様子と組み合わせ、彼が苦悩の晩年を送ったと解釈している(ちょっと夏目漱石みだいだな)。その想像の当否は分からないが、この作品の一番の要点は、芸術家と現実生活のねじれた関係と言うことだろう。

作品のひとつの柱は、ウィリアム(ウィル)と娘Judithの関係。娘は母親(ウィルの妻のアン)と共に、シェイクスピアから長年捨てられてきたと思っている。そして知識人で大劇作家の父との間に越えがたい溝を抱えている。ウィルのほうも、どうやって娘や、病気で寝たきりのアンとの関係を取り繕えば良いのか分からず悩む。作品では人間の心理のこまごました面まで理解しているように見えるウィルが、自分の家族のこととなると、何を言っても裏目に出る。ただ、このあたりの台詞や行動、もっと分かりやすく出来たと思うが、どうも難解で、実感として迫りにくい。ウィルの心がいまひとつ私も理解できなかったが、英語の理解不足のためもありそうだ。台本を読んでみたい。

大変豊かに描かれているのは、ウィルの周りの社会。当時のイングランドの地方では、Enclosure(囲い込み)と呼ばれる公有地の牧草地化が進み、そうした公有地に大きく頼っていた零細農家が大地主によって取り込まれていった。また、ピューリタンなど教条的な宗教改革者たちのために、社会全体が不寛容になっていた。ウィルはそうした社会の傾向に悩みつつも、一方で賢い投資家として、町の有力者Combeに手を貸してEnclosureに協力する。彼が一時守ってやろうとした若い女性の浮浪者は、絞首刑になって、その遺骸は長らくさらされたまま。狂信的とも言える(ピューリタンの?)説教師は、後に自分の父親を殺害する。

ウィルと、彼と親しいちょっとピントのはずれた老人との関係はリアとフールにそっくり。『リア王』におけるパブリックとプライベートのねじれた関係は、この作品にも当てはまる。老人を演じたJohn McEneryが大変印象的。娘のJudithは長年父に捨てられてきたと思い込んでいる意固地で現実的な娘。突然、長年の単身赴任から帰宅した父に戸惑う中年の生活に疲れたオールドミス。彼女のいちいち棘の立つ台詞がウィルの胸に突き刺さる。Catherine Cusackは説得力たっぷり。しかし、説得力といえば、何と言ってもウィルを訪れたBen Jonsonを演じたRichard McCabeが凄い迫力だ。シェイクスピアへの才能と世俗的な豊かさへの嫉妬心、自分の経済的苦境への不安など、屈折した心理を畳み掛ける台詞で吐き出す。この劇が気に入らない評者でも、Ben JonsonのキャラクターとMcCabeの演技だけでは高く評価すると思う。出番は比較的短いが、役者冥利に尽きる役柄だろう。いかにも地方都市の財界人といった風貌のWilliam Combeを演じたMatthew Marshも忘れがたい。「こういう人、いるいる」、と日本の財界人やら、管理職やらを思い出しつつ、見た。

衣装が凄い!席が前から2列目の席だったのでよく見えたが、まさに、今使っています、というリアリティー。庶民の素朴な服も、Combeの豪華な服地の装いも素晴らしい。こういう細部でも、日本でやるシェイクスピア劇なんかと比べて超えがたい差が出来てしまうんだろうが、自分の国の歴史的コスチュームなんだから仕方ない。これなんかを見てると、日本のシェイクスピア劇の衣装は、西欧人のデザインで西欧人の歌手の着た蝶々さんの和服みたいなもんだ。

シンプルな舞台に本物の暖炉の火が燃え続け、大きなアクセントとなっていた(日本では消防法がうるさくて不可能かな?)。途中で使われた雪とその純白を照らす照明も効果的!また、絞首刑になった若い女の死に顔は、ミラーの『坩堝』がかもし出した空気を思い出させた。Robert Innes HopkinsのデザインとTim Mitchellの照明を賞賛したい。

マッケランやデンチなど、出てくるだけで、技術的な上手い下手を超えて、その人の経てきた人生、持っている人格で役を分厚く出来るような俳優がいると思うが、パトリック・ステュアートもそういう役者だと思えた。この人がシェイクスピアです、といわれても、ほとんどの役者では納得できないだろう。でも彼は本当にシェイクスピアに見えた。私の大好きなタイプの劇、素晴らしい脚本、素晴らしい役者たち!

