2015/02/08

マグナ・カルタの写本がケントで発見される

ガーディアン紙によると、マグナ・カルタの写本がケントの州古文書館で眠っていたのを発見された!

1215年のオリジナル写本ではないが、1300年にエドワード1世の命で作られたものらしい。マグナ・カルタは、国家の威信を示すためにあちこちに広く配られたようだが、今までの説よりも更に広範囲に流布したと考えられる、と専門家が言っている。

現在世界に24写本が残っているそうだ(この写本を含んでかしら?)

値段をつけると10ミリオン・パウンド、っていうと、18億円くらいか・・・。メイドストーンにあるケント州文書館にあるヴィクトリア朝に作られたスクラップ・ブックに貼り付けてあったそうだ。森林に関する勅許状(A charter of the forest)を調べていると、その隣にこれがあったということだ。大発見をしたのは、古文書の専門家でケント州文書館(ケント・カウンティ・アーカイブ)の職員のマーク・ベイトソン博士。この方、私がかって受講したパレオグラフィー(古書体学)のクラスを教えてくださった方。温厚で、学識豊かな先生だった。当時はカンタベリー大聖堂の図書室(ケント州の古文書館を兼ねる)で勤務しておられた。ベイトソン先生、人生最大の大発見! 特別ボーナスもらえるかな。

ケントの小さな地方都市サンドウィッチにとっては思ってもない宝物だろう。売却しないで、町の観光の助けになるようにしたい、とのこと。良かった。

2015/01/25

日本の古文書

昨日市民講座の前後に控え室でお会いした若い先生は、日本史の研究者で、古文書の講座を担当されているとのことだった。彼女はなんと江戸時代よりも前(だったと思う)の本物の古文書を持って来ていらして、その一部を講座で受講者と解読されているようだった。かなり長い巻物で、何百年も前の、縁があちこち欠けたり、少し破れている古い和紙、そして驚くほど鮮明な墨の色!中身は分からなくても見ているだけで感激だった。悔しいけど、自国の歴史や文学を研究されている方のレベルの高さが羨ましかった。イギリス演劇研究でも、写本の上演資料をかなり読めれば、国際的に通用するレベルの研究も夢でないが、今からどんなに頑張っても一生無理・・・。

それで思い出したのだが、以前、うちの近所のカフェで休憩していたら、となりの若い学生が日本語の古文書を懸命に読んでいた。多分日本史か日本文学の授業の宿題などだろう。それを見た私はえらく感激して、カフェを出るときにその人につい、「凄いですねえ、写本が読めるなんて!がんばってください」と声をかけてしまった。

こういうことがあると、中世文学は良いけど、中世英文学でなくても充分に興味を持てたかな、と一瞬思うな。

市民講座担当

先週から5回シリーズで社会人向け有料市民講座を担当している。ほぼ一週おきで、3月まで続く。毎回90分、遅れて始めたり、切りの良いところだからと早めに終えたりするわけには行かないから、予定の時間目一杯しゃべる。5回という事は、全部で7時間半。また、それだけ話す材料を準備しておかなければならない。話ばかりで退屈にならないように、ビジュアルの資料も用意する必要がある。雑談みたいな話でも喜んで下さる方もいるが、相手は人生経験豊かな大人で、長年海外で働いた方、留学された方などもちらほらおられ、とても厳しい質問や注文を出される方もたまにいるし、自分もうっかり初歩的な間違いをすることもあるので大変緊張する。初日の前夜はよく眠れなかった。90分話した後、疲労困憊していた。頑張ったが、パソコンが上手く動かなくなって写真も映せず、話し方もせかせかと落ちつきなくて、上手くいかなかったなあ、と後悔しきり。

今回話す内容については、これまで論文を書いたり、大学の授業で扱ったりしているので、ある程度予備知識はあるが、これから毎回、更に勉強しつつ講義ノートを作って行かなけばならない。正直言って一週おきでも準備が間に合うかどうか不安である。

