観劇日:2016.4.19 (171分、休憩1回)
劇場:吉祥寺オデオン
演出:マリアンヌ・エリオット
原作:マーク・ハッドン
脚本:サイモン・スティーブンス
セット:バニー・クリスティー
照明:ポール・コンスタブル
音響:イアン・ディッキンソン
音楽:エイドリアン・サットン
映像:フィン・ロス
出演:
ルーク・トレッダウェイ (クリストファー)
ニコラ・ウォーカー (ジュディ、母親)
ユーナ・スタッブス (ミセス・アレクサンダー、近所の老婦人)
ニーブ・キューザック (シボーン、特殊学級の先生)
ポ−ル・リッター (エド、父親)
☆☆☆☆☆/ 5
NT Liveの映像を通してだけれど、久しぶりにイギリスの舞台を見た。工夫に満ちた舞台で、非常に楽しめた。2012年の制作だが、初演ではオリヴィエ賞など多くの演劇賞を獲得し、2016年の今になってもロンドンではギールグッド劇場でロングランしており、また全世界で NT Liveを通じて上映され続けているのもうなずける傑作だ。
物語は、マーク・ハッドンの小説を原作としており、自閉症スペクトラムの15歳の少年、クリストファーを主人公に、彼の父母、そして特殊学級の先生を中心に描く。
クリストファーは2年前に母親を心臓発作で失い、今は父親と地方の小都市スウィンドンで暮らしている。自閉症で日常の社会生活では色々な困難はあるが、数学では人並み外れた能力を持っている。ある日彼は庭で隣人のシアーズさんの犬が、熊手(干し草かきに使う大きなやつ)で無惨に刺し殺されているのを見つけ、非常にショックを受ける。彼は、その「殺犬」の犯人を捜そうとして近所の家を戸別訪問して話を聞こうとするが、自閉症の彼には到底理解出来ない複雑な事情を聞いて混乱する。犬の死に端を発した彼の冒険は、彼をロンドンへ向かわせるが、旅は困難を極める・・・。
自閉症の少年の心を描きながら、しかし、観客は父や母、先生など健常者の大人の視点も理解しなければいけない。脚本のスティーブンスと演出のエリオットは、そういう2つの視野を絡み合わせつつ、巧みに舞台を構成している。そして、それを実現させたデザイン、照明、音響担当等のスタッフの力も非常に大きい。例えば、クリストファーの書く「本」(実は日記)を彼自身に読ませたり、先生のシボーンに読ませたりして、視点をずらしつつ、彼の内面を照射する。ある意味、デジタルの世界のように整然と構成されているクリストファーの思考形態は、照明による四角い線で格子状に区切られた舞台と、その世界を飛び交う数字や記号で表される。一方、父母など、彼のまわりの人間達の心や行動はあまりにもぐちゃぐちゃで、クリストファーには到底、シャーローク・ホームズのようにはきれいに解読できない。キャパシティーを越えてあふれ出す情報を前にして、クリストファーは混乱し、パニックを起こす。
障害を持った人を健常者の子供と比べるのは不正確とは思うが、見終わった後、私は自分の子供の頃の気持ちを思いだした。大人の言っている言葉が分からない、彼らの言う正しい事、間違った事、しなければならない、してはならない事の意味が分からない、そういう気持ち。大人の世界が無限の謎解きパズルのようで、不思議なことばかりだった。喜ばれると思ったことが大人を困らせたり、いけないことと思ったのに褒められたり。そして、同じ日本語なのに、大人同士の会話は、何が何だか分からなくて、暗号が飛び交う空間のようだった。
常々感じていることだけど、人と人を結びつける感情のコード、言語とかジェスチャーとかそれらのタイミングとか組み合わせとか強弱とか、そういうものは、人それぞれ違っていて、誰が正しいとか、何が正常とか言いがたい。ただし、大多数の人々を結びつけるコードの共通項によって世界は動いているので、そういうマジョリティーのコードとは違ったシステムを持っている人は、この大人の世界では上手く機能できない。子供達もそうだが、自閉症スペクトラムの人達も、ダウン症の人達もそうだ。でも彼らは彼らの世界においては首尾一貫して機能しているとも言える。それどころか、クリストファーのように、通常のコードで動く人々には理解出来ない世界を持っていたりするのだろう。クリストファーが数学に取り組んだり、天空を見上げたりするとき、彼の想像力は私達の思いもよらないパラレル・ワールドで無限大にはじけ、私達には見えない世界を見ている。クリストファーのように、整然とした世界で上手く機能し、それを越えるとパンクするというある意味分かりやすい宇宙に生きている人と視線を重ねて見ると、彼の父母やシアーズ夫妻のような人々は何と不完全で混乱していることか。劇を見終わる頃には、彼らこそ、不可解な衝動にがんじがらめの、救いようのない「障害者」に見えてきたから不思議だ。