今は、批評家の間でも評価が大きく分かれるこの劇だが、数十年後にはどういう評価を受けているだろうなあ。

2012/03/25

"Hay Fever" (Noël Coward Theatre, 2012.3.24)

カワードの言葉の魔力が凄い
"Hay Fever"

劇場:Noël Coward Theatre
観劇日・時間:2012.3.24, 19:30-21:30 (1 interval)

脚本:Noël Coward
演出:Howard Davies
デザイン・衣装:Bunny Christie
音響:Mike Walker
照明:Mark Henderson

配役:
Judis Bliss (ex-actress): Lindsay Duncan
David Bliss (novelist, Judis's husband): Kevin R McNally
Simon Bliss (their son): Freddie Fox
Sorel Bliss (their daughter): Phoebe Waller-Bridge
Richard Greatham: Jeremy Northam
Myra Arundel: Olivia Coleman
Sandy Tyrell: Sam Callis
Jackie Corydon: Amy Morgan
Clara (maid): Jenny Galloway

☆☆☆☆★/5

Judith Blissは元女優で、一年ほど前に引退し、悠々自適の生活を楽しんでいる。夫は小説家で、一日の大半を書斎に閉じこもる生活。夫婦は、それぞれ人生をもう少し華やかなものにしたいと思い、ある週末、自宅にそれぞれ異性の友人を招くが、あわよくばひと時の気楽なロマンスを楽しみたいとの虫の良い打算をいだいている。一方で、2人の間には年頃の娘Sorelと息子Simonがいる。ふたりとも我侭でボヘミアン、そして能天気でピンボケのどら息子と娘。この2人もまたその週末にそれぞれの恋人を招いてしまったから、合わせて4人の客が泊まりにくることになり、大騒動。それでなくてもぶっきらぼうな家政婦のClaraは、一段とご機嫌斜め。やってきた客は、とぼけた4人家族に皆てんでに振り回され、そのうち、客同士で仲良くなったり、Bliss家の突拍子もない振る舞いに対してこぼしあったりする。主に個々のシーンのおかしさ、台詞での言葉のずれでずっこけたりして笑わせるのだが、大きなプロットらしいプロットはない。どたばたシーンは少しはあるが、'Private Lives'と比べてもアクションは多くは無くて、あくまで言葉の面白さがミソの劇。それでこれだけ面白くなるんだから、脚本自体の言葉が実に巧みに書いてあるのだと思う。残念ながら、戯曲を読んでないので、可笑しなところが聞き取れない時が多くて、大変悔しかった。

劇はBliss家の田舎の邸宅の居間を舞台としているが、女優や小説家、そして画学生(息子Simon)の家らしく、画家のスタジオのような、田舎風なのにモダンなインテリア。ビクトリア朝風のドローイング・ルーム・ドラマのかび臭さを感じさせない。

Lindsay Duncanはあらためて褒めるのもおこがましいが上手い。Jeremy Northamも凄い。日ごろ、低い苦みばしった声の渋い二枚目役者として、私はイギリスの男優の中でも特に好きな人なんだが、この劇の役どころは、朴訥で内気、ソフトで不器用な公務員(外交官のようだ)。これがあのNortham?としばらく分からなかった。他では、特にBliss家のバカ息子、バカ娘が、実に突拍子も無い連中で愉快。特にPhoebe Waller-Bridgeは最高の滑稽さ!息子を演じたFreddie Foxは、透き通るような白い肌と金髪の美男だが、BBCのクライム・ドラマ, 'The Shadow Lane'でホモセクシュアルのギャングの若い愛人、そしてやがて自分も残忍な犯罪に手を染める冷血の若者を好演していて覚えている。彼はEmilia Foxの弟で、Edward Foxの息子。