この社会人講座もこれが確か6回目。このための準備は大変勉強になるので、余裕があるときはやり甲斐を感じることが出来る。他人から何かを期待されることがない今の私には、大学の職員さんや受講者の方々などに喜んで貰えると大変嬉しい。今回の講座を引き受けたのは去年5月で、その時には今頃は既に博士論文を提出できているだろうからじっくり腰を据えて準備する時間がある、と能天気な予想を立てていたが、今になってみれば論文執筆がいつ終わるとも知れぬ泥沼、というのが現実だ。論文の行き詰まりを考えると、公開講座をやっている余裕はないのだが、講座担当日は予定どおりにめぐって来る。3月まではしばらく博士論文の勉強から離れて、この講座の準備に集中せざるを得ない。

2015/01/04

NHKアーカイブ「戦後70年 吉永小百合の祈り」

正月4日の日曜の午後、NHKアーカイブ「戦後70年 吉永小百合の祈り」を2時間弱見入ってしまった。 彼女がライフワークとして各地で、そして長崎や広島でも続けてきた老若男女の被爆者の詩の朗読を伝える番組。朗読する吉永さんのことより、彼女の読む詩の重さ、それらの詩の意味するものに打ちのめされる。特に、被爆した子供たちの詩、親や兄弟姉妹を目前で失っていった小さな小学生などの詩には、計り知れない重さがあり、涙が自然とこぼれる。

後半で紹介された詩では、被爆のすぐ後、重傷者のうめき声も響く焼け跡のビルの一室で出産した女性のことがうたわれている。赤ん坊を取り上げた助産婦は、その直前まで痛みでうめいていた重症の女性だった。彼女は新しい命の誕生を見届けたのち、亡くなられたそうだ。

更に2011年の震災以降、吉永さんは、原爆の詩と一緒に福島の被災者の詩も朗読している。平和利用という名のもとに日本人が長崎・広島の惨事とは関係のないものとして受け入れた原子力が、多くの人の故郷を破壊し、彼らを漂浪の民にしてしまった事を忘れてはならない、と彼女は言う。

彼女は団塊の世代の、最も知的なアイドル。街をデモで埋めた同世代の男女が、やがて高度成長の波に飲み込まれ、経済第一のエコノミック・アニマルに甘んじて若い日の理想を失っていく中、「これからもずっと『戦後』であり続けてほしい」、「戦争を忘れないように次世代に粘り強く継承したい」と努力を続ける彼女に敬意を表したい。

彼女の今年の大きな仕事は、山田洋二監督の「母と暮らせば」(松竹映画、2015年12月公開)。原爆投下後3年を経た長崎を舞台に、原爆の残した深い傷を描く作品のようだ。

私も含め、組織の一兵卒になりきり、もみくちゃにされ、景気に一喜一憂し、我を失ってきた戦後の日本人も、少しでも吉永さんを手本にしたい。歳を重ねて人はその人の元の姿に戻るようでもあり、またその人の人生で得てきたものを、良くも悪しくも表に出すようでもある。吉永さんは、姿かたちだけでなく、年輪を経て一層美しい。団塊の世代にとって、今後も素晴らしいアイドルでありつづけるだろうな。

これからもずっと「戦後」であることを意識して生きようと呼びかける吉永さん。一方、「戦後レジームからの脱却」を呼びかける日本の首相、原発とその輸出、武器輸出、ギャンブル振興を国策として推し進めようとする政府・・・。吉永さんはどう思っておられるだろうか。

2014/12/30

『ベーオウルフ』がテレビドラマ化

イギリスの民間テレビ会社 ITVが中世初期、アングロ・サクソン時代の英文学の傑作『ベーオウルフ』を13回のドラマシリーズにするというニュースを見た。撮影は2015年に開始、放映は2016年の予定。脚本家はもう書いているようだが、まだ、キャストは発表されていない。ニュースはこの記事。

イングランド北部のダラム州の石切場跡地に大がかりなセットを組んで撮影するそうだ。そのニュース記事。

『ベーオウルフ』の筋を13回に引き延ばすのは無理だと思うので、原作からはかなり離れて、キャラクターは使っても、各エピソードの多くは新たな創作になるだろう。そういう意味では、BBCの『マーリン』みたいに。しかし、それでもどういう作品になるか大いに興味はある。多分、中世を舞台にした西部劇、古くて新しいSF、未来と過去が入り交じったゴシック・ロマン、といったところかな。アクションたっぷりで、多少お色気もあって、コンピューター・グラフィックスをふんだんに使って、という具合だろうと想像する。