クリストファーを演じたルーク・トレッダウェイは、15歳の少年にしては歳取りすぎて見えるが、これは映像によるクローズアップで見た為もあり、舞台ではそう目立たないだろうと思う。それ以外は完璧。自閉症の少年になりきった演技は入念な準備を要したことだろう。彼の細部まで行き届いた演技は、映画「博士と彼女のセオリー」でALS患者となったホーキンズ博士を演じたエディー・レドメインを彷彿とさせた。母親を演じたニコラ・ウォーカー、父親役のポール・リッターもクリストファーに振り回される大人を上手に、陰影を感じさせつつ演じている。そして、クリストファーの世界と大人達の世界の仲立ちをし、少し離れたり、内側に入ったりしつつクリストファーを見続けるシボーン先生の役柄と、それを演じたニーブ・キューザックが大変印象的だ。
普通の映画を見るよりは大分高価だが(3000円)、十二分にお釣りの来る満足感を得られた。私は社会の問題を描く劇や、シェイクスピアやイプセンなどの西洋古典が好きなので、この劇にはあまり期待せずに出かけたが、予想が良い意味で完全にはずれて良かった。
2016/04/20
2016/03/22
【英・アイルランド・仏映画】「ジミー、野を駆ける伝説」(2014)
原題:"Jimmy's Hall"
監督:ケン・ローチ
脚本:ポール・ラヴァティ
制作:レベッカ・オブライエン
音楽:ジョージ・フェントン
撮影:ロビー・ライアン
出演:
バリー・ウォード (ジミー・グラルトン)
フランシス・マギー (モシー、ジミーの親友)
アイリーン・ヘンリー (アリス、ジミーの母)
ウーナ (シモーヌ・カービー、ジミーの昔の恋人)
ステラ (ステラ・マクガール)
ジム・ノートン (シェリダン神父、教区教会の主任司祭)
アンドリュー・スコット (シーマス神父、若い司祭)
ブライアン・F・オバーン (デニス・オキーフ、大地主)
アシュリン・フランシオーシ (マリー・オキーフ)
☆☆☆☆ / 5
2014年の映画で、日本では去年(2015年)の1月に公開された。私は公開前から見たいと思っていたのだが、そのうち行こうと思いつつ上映期間が終わってしまい、見逃した。先日WOWOWで放送され、録画して見た。
物語は1930年代、世界恐慌後のアイルランドにおいて、実際に存在した社会主義の活動家ジェイムズ(ジミー)・グラルトン(James Gralton, 1886-1945)の姿に基づいているそうだが、細部はフィクションだろう。
ジミーは、アイルランドの北部、リートリム州(County Leitrim)の小さな農村で生まれ育ったが、1920年頃、アイルランドの独立戦争に参加し、地域の人望を集めた。その後、彼はアメリカに移住していたが、年老いた母の世話をし、農業を営むために10年ぶりに故郷の村に帰ってきたところで物語は始まる。この当時のアイルランドは、映画からうかがえる限りでは、政府とカトリック教会、そして大地主達が、権力と押しつけのモラルで、貧しい農民達をがんじがらめにしていた。その象徴的な存在が教区教会の司祭、シェリダン神父であり、地主で資本家のデニス・オキーフ。
ジミーは昔の仲間に歓迎され、皆と農作業に励んだりして静かな暮らしを始める。しかし、彼が10年前に様々な社会活動や教育を行っていたささやかなトタン張りの建物(「ジミーのホール」)のことを聞きつけた10代の若者達が、廃屋のようになっているホールを整備し、昔のような活動を再開して欲しい、とジミーにせがむ。もめ事の種を避けて、目立たない暮らしをしようとしていたジミーだったが、再三の願いを断り切れず、皆と力を合わせてホールを再開。詩の朗読、絵画教室、音楽とダンス等々、様々な活動が熱心に行われるようになる。特に、アイルランド特有のダンスのシーンが素晴らしい。