最終的にこの劇の心温まるところは、そろそろ老境の入り口に立ち、倦怠感漂う夫婦と、親を離れ始める年頃の子供からなる一家がばらばらになりそうな時期にさしかかるが、それぞれの恋人をだしにしてお互いの愛情を確かめ合い、一家の結束を取り戻すというところか。ただ笑わせるだけでない家族のドラマとしての骨組みが全体を支えている。さすがCowardの代表作と見なされるだけはある。劇のタイプとしては私の最も好きな内容の作品ではないので付けた星は4つだけど、この種の公演ではこれ以上は望めないと思える最高のエンタティメント。それにしても、だしに使われた恋人たちは大迷惑!

2012/03/23

ロンドン・アングロ・サクソン・シンポジウムに行ってきました。

The First London Anglo-Saxon Symposium
'The Anglo-Saxons: Who? Where? When? Why?'

Institute of English Studies, University of London, 21 March 2012

昨日21日、ロンドン大学のInstitute of English Studies(英文学研究所)で開かれた標題の学会に行ってきた。私はアングロ・サクソンの文学や歴史の研究をしているわけではないが、この学会は、開催の主旨に、一般の、関心のある聴衆も歓迎すると書いてあったので、気軽に聴講できるかな、と思って参加。それに、今年の1月から2月にかけて私自身も初歩的な内容であるが、アングロサクソンについての公開講座を担当したので、久しぶりにあらためて興味を喚起され、もっと学びたいと思っていたところでもあった。

3時から始まり7時過ぎに終わるまで、20分の発表が6つ、15分の発表が2つという盛りだくさんの学会。一般の人らしき聴衆もかなり混じり、また学部生もある程度いたと思う。70-80人くらいだろうか。比較的小さな部屋で、満員だった。イギリスの学会に行くと、いつも自分の語学力の壁で苦労するが、今回も例外でなく、十分に理解して満足できるほど吸収した発表はひとつもない。しかし、ある程度面白く聞けた発表もあり、行って良かったとは思う。一般の聴衆も加わっていることを意識して、発表者は初歩的なイントロダクションも含めて、話をしていたので、内容は普通の学会より理解しやすかった。この学会は、同じように一般聴衆にも開かれた形でこれからも毎年開きたいと、開催者の先生が言っていたので、来年もこの季節にあるかもしれない。たまたまロンドンに来る機会があったら、また聴講したい。日本の大学の先生も一応春休み期間中だが、今頃は絶対に休めない卒業式があり、また新年度の準備で忙しい時期なので、なかなか出席は難しいだろうなあ。私はこの分野の研究書や論文を読むことはないので、講師の先生は私の知らない人ばかりだったが、司会をした先生は、Jane RobertsやClare Leesなど、私でも名前を知っている大御所が含まれていた。

さて、聞いた事で、大分理解できたことの中から、興味を引かれた点を、私の主観的な感想も交えつつ2,3紹介してみたい。ただ、私の英語力も理解力も自分でも全く当てにならないので、発表の正確な報告は出来ないので、その点をご了解の上、割り引いて読んでください。