それで思ったのだが、日本の大学でも、「映画になった中世英文学」とか、「映画になった中世ヨーロッパ」というような授業があったら面白いだろうな。『ベーオウルフ』も私の見ただけでもすでに3本あるし、他にもあるに違いない。一方、『カンタベリー物語』は意外に少なくて、映画ではパゾリーニ版しか知らない。BBCのテレビ版はありとても面白いが、日本では売られていないはずで、また完全に現代の物語にしてあり、原作との関連は発想の源という程度。マロリーの『アーサー王の死』はかなりある。比較的原作をなぞっているジョン・ブアマン監督の『エクスカリバー』、原作からはかなりかけ離れていると思うが、リチャード・ギア、ショーン・コネリー主演の『トルー・ナイト』、ロバート・テイラー、エヴァ・ガードナー、メル・ファーラーという大スター主演の『円卓の騎士』など思い浮かぶ。

2014/12/26

博士論文の行き詰まり

秋から今までブログの更新が極めて少なくなっているのは、劇を見たり小説を読んだりしていないせいもあるが、執筆中の博士論文が行き詰って、その打開に時間を使っているためでもある。この秋、序論や結論、参考文献などを除き、論文の本体は一応書いて、これから編集作業をする、というところまで来た、と自分では思っていた。そこで、今までは各章を書き終えるごとに提出していたが、今回、全体をまとめて指導教授に読んでもらうために送っておいた。そこで、11月末に論文本体についての5ページにわたる長いコメントが届いた。

そのコメントは、「あまりがっかりしないように」という前置きで始まっていたが、まさにがっかりするようなものだった。私の草稿は5章に分けてあるが、大体において満足できるのは4章と5章のみで、1章と2章は根本的に書き直し、3章はほとんど役に立たないので、博論本体に含めるのはむつかしい、とのことだった。3章が本論から脱線しすぎて、問題が多いことは以前にも言われていて、私自身も自覚しており、本論とは別に巻末に付属資料(appendix)としてつけようかと考えていた。しかし、1章と2章、合わせて3万語以上が使えない、というのは予期していなかったので、愕然とした。最初にこれらの章を書いて指導教授に見せた時には、満足できる、という意味のコメントを貰っており、その折にも指導を受けてマイナーな書き直しも行っていたからだ。

しかし、彼の今回のコメントをじっくり読むと、これまで部分部分をばらばらに読んでいた折には気づかなった全体の理論的な統一性の問題点が、こうして全体を読むとはっきり分かったようなのである。彼も指導学生を困らせるつもりで厳しいコメントを送ってきたわけではないし、落胆させるのは不本意だろう。但、卒業論文などならともかく、審査するは指導教授ではなく、学内の他の専門家と、学外の専門家のふたりが原則であるから、自分の指導学生に甘くすれば、最後に彼自身が、どういう指導をしていたのか、と責任を問われることになる。

そういうわけだから、今、1章と2章をゼロから書き直し、また、序論を書くべく、新たに仕切り直ししたつもりで勉強中である。先生の指摘のうち、最も大事な点は、私の草稿全体を支える理論が弱くて、その為、全体の統一がとれていないということだ。これは私もいつも頭のどこかに引っかかっていた。しかし、今までは、どこかで、このくらいなら良いだろう、とにかく早く終わらせなくては、という甘さがあったように思う。

理論に弱点がありがちなのは、私だけでなく、日本の中世英語英文学の研究者の多くに見られると私は思う。資料はしっかり集め、テキストは正確に読み込んでいるのだが、最終的にいったい何を言いたい論文/発表なのか、よくわからないとか、膨大な資料と努力の割には、たどり着いた結論は些細な、あるいは曖昧なことに見える場合が多いように思う。語学の上でハンディの大きい我々は、学部の授業は文献の読解で精一杯で、中世の文献を読む前に、そもそも理論を組み立てる勉強がほとんどできてないのである。テキストを正確に熟読していけば、自然と疑問に思ったり、あるいは分かってくるものがあるはず、という「信仰」みたいな考えがあるかもしれない。テキストを自分なりに読み解いて昇華し、そこから理論を組み立てるのは、より自覚的で、日常的な理論構築の習慣が必要だろう。