しかし、厳格で禁欲的なモラルを貧しい教区民に押しつけて支配したいシェリダン神父や、共産主義や組合活動を蛇蠍のごとく嫌う地主のオキーフら村の支配階級は、ジミー達の文化活動に実際以上に政治的、階級闘争的な側面を読み込んで、破壊分子として危険視し、何かにつけて抑圧しようとした。折しも、貧しい農家がオキーフから家を取り上げられるという事件が起き、住民と地主が激しく対立する。それを望んでいなかったジミーも、否応なく政治的対立の構図に引き込まれていく・・・。
ケン・ローチの映画は、私にはどれを見ても気に入ることは分かっていたが、これは特にfeel-goodタイプの作品。社会の問題を描きつつも、踊りや音楽とか、若者達の明るさなどで、全体が楽しい雰囲気で溢れていて、非常に楽しめた。幕切れも希望を抱かせる爽やかな終わり方をしている。映画が始まった途端、画面一杯に広がるまぶしい程の緑の景色も印象的。アイルランドらしさを前面に押し出したローチの演出だ。そして、映画の主要な場面を占めるダンスのシーンが圧巻。アイルランドの音楽や踊りと、ジミーがアメリカから持ち帰った黒人の音楽や踊りが混じり合うあたりも、虐げられた者達への共感を芸能を通じて表現したいというローチのメッセージが感じられる。アイルランドの音楽と踊りが堪能出来るだけでも、見る価値がある映画だ。日本における新劇やプロレタリア文学もそうだが、かっては洋の東西を問わず、芸術家や文化人が労働者の中に入っていったり、労働者自身が色々な文化活動を通して自分達を高めようとしたりした運動は各国にあった。イギリスの演劇では、ナショナルで上演された”Pitman Painters”など記憶に残る。ジミー達の活動もそうしたものとしても捉えられるだろう。
私はアイルランド史についてわずかな知識しか無いが、この映画を通してうかがえる限り、警察や地元の資産家とつるんだカトリック教会による精神的、物理的抑圧が凄まじい。ジミーのホールに行く人々を逐一監視して、教会で名前を読み上げてさらし者にしたり、商店主には不買運動を示唆して脅かし、教会では日曜の説教を利用してジミー達の文化活動を悪魔の誘惑のように糾弾する。まるで全体主義の国家のようだ。主任司祭シェリダンを演じたジム・ノートンは大変説得力ある演技で、彼こそまさに悪魔に見えた。彼はジミーが誠実で、誘惑に屈せず、決してひるまない強い精神の持ち主であることを尊敬しつつ、それ故に尚更彼を怖れ、迫害する。大恐慌後、全世界で人々が貧困に打ちひしがれ、独裁者スターリンに率いられたソビエトが革命後の混乱を乗り越えて国力を伸ばしつつあった時代、欧米の資本家や宗教指導者にとっては、共産主義が如何に大きな、そして現実的な脅威であったかが想像出来る。
英領の北アイルランドも含め、アイルランドにおけるカトリック教会、いやプロテスタントも含めてキリスト教諸派の影響力の大きさを再認識させる映画だった。21世紀の今になっても、北アイルランドでは宗派の違いを発端としたテロ事件が止んでいない。また、医療上の特殊な例外を除いて、北でも共和国でも堕胎が非合法で、望まない妊娠をしてしまった多くの女性がイングランドに渡って手術を受けているような国である。
この映画は、左翼社会運動家の視点から歴史上のヒーローを讃美しており、歴史を客観的に描いてはいないだろう。シェリダン神父がジミーの誠実さを認めることや、若いシーマス神父がシェリダン達に反対することなど、多少の陰影はあるが、実際は、農民の側も、支配層も、もっと複雑な動きがあっただろうと推測するが、それを冷静に分析するのはローチが目ざしている仕事ではない。
出演者の中で、私が良く見る俳優と言うと、アンドリュー・スコットくらい。誰も大スターの出ない映画だが、それでも世界中で公開され、満足した観客も多いことだろう。ケン・ローチと彼を支える脚本のポール・ラヴァティやプロデューサーのレベッカ・オブライエンなどのチームに大きな拍手!!