2つの最初の発表では、アングロ・サクソン人のブリテン島侵略について、歴史学と考古学の2人の先生が論じた。昔の一般的な歴史書や教科書などでは、アングロ・サクソンがケルト人(ブリトン人)を、のちにイングランドと名づけられるようになる地域から追い出した、というように書かれているが、もっと段階的な侵略(かつ移民)であり、またブリトン人との同化のプロセスであった、ということが色々な状況証拠から説明された。こういう人種的な問題については、大昔のことでも、その時代の歴史学者の視点によって記述が大きく変化してきた。19世紀から20世紀始めの学者、特にドイツの学者などはそうだが、ゲルマン民族の民族的優位性を当前とする立場であり、アングロ・サクソン人に肩入れした視点で書く傾向があった。20世紀、特に第2次大戦以降、現在のイングランドはもちろんのこと、歴史的にも連合王国が多民族多文化社会として見直しをされ、また西欧全体としてはホロコーストの深い反省の元にたった現在の歴史学は、基本的な視点が大きく違い、中世のイギリスもいくつもの民族の交じり合った社会と考えるようになったわけである。アングロ・サクソン人の社会にも多くのブリトン人奴隷が存在し、Ine's Lawなどの法律で彼らの処遇について触れてもいる。また、ブリトン人を大量に虐殺したり、ウェールズなどの周辺地域に追い出してしまったりするには、あまりに彼らの数は多かったはずとのこと。Stentonなどが地名にケルト系の名前が非常に少ないことを挙げているが、これもあまり当てにならないらしく、イングランド西部には結構ケルト由来の名前は残るそうだ。そもそも5-6世紀頃は、農耕経済で、大きな町は出来にくく、したがってその後ずっと継承されるような地名も出来にくかったはずだ。そして何よりもこの時代の歴史的文献として最も重要視されるビードの『英国教会史』だが、ビードはブリトン人に大変敵意を持っていたことは明らかなので、その点を割り引いて読む必要があるという。彼の居たのが北イングランドで、北方の異民族との争いにおびえていたことがそうした傾向を生んだのかもしれない。

更に、昔の研究者はアングロ・サクソン人の侵入と言う時点からのみこの過渡期を見がちであったが、前提となるローマ時代のブリテン島についての知識や研究がこれまで不十分であったとのこと。Roman Britainと言っても、単純なものではなく、色々な地域差や民族的な複雑さも含んでいた。たとえばブリテン島に来たローマ兵だって、イタリア半島から来た人なんてごくわずかで帝国の各地からやってきた多民族・多言語の混成部隊で、更にそのローマ人が現地のブリトン人と交じり合っていた。ローマ人はブリテン島にローマ帝国風の建物を建てたというが、ロンドンなど大都市の一部の建物を除き、当時の建物のほとんどは木造の農家で、アングロ・サクソン時代の農家と大して変わりない。ローマ風のVillaがイングランドでも建てられたが限定的で、4世紀に限られるとのこと。また、「アングロ・サクソン人の侵入」というが、実際にはフリージア人の移民も大量にあったそうだ。最近は、DNAの解析から民族移動を調べる研究も行われているが、これはあまり助けになるような成果は上がっていないとの頃。

(サトン・フーの金貨)

もうひとつの話で、私の関心を持つことからはかなり遠いが大変面白いと感じたのは、大英博物館の方が話したアングロ・サクソン時代のコインについての話。ローマ人はブリテン島でコインを鋳造し、貨幣経済が発達していたが、彼らがブリテン島を去り、5世紀の始め(510年頃?)にコインの鋳造もストップした。しかし、ローマのコインの使用は終わったわけではなく、その後も数十年間(a few decadesと言っていたと思う)はそれ以前に作られた帝国のコインがの流通が続いた。発掘物によると、コインの使用は東部で多く、西部では少ないそうだ(これは東部が大陸との交易が多いためかもしれない?)。その後、5、6世紀、そして7世紀の始めまで、ブリテン島ではコインは鋳造されないが、その期間の発掘物からもコインが発見され続けている。後の時期の発掘物になるにつれ、ローマ時代のコインから、フランク王国や西ゴート王国のコインに変わってきているようだ。コインは必ずしも金銭として利用されるとは限らず、ペンダントとして、あるいは首飾りにつけられたりして、装身具としても利用されることが多かった。また金銭として利用される際、1枚のコインの金や銀の量を調節するために、コインを半分とか3分の1とかカットしたり、逆に、そうした断片を別のコインに打ち付けて金や銀の量を増やし、価値を増したりもしたそうで、これは大変面白いと思った。更に、まったくコインの形をしていない金や銀の小片も、貨幣として利用されたらしい。