さて、私は先生に色々と欠点を指摘していただいたおかげで、今は進むべき方向はかなりはっきりしている。時間的には、いったいいつ博士論文が完成するのか、またしてもわからなくなったが、あと3年も4年もということにはならないだろう・・・と希望的観測(苦笑)。先生のコメントが届いたときには相当に落胆したが、今は色々なヒントも貰って、大いにやる気が湧いてきた。博士論文として提出できなくても、必ず完成させるつもりだ。今の大学に提出する博士論文完成は、授業料とか、イギリスに先生に会いに行くとか、アルバイトもしづらいとかで、年々資金的に苦しくなり限界に来ている。3年、長くても4年で提出の計画だったから、円高など好材料があり今までやれたのが幸運だった。それにしても、始めたときには随分と楽観的で、過大な自己評価をしていたものだ。

2014/11/21

「ヨーロッパ 台頭するポピュリズム」(NHK BS世界のドキュメンタリー)

標記のドキュメンタリーの再放送を録画して見た。フランスのRoche Productionが今年作った番組。

イタリア、フランス、オランダ、ハンガリーにおける右翼民族主義政党のめざましい台頭を1時間弱で俯瞰してくれる。ひとつひとつの国の状況については、色々と説明不足の点があると思うが、ヨーロッパ全体に共通する問題として民族主義を捉え、そしてオランダやハンガリーなど、日本ではほとんど報道されない国の様子を教えてくれる番組として、大変貴重で、勉強になった。 先日同じシリーズで見た「左折禁止 社会民主主義は退潮しているか」(ドイツTaglicht Media, 2014)とは別の国の別の放送局の制作だが、ふたつが相互補完的になり、大変興味深かった。

こうした事が起こる大きな背景としては、グローバル化と経済不振による生活レベルの低下や失業者の増大がある。そうしたことへの不満が、分かりやすく身近なスケーブゴートとして、移民とEUへの反発に向かっている。更に中東情勢の不安定さから、反イスラム、反アラブへ結びつく。しかし、一旦他民族他文化排除の誘惑に屈した人々は、容易に反ユダヤ、反ロマなどの伝統的な差別も 受け入れるようになる。日本で言う「反日」の論理だ。番組のナレーターが言っているように、反――と唱えることで結びつく逆説のアイデンティティーがそこにはある。「イスラムではない私達の文化と歴史」というわけだ。だからといって、今のヨーロッパ人、とりわけワーキングクラスの人々が特に熱心なキリスト教徒なわけでも、自国・自民族の歴史や文化に深い知識や関心があるわけでも無い。むしろ教会は(少なくともイギリスでは)ガラガラであり、学校では実利的な科目が幅をきかせて、歴史や文学、芸術は二の次にされている国が多いだろう。それまで多数派で自分のアイデンティティーを深く考えることがなかった人々が、EUという国を超えた組織の成立やグローバル化された経済活動で自信を無くしたり、職を脅かされたりして、古い近代的民族国家の枠組に守って貰いたいと思っているようだ。

一方で、伝統的なリベラルで高学歴のミドルクラスの人々も、教育が行き届いてその数が増え、数少ないエリートでは無くなったことや、アジアを含めたグローバル競争の中で、仕事の取り合いになり、生活も苦しく、「ホワイトカラー・ワーキングクラス」という状況に陥っている。従来は、リベラル・ミドル・クラスは、東西の国々で、左翼政党の理論的支柱であり、根強い支持基盤であった。例えば、イギリス労働党の成立にはフェビアン協会が大きな役割を果たしている。しかし今、ホワイトカラー労働者の多くは組合組織の乏しいサービス業に属してミドルクラスから転落しており、ワーキングクラスと共に左翼運動や社会民主主義を支えるという物質的、精神的ゆとりがなくなっている。彼らは急速に左翼を離れ、経済第一主義で大企業の影響下にある政党(イギリスの保守党のような。日本では自民党)や民族主義政党を支持するようになった。

危険なのは、こういう民族主義政党の台頭に影響されて、政権を取っている保守系政党までが政策を変えたり、保守と民族主義の政党が連立したりすること。

興味深く、また恐ろしくもあるのは、民族主義政党は世界で同時に台頭するということ。今のEU諸国や日本もそうだが、第2次大戦前もまさにそうだった。各国で剥き出しの民族主義が敵を求めて徘徊し始めると、戦争の危険が増大する。怖い。