監督:ケン・ローチ
脚本:ポール・ラヴァティ
制作:レベッカ・オブライエン
音楽:ジョージ・フェントン
撮影:ロビー・ライアン
出演:
バリー・ウォード (ジミー・グラルトン)
フランシス・マギー (モシー、ジミーの親友)
アイリーン・ヘンリー (アリス、ジミーの母)
ウーナ (シモーヌ・カービー、ジミーの昔の恋人)
ステラ (ステラ・マクガール)
ジム・ノートン (シェリダン神父、教区教会の主任司祭)
アンドリュー・スコット (シーマス神父、若い司祭)
ブライアン・F・オバーン (デニス・オキーフ、大地主)
アシュリン・フランシオーシ (マリー・オキーフ)
☆☆☆☆ / 5
2014年の映画で、日本では去年(2015年)の1月に公開された。私は公開前から見たいと思っていたのだが、そのうち行こうと思いつつ上映期間が終わってしまい、見逃した。先日WOWOWで放送され、録画して見た。
物語は1930年代、世界恐慌後のアイルランドにおいて、実際に存在した社会主義の活動家ジェイムズ(ジミー)・グラルトン(James Gralton, 1886-1945)の姿に基づいているそうだが、細部はフィクションだろう。
ジミーは、アイルランドの北部、リートリム州(County Leitrim)の小さな農村で生まれ育ったが、1920年頃、アイルランドの独立戦争に参加し、地域の人望を集めた。その後、彼はアメリカに移住していたが、年老いた母の世話をし、農業を営むために10年ぶりに故郷の村に帰ってきたところで物語は始まる。この当時のアイルランドは、映画からうかがえる限りでは、政府とカトリック教会、そして大地主達が、権力と押しつけのモラルで、貧しい農民達をがんじがらめにしていた。その象徴的な存在が教区教会の司祭、シェリダン神父であり、地主で資本家のデニス・オキーフ。
ジミーは昔の仲間に歓迎され、皆と農作業に励んだりして静かな暮らしを始める。しかし、彼が10年前に様々な社会活動や教育を行っていたささやかなトタン張りの建物(「ジミーのホール」)のことを聞きつけた10代の若者達が、廃屋のようになっているホールを整備し、昔のような活動を再開して欲しい、とジミーにせがむ。もめ事の種を避けて、目立たない暮らしをしようとしていたジミーだったが、再三の願いを断り切れず、皆と力を合わせてホールを再開。詩の朗読、絵画教室、音楽とダンス等々、様々な活動が熱心に行われるようになる。特に、アイルランド特有のダンスのシーンが素晴らしい。
しかし、厳格で禁欲的なモラルを貧しい教区民に押しつけて支配したいシェリダン神父や、共産主義や組合活動を蛇蠍のごとく嫌う地主のオキーフら村の支配階級は、ジミー達の文化活動に実際以上に政治的、階級闘争的な側面を読み込んで、破壊分子として危険視し、何かにつけて抑圧しようとした。折しも、貧しい農家がオキーフから家を取り上げられるという事件が起き、住民と地主が激しく対立する。それを望んでいなかったジミーも、否応なく政治的対立の構図に引き込まれていく・・・。
ケン・ローチの映画は、私にはどれを見ても気に入ることは分かっていたが、これは特にfeel-goodタイプの作品。社会の問題を描きつつも、踊りや音楽とか、若者達の明るさなどで、全体が楽しい雰囲気で溢れていて、非常に楽しめた。幕切れも希望を抱かせる爽やかな終わり方をしている。映画が始まった途端、画面一杯に広がるまぶしい程の緑の景色も印象的。アイルランドらしさを前面に押し出したローチの演出だ。そして、映画の主要な場面を占めるダンスのシーンが圧巻。アイルランドの音楽や踊りと、ジミーがアメリカから持ち帰った黒人の音楽や踊りが混じり合うあたりも、虐げられた者達への共感を芸能を通じて表現したいというローチのメッセージが感じられる。アイルランドの音楽と踊りが堪能出来るだけでも、見る価値がある映画だ。日本における新劇やプロレタリア文学もそうだが、かっては洋の東西を問わず、芸術家や文化人が労働者の中に入っていったり、労働者自身が色々な文化活動を通して自分達を高めようとしたりした運動は各国にあった。イギリスの演劇では、ナショナルで上演された”Pitman Painters”など記憶に残る。ジミー達の活動もそうしたものとしても捉えられるだろう。
私はアイルランド史についてわずかな知識しか無いが、この映画を通してうかがえる限り、警察や地元の資産家とつるんだカトリック教会による精神的、物理的抑圧が凄まじい。ジミーのホールに行く人々を逐一監視して、教会で名前を読み上げてさらし者にしたり、商店主には不買運動を示唆して脅かし、教会では日曜の説教を利用してジミー達の文化活動を悪魔の誘惑のように糾弾する。まるで全体主義の国家のようだ。主任司祭シェリダンを演じたジム・ノートンは大変説得力ある演技で、彼こそまさに悪魔に見えた。彼はジミーが誠実で、誘惑に屈せず、決してひるまない強い精神の持ち主であることを尊敬しつつ、それ故に尚更彼を怖れ、迫害する。大恐慌後、全世界で人々が貧困に打ちひしがれ、独裁者スターリンに率いられたソビエトが革命後の混乱を乗り越えて国力を伸ばしつつあった時代、欧米の資本家や宗教指導者にとっては、共産主義が如何に大きな、そして現実的な脅威であったかが想像出来る。
英領の北アイルランドも含め、アイルランドにおけるカトリック教会、いやプロテスタントも含めてキリスト教諸派の影響力の大きさを再認識させる映画だった。21世紀の今になっても、北アイルランドでは宗派の違いを発端としたテロ事件が止んでいない。また、医療上の特殊な例外を除いて、北でも共和国でも堕胎が非合法で、望まない妊娠をしてしまった多くの女性がイングランドに渡って手術を受けているような国である。
この映画は、左翼社会運動家の視点から歴史上のヒーローを讃美しており、歴史を客観的に描いてはいないだろう。シェリダン神父がジミーの誠実さを認めることや、若いシーマス神父がシェリダン達に反対することなど、多少の陰影はあるが、実際は、農民の側も、支配層も、もっと複雑な動きがあっただろうと推測するが、それを冷静に分析するのはローチが目ざしている仕事ではない。
出演者の中で、私が良く見る俳優と言うと、アンドリュー・スコットくらい。誰も大スターの出ない映画だが、それでも世界中で公開され、満足した観客も多いことだろう。ケン・ローチと彼を支える脚本のポール・ラヴァティやプロデューサーのレベッカ・オブライエンなどのチームに大きな拍手!!