イングランドで鋳造されたコインとしては7世紀始め(620年代から640年代頃)が始まりだそうだが、最初のコインは、金銭としての利用か、ペンダントかはよく分からない。5-7世紀のコインは、貨幣としての機能的な意味に加え、シンボリックな意味も大きかった。つまり、発行した為政者の権威づけ。特に、ローマの、そしてキリスト教徒の支配者としてのアイデンティティーの表現と誇示であるとか、価値体系を支配できるという権力の誇示、そして貴重な金銀を集めてコインを鋳造できるという富の誇示、など。実際に庶民の日常生活での使用頻度はそう高くなかったのではないか(この点は聞き逃した)。なお、サトン・フー遺跡(7世紀)では多くのコインが発見されているが、2009年の大発見、スタフォードシャーのアングロ・サクソン遺跡(7-8世紀)では、3500点もの発掘物があるにもかかわらず、コインは全く無いと言っておられた。Wikipediaによると、スタフォードシャー遺跡では軍事的な色彩の物品が出ており、女性だけが使うものは全く無く、日常生活に使うようなものは少ないようである。

また、コインの話に続いて、『ベーオウルフ』における'Economy'についての発表もあった。 英語の聴解力が十分でないことに加えて、私自身が作品自体に疎いので細部が良く理解できなかったが、それでもこの古典について今まで考えていなかった新しい視点を提供してくれた。この作品は、伝統的には、ゲルマン民族の英雄観とか、キリスト教的な視点からの寓意的解釈、異教的要素の探求などの研究が多かったと思うが、今回の講演では、作品に貸し借りや支払いに関する語句が大変多いことに注目している。たとえば現代英語で言えば、'pay(ment)', 'repay(ment)', 'debt', 'indebted(ness)', 'reward', 'gift'等々に関連した表現である。こうした表現は、アングロ・サクソン人の価値観、主従関係などと密接に関連し、物語の骨格をなしている。一種の'economy of exchanges'(交換経済)が伺える。主人公ベーオウルフは、非常に几帳面にこのexchangeのモラルに忠実だが、それが微妙に崩れた時、波乱が起こる。グレンデルや宝の塚を暴いた盗賊、そしてドラゴンは、そうした交換システムの滑らかな働きを乱すものたちだ。そういう中で、交換の媒体になるもの(ギフト、報酬、女性)に注目したり、それが我々から見て妥当かどうかを検討したりも出来る(ベーオウルフがフロースガールから受けたギフトは、彼の命がけの働きに見合うものだったのだろうか、とも問いかけておられた)。

アングロ・サクソン時代の文字や写本についての講演もあったが、英語が良く分からなかった。ただ、ルーン文字と古英語、そしてラテン語が混在することがあるというのは、当然かもしれないが、言われてみてなるほどと思った。有名な'Franks Casket' {British Museum所蔵)もその一例。一方、'The Dream of the Rood'(十字架の夢)という詩がルーン文字で刻まれていることで有名なラズウェルの十字架(Ruthwell Cross)はルーン文字で刻まれた古英語と共にラテン・アルファベットによるラテン語も刻印されているそうだ。また、写本でも、アルファベットで書かれた写本の余白にルーン文字のコメンタリーが書き加えられているものもあるとのこと。ラテン語と古英語、そしてアルファベットとルーン文字の混在、なかなか面白い。ラズウェル・クロスの場合、古英語の文がルーンで刻まれている。古ノルド語など、他のゲルマン語もルーンで刻まれている例は多いだろうが、では、ラテン語がルーンで刻まれることはあったのかしら。やはりこの文字はゲルマン語と切り離せないものだったのだろうか。

(Franks Casket)

(Ruthwell Cross)