2016/03/16
【イギリス映画】“Suffragette”(サフラジェット)(2015年)
監督:Sarah Gavron
脚本:Abi Morgan
制作:Alison Owen, Faye Ward
音楽:Alexandre Desplat
出演:
Carey Mulligan (Maud Watts)
Helena Bonham Carter (Edith Ellyn)
Anne-Marie Duff (Violet Miller)
Natalie Press (Emily Davidson)
Meryl Streep (Emmeline Pankhurst)
Romola Garai (Alice Haughton)
Brendan Gleeson (Steed)
Ben Whishaw (Sonney Watts)
Samuel West (Benedict)
☆☆☆☆☆ / 5
(まだ日本公開前の映画です。これから見ようと思う人は、以下は読まない方が良いかも知れません。日本公開時のタイトルがどうなるかは知りません。)
イギリスにおける第一次世界大戦直前の女性参政権運動の様子を描いた映画。昨年(2015)の10月にイギリスで封切られた。日本でもおそらく今年か来年あたり公開されることと思う。題名の”Suffragette”は女性参政権運動家を表す言葉。昨年のイギリスでの公開前から是非見たいと思っていたが、日本公開を待ちきれず、アマゾンUKでDVDの予約が可能になったので、予約していたら先日発売になり、送られてきた。
私が期待していた通り、大いに楽しめたし、公平に見ても大変良い映画だと思う。歴史的事実を描きつつも、両性の平等と女性の政治参加を応援する、フェミニズムの視点に立つ映画であり、映画の最後には、各国で女性参政権が獲得された年を示し、例えばサウジアラビアのように未だに女性の政治・社会参加が限られている国々もある中、現在と未来へのメッセージを投げかけてもいる。
イギリスにおける婦人参政権運動の最も有名な指導者、エメリン・パンクハーストや、エプソン競馬場で国王ジョージ5世に直訴しようとして命を落としたエミリー・ディヴィッドソンなど実在した人物も出てくるが、基本的な物語は、架空の人物モード・ワッツという20歳代の若い洗濯婦で一児の母親である女性が、職場の同僚ヴァイオレット・ミラーに誘われて、徐々に主体性を持った運動家に育っていくプロセスを描きながら、1912年から13年にかけての婦人参政権運動を描く、この頃、彼女たちは、政界やマスコミ、そして多くの国民の関心を高めるために、投石、放火などの実力行使に訴えたが、そうした流れを史実にかなり忠実に描いているようだ。
イギリスの婦人参政権運動がパンクハースト家のような上流階級、あるいはミドルクラスだけでなく、モードのような女性を多く巻き込んでいたとしたら、この運動には階級闘争的な面もあったということだろうか。劣悪な洗濯工場で、体を壊したり、怪我をしたり、監督の男性の性暴力に苦しんだりしつつ、日々長時間労働を強いられていたモードやヴァイオレットの様子は、まさに囚人の暮らしであり、20世紀になっても、ディケンズの時代とさして変わらない状況が続いていたことがうかがえる。更に、モードは学校にもろくに行っておらず、十代前半から洗濯婦として働き始めていた。彼女の夫ソニーも同じ工場で働いており、2人には男の子がひとりいて、モードにとっては唯一生きる喜びになっていたが、そうしたささやかな幸福も、彼女が運動に加わることで大きな打撃を被ることになる。また、登場する運動家の中には下院議員の妻アリス・ホートン、妻の運動に理解ある夫と共に薬局を営むイーディスなどもいるが、色々な階級の女性たちが、女性の解放の為に協力して立ち上がっている様子を描こうという意図だろう。下院議員の妻であるアリスでさえ、その自由と体は夫の所有物である。伝わってくるメッセージは、参政権の獲得なくしては、あらゆる階層の女性を隷属状態から解放出来ないということだ。
警察の特殊部隊による活動家のリストアップと監視、警察官による暴力、尋問や懐柔策など、リアリティーがあり、今も昔も、そして洋の東西を問わず変わらないなと思った。70年安保前後の、新左翼の活動家達の経験も思い出した。
私はキャリー・マリガンの舞台や映画、テレビ・ドラマなどを見た記憶がなく、多分これが初めてだと思うが、非常に良い印象を持った。監督や制作者の意図もあると思うが、メークをほとんどつけてない(ように見える)顔で、ワーキングクラスの洗濯婦を自然に演じることが出来ていた。成長する運動家のたくましさも、そして、運動のなかで、妻として、母親として悩む様子も上手く演じていた。それ以外の女優陣も豪華。特に、私にとって主役以上に印象的だったのは、ヴァイオレットを演じたアンヌーマリー・ダフ。舞台で何度か見た女優だが、彼女の台詞と表情の雄弁さにはいつも感心する。ヘレナ・ボナム・カーター、ロモラ・ガライなど、脇役の女優陣も演技達者。カメオで、メリル・ストリープがエメリン・パンクハーストを演じたのも、はまり役だったと思う。
衣装、セット、そしてロンドンの通りの様子など、実に良く出来たピリオド・ドラマになっている。スタッフの熱意と徹底したリサーチがうかがえる。スターを目立たせて彼らの人気で客を集めようとする映画ではなく、飽くまで女性参政権運動家達を描きたいという制作者達の意図が感じられた。そうした作品だからこそ、女優達がより一層輝いて魅力的に見えた。
この映画では、戦闘的な女性参政権運動に焦点を当てているが、これ以外にも、ミリセント・フォーセットに率いられたサフラジスト(Suffragists)と呼ばれる穏健なグループもあり、議会へのロビー活動を通じての政治参加への模索も行われていた。自由党、労働党、労働運動や知識人達との関係など、女性参政権運動にも多様な顔があった。そうした点はこの映画では分からないが、2時間に満たない作品に大局的な視点を求めるのは無理な注文だろう。私も知らないことばかりなので、この映画をきっかけにして、もう少し映画の背景を学んで見たいと思った。先進国の中では、両性の平等に関して極めて保守的で、家父長的であり、「フェミニズム」という言葉がしばしば揶揄される日本においてこそ、特に若い女性達にこの映画を広く見て、考えて欲しいと思う。ちなみに、モードの夫役として、日本人女性にかなり人気のあるらしい(?)ベン・ウィショーも出演。彼が出ているという理由だけでこの映画を見る女性にも、映画のメッセージが心に響くと良いが。
なお、この映画に描かれた時代は第一次世界大戦直前。大戦後、戦争中の女性による社会の多様な職域での活躍が評価されて、1918年には人民代表法 (Representation of the People Act〉が制定され、30歳以上の女性の多く(地位や財産に制限あり)に選挙権が認められ、28年には21歳以上の全ての男女に選挙権が認められるようになった。(なお、この1918年に初めて男子普通選挙権も認められた。それまでは、戸主選挙権であったが、すべての21歳以上の成人男子に認められるようになった。)イギリスにおける女性解放の歴史上、暴力を含む実力行使を行ったサフラジェット達がどれだけの役割を果たしたかは議論が分かれそうだが、それを考える上でもこの映画は見る価値がある。忘れてならないのは、投票などの民主主義の最低限の権利は勿論、平和的なデモでさえも弾圧されていた時代だったということだ。つまり、アパルトヘイト時代の南アフリカにおける黒人達やANCの状況と似ている。そういう状態で、女性たちが延々と平和的手段だけで運動を続けることに意味があったのか疑問であり、実力行使は起こるべくして起こったと言える。
写真は、エメリン・パンクハースト(写真の出典はこちら)。
[2016年9月14日追記]
この映画、日本公開が決まったようですが、その邦題が『未来を花束にして』。宣伝方針としては、原作の政治色、フェミニズム色を出来るだけ消して、きれいな女優さんたちが、時代の荒波に揉まれつつも、けなげに頑張る昔の女性を演じました、というところでしょうか。日本社会の家父長的な性格を示すなんとも皮肉な題名となりました。
脚本:Abi Morgan
制作:Alison Owen, Faye Ward
音楽:Alexandre Desplat
出演:
Carey Mulligan (Maud Watts)
Helena Bonham Carter (Edith Ellyn)
Anne-Marie Duff (Violet Miller)
Natalie Press (Emily Davidson)
Meryl Streep (Emmeline Pankhurst)
Romola Garai (Alice Haughton)
Brendan Gleeson (Steed)
Ben Whishaw (Sonney Watts)
Samuel West (Benedict)
☆☆☆☆☆ / 5
(まだ日本公開前の映画です。これから見ようと思う人は、以下は読まない方が良いかも知れません。日本公開時のタイトルがどうなるかは知りません。)