残りの発表は、残念ながらさっぱり分かりませんでしたが、どうも私には関心の無い内容だったような気がするので、まあいいか。

2012/03/21

Museum of Londonの中世彫刻から

昨日20日もまたMuseum of Londonに行って、前回見終わらなかったものを見てきました。その中から、中世の彫刻の写真を載せます。

最初はSt Christopher(聖クリストフォロス)の彫刻2点。彼は3世紀(または4世紀)頃の小アジア(今のトルコ)の殉教者とされていますが、中世に生まれ広まった伝説によれば、子供のキリストを背中に背負って、水かさの増した川を命をかけて渡った、という話が伝わっており、旅人や船乗り、渡し守などの守護聖人として大変人気のある聖者で、中世の教会には沢山の彫刻があったようです。また絵画でもかなり残っています。最初の彫刻はキリストを背中に背負っています:


次の顔の彫りものはJohn the Baptist(洗礼者ヨハネ)だそうですが、どこでわかるんだろう?


次は、擬人化された4人の徳(Four Virtues)です。もともとはロンドンのギルドホール(大体において市役所にあたる場所)のポーチにあったようですが、1788年にポーチが破壊され、これらの彫刻は売却されました。20世紀にウェールズの庭で発見されたとの事。女性の姿で、表わしているのはTemperance(中庸)、Fortitude(強さ)、Justice(正義)、そしてPrudence(慎重)。但し、どれがどれを指しているのか、確定していないとのこと。4人のうち2人は足元に誰か(罪人でしょうか)を踏みつけにしているので、その2人がFortitudeとJusticeのいずれかであることは間違いないでしょう。昔はきっと見る人にすぐわかるようになっていたのかと思いますが、今はかなり磨り減ったり壊れたりしていますからね。作者は14世紀始めの石工の親方(Master Mason)John Croxtoneとのこと。




最後は2つの木彫の天使。ロンドンの建物から取り除かれたものらしい。1400年ごろ製作。木で出来ているせいもあってか、素朴なあたたかみを感じます。羽は鳥の羽みたいですね。着衣は修道士の服のようです。



2012/03/20

"Filumena" (Almeida Theatre, 2012.3.19)

苦しい人生をしぶとく生きぬく肝っ玉母さんの話
"Filumena"

劇場:Almeida Theatre
製作:Almeida Theatre
観劇日・時間:2012.3.19  19:30-21:30 (one interval)

原作者:Eduardo De Filippo
翻訳:Tanya Ronder
演出:Michael Attenborough
デザイン:Robert Jones
音響:John Leonard
照明:Tim Mitchell

配役:
Filumena: Samantha Shapiro
Domenico: Clive Wood
Rosalia: Sheila Reid
Alfredo: Geoffrey Freshwater
Umberto: Brodie Ross
Riccardo: Luke Norris
Michele: Richard Riddell
Diana: Emily Plumtree
Lucia / Teresina: Victoria Lloyd

☆☆☆/5

イタリアの20世紀中盤の大作家Eduardo De Filippoの劇。プログラムによると、ナポリの土地の文化と方言に深く根ざした作家だそうです。演出は芸術監督のMichael Attenborough。主演は演劇でもテレビでも人気者のSamantha Shapiro。Shapiroは、ロイヤル・コート'Chichen Soup with Barley'で見ましたが、今回もその時とやや似た役柄で、下町の肝っ玉母さん、という感じ。とても威勢の良い、貧しい中年女性をエネルギッシュに演じています。20数年間、お手伝いさん兼おめかけさんとして金持ちの愛人Domenicoに尽くしつつ、あちこち家計を節約したり旦那の物をくすねて貯めたお金を3人の隠し子(Umberto, Richardo, Michele)にこっそり仕送りして立派に成人させた女性。しかし、いつまでたってもDomenicoが結婚してくれないばかりか、ついには二十歳過ぎの若い恋人を作ったので、頭に来て一計を案じ、やはり使用人の老婆Rosaliaと、医者のAlfredoの手助けを得て、死にいたる大病に罹ったふりをし、彼からやっと結婚を勝ち取ります。でも謂わば詐欺で得た結婚ですから、そう上手くは行かず、その後旦那は弁護士の手を借りて結婚を解消しようとして紆余曲折。学問の無いFilomenaはまたまた苦労。でも最後はハッピーエンドの喜劇です。まあ、なんということも無いとも言える劇ですが、とっても楽しい気分にさせてくれました。Filumenaは食うや食わずで飢えに苦しむほどの生い立ち。教育も受けておらず、弁護士が法律文書を示しても、インテリの息子が手紙を書きたいと言っても、彼女は字が読めずお手上げ。若いときは売春まがいのことを(いや、完全な売春かも。英語がちょっと分からなかった)して生き延びました。ビットリオ・デ・シーカなど、ネオリアリズムの映画監督の作品で見るような、戦前や戦後すぐのイタリアの貧しさがうかがえる作品でもあり、その点はシリアスな底流が背景にあります。