イギリスにおける第一次世界大戦直前の女性参政権運動の様子を描いた映画。昨年(2015)の10月にイギリスで封切られた。日本でもおそらく今年か来年あたり公開されることと思う。題名の”Suffragette”は女性参政権運動家を表す言葉。昨年のイギリスでの公開前から是非見たいと思っていたが、日本公開を待ちきれず、アマゾンUKでDVDの予約が可能になったので、予約していたら先日発売になり、送られてきた。
私が期待していた通り、大いに楽しめたし、公平に見ても大変良い映画だと思う。歴史的事実を描きつつも、両性の平等と女性の政治参加を応援する、フェミニズムの視点に立つ映画であり、映画の最後には、各国で女性参政権が獲得された年を示し、例えばサウジアラビアのように未だに女性の政治・社会参加が限られている国々もある中、現在と未来へのメッセージを投げかけてもいる。
イギリスにおける婦人参政権運動の最も有名な指導者、エメリン・パンクハーストや、エプソン競馬場で国王ジョージ5世に直訴しようとして命を落としたエミリー・ディヴィッドソンなど実在した人物も出てくるが、基本的な物語は、架空の人物モード・ワッツという20歳代の若い洗濯婦で一児の母親である女性が、職場の同僚ヴァイオレット・ミラーに誘われて、徐々に主体性を持った運動家に育っていくプロセスを描きながら、1912年から13年にかけての婦人参政権運動を描く、この頃、彼女たちは、政界やマスコミ、そして多くの国民の関心を高めるために、投石、放火などの実力行使に訴えたが、そうした流れを史実にかなり忠実に描いているようだ。
イギリスの婦人参政権運動がパンクハースト家のような上流階級、あるいはミドルクラスだけでなく、モードのような女性を多く巻き込んでいたとしたら、この運動には階級闘争的な面もあったということだろうか。劣悪な洗濯工場で、体を壊したり、怪我をしたり、監督の男性の性暴力に苦しんだりしつつ、日々長時間労働を強いられていたモードやヴァイオレットの様子は、まさに囚人の暮らしであり、20世紀になっても、ディケンズの時代とさして変わらない状況が続いていたことがうかがえる。更に、モードは学校にもろくに行っておらず、十代前半から洗濯婦として働き始めていた。彼女の夫ソニーも同じ工場で働いており、2人には男の子がひとりいて、モードにとっては唯一生きる喜びになっていたが、そうしたささやかな幸福も、彼女が運動に加わることで大きな打撃を被ることになる。また、登場する運動家の中には下院議員の妻アリス・ホートン、妻の運動に理解ある夫と共に薬局を営むイーディスなどもいるが、色々な階級の女性たちが、女性の解放の為に協力して立ち上がっている様子を描こうという意図だろう。下院議員の妻であるアリスでさえ、その自由と体は夫の所有物である。伝わってくるメッセージは、参政権の獲得なくしては、あらゆる階層の女性を隷属状態から解放出来ないということだ。
警察の特殊部隊による活動家のリストアップと監視、警察官による暴力、尋問や懐柔策など、リアリティーがあり、今も昔も、そして洋の東西を問わず変わらないなと思った。70年安保前後の、新左翼の活動家達の経験も思い出した。
私はキャリー・マリガンの舞台や映画、テレビ・ドラマなどを見た記憶がなく、多分これが初めてだと思うが、非常に良い印象を持った。監督や制作者の意図もあると思うが、メークをほとんどつけてない(ように見える)顔で、ワーキングクラスの洗濯婦を自然に演じることが出来ていた。成長する運動家のたくましさも、そして、運動のなかで、妻として、母親として悩む様子も上手く演じていた。それ以外の女優陣も豪華。特に、私にとって主役以上に印象的だったのは、ヴァイオレットを演じたアンヌーマリー・ダフ。舞台で何度か見た女優だが、彼女の台詞と表情の雄弁さにはいつも感心する。ヘレナ・ボナム・カーター、ロモラ・ガライなど、脇役の女優陣も演技達者。カメオで、メリル・ストリープがエメリン・パンクハーストを演じたのも、はまり役だったと思う。
衣装、セット、そしてロンドンの通りの様子など、実に良く出来たピリオド・ドラマになっている。スタッフの熱意と徹底したリサーチがうかがえる。スターを目立たせて彼らの人気で客を集めようとする映画ではなく、飽くまで女性参政権運動家達を描きたいという制作者達の意図が感じられた。そうした作品だからこそ、女優達がより一層輝いて魅力的に見えた。