Samantha Shapiroは気持ちの良い役柄と演技で、見て楽しい。また、Domenicoを演じたClive Woodは脂ぎった中年男(52歳の設定)にしっくり会う俳優。Filumenaを助ける老婆のRosaliaは、本当に年配の役者さんがやっているのですが、上手で、大変印象に残りました。劇場に入った途端に目が覚めるような鮮やかなセット。場面はナポリの下町の中庭ですが、明るい、赤みががかった茶色の建物の壁、緑と青の中間のような鮮やかな扉の色と、沢山の花やつる草の緑が大変きれいなRobert Jonesのセットと、それを引き立てるTim Mitchellの照明でした。

苦労の多い人生を、逞しく生きぬく庶民のお上さんを描き、短くて軽い劇ですが、とても幸せな気分になって劇場を出ることが出来ました。こういう劇も時々は良いな。

'The Pardoner's Tale'の木彫パネル

先日Museum of Londonに行って、展示品の写真を沢山撮り、今整理しているのだが、その中でも面白いものを一部紹介していきたい。但し、下手な写真で済みません。今日の写真では、真ん中に、ガラスケースの枠の影が黒く入ってしまっています。

さて、今回は木彫の板。1410年頃のものらしい。結構良く知られたパネルではないかな。私はどこか本の挿絵で見たことがある。これはもともと家具のチェストの側面だったようだが、1枚のパネルだけが展示されていた。描かれている図は、チョーサーの'The Pardoner's Tale'(「免罪符売りの話」)。『カンタベリー物語』の中でももっとも人気があり、有名な話のひとつ。パネルの全体は:


多分、チェストの側面すべてに(あるいは上も)彫り物がしてあり、物語が順番に描いてあったのだろう。このパネルは、物語の終わりのほうの3つのシーンを描いている。3分割して見てみよう。

まずは、町に食料を買いに行った若者の一人が薬屋(apothecary)で、宝の番をするために残してきた仲間を毒殺するための薬を買うところだろう。
お兄さんと薬屋の大きさの違いが面白い。

次は町から戻ってきた仲間を、残っていた2人が宝の分け前を増やすために、襲って殺すところ。短剣で頭のあたりを刺している。怖いねえ。


 そして最後は、宝物をを2人でせしめて大喜びの若者2人が、今殺したばかりの仲間が買ってきた毒の入った飲み物を飲もうというところだろう。
手前にある長方形はテーブルで、カップやナイフ、それに皿の役割をするtrencherという木の板が見える。謂わばテーブル用のまな板。trencherは固いパンで作られていることもあり、食事の後は肉汁などのしみこんだ皿ごと食べてしまったり、貧しい人に恵んだりしたらしい。足元にいるのは犬でしょうね。

これだけ見ても、パネルの絵の元になったお話が、貪欲を戒める教訓話だと分かる。このチェストに、金銀とかお金とか、絹の織り込まれた贅沢な衣類とかしまってあったとしたら、それこそ自己矛盾して、おかしいな。チェスト自体が非常に手の込んだぜいたく品であり、相当なお金持ちの所有物だったろう。