この映画では、戦闘的な女性参政権運動に焦点を当てているが、これ以外にも、ミリセント・フォーセットに率いられたサフラジスト(Suffragists)と呼ばれる穏健なグループもあり、議会へのロビー活動を通じての政治参加への模索も行われていた。自由党、労働党、労働運動や知識人達との関係など、女性参政権運動にも多様な顔があった。そうした点はこの映画では分からないが、2時間に満たない作品に大局的な視点を求めるのは無理な注文だろう。私も知らないことばかりなので、この映画をきっかけにして、もう少し映画の背景を学んで見たいと思った。先進国の中では、両性の平等に関して極めて保守的で、家父長的であり、「フェミニズム」という言葉がしばしば揶揄される日本においてこそ、特に若い女性達にこの映画を広く見て、考えて欲しいと思う。ちなみに、モードの夫役として、日本人女性にかなり人気のあるらしい(?)ベン・ウィショーも出演。彼が出ているという理由だけでこの映画を見る女性にも、映画のメッセージが心に響くと良いが。
なお、この映画に描かれた時代は第一次世界大戦直前。大戦後、戦争中の女性による社会の多様な職域での活躍が評価されて、1918年には人民代表法 (Representation of the People Act〉が制定され、30歳以上の女性の多く(地位や財産に制限あり)に選挙権が認められ、28年には21歳以上の全ての男女に選挙権が認められるようになった。(なお、この1918年に初めて男子普通選挙権も認められた。それまでは、戸主選挙権であったが、すべての21歳以上の成人男子に認められるようになった。)イギリスにおける女性解放の歴史上、暴力を含む実力行使を行ったサフラジェット達がどれだけの役割を果たしたかは議論が分かれそうだが、それを考える上でもこの映画は見る価値がある。忘れてならないのは、投票などの民主主義の最低限の権利は勿論、平和的なデモでさえも弾圧されていた時代だったということだ。つまり、アパルトヘイト時代の南アフリカにおける黒人達やANCの状況と似ている。そういう状態で、女性たちが延々と平和的手段だけで運動を続けることに意味があったのか疑問であり、実力行使は起こるべくして起こったと言える。
写真は、エメリン・パンクハースト(写真の出典はこちら)。
[2016年9月14日追記]
この映画、日本公開が決まったようですが、その邦題が『未来を花束にして』。宣伝方針としては、原作の政治色、フェミニズム色を出来るだけ消して、きれいな女優さんたちが、時代の荒波に揉まれつつも、けなげに頑張る昔の女性を演じました、というところでしょうか。日本社会の家父長的な性格を示すなんとも皮肉な題名となりました。
2016/03/09
【イタリア映画】「ローマの教室で—我らの佳き日々—」 (2012年)
監督:ジョゼッペ・ピッチョーニ
出演:
マルゲリータ・ブイ (ジュリアーナ)
リッカルド・スカマルチョ (ジョバンニ)
ロベルト・ヘルリッカ (フィオリート)
☆☆☆☆ / 5
先日WOWOWで放送されたのを録画しておいて見た。気楽に楽しめる学園ドラマ。
ジュリアーナはローマの公立高校の校長。なかなか素敵な先生。彼女の高校へ新しい補助教員のジョバンニが着任する。金八先生みたいに肩に力は入ってない、自然体の若い男性だが、新任なので、それなりにやる気はある。彼を迎えるのはベテランの美術史(そんな授業があるのか、とちょっと驚く)の先生、フィオリート。この先生がまだ定年になってないの?と思うくらいのお爺さん。彼は哲学や文学にも詳しいようで大変なインテリだが、とてもシニカル。やる気のない生徒達に本気で教えても無駄、というような事をしばしばジョバンニに言う。彼自身、生きる希望を無くしているようで、惰性で仕事をしている。しかし、こんな教師だったら、思春期の難しい子供達をコントロールして、授業を成立させることは不可能だと思うんだけどね。
この学校は公立なので、色々と問題を抱えた子もいる。家庭に問題があり、また授業をしばしばさぼってかなり年長の男と付き合っているアンジェラ、母子家庭だが母親が出ていって帰ってこない男の子や、真面目な優等生だけど、自己破壊的なガールフレンドと付き合って大問題を起こす男の子など、色々いる。勉強だけじゃなく、これらの子供の家庭問題とか精神的問題の対応に奔走するジョバンニやジュリアーナの苦労と喜びを描く。
あまりシリアスじゃなく、大人も子供も、皆「まあ、どうにかなるさ」みたいな雰囲気を持ちつつ生きているところが良い。イタリア映画らしさかしらね。そして、かなり散文的で、特にエモーショナルなドラマにするわけでもなく、子供達のエピソードもあまり詳しく説明されないまま終わったりしているところも、かえって自然で良い。
突拍子もない、ピントの外れた老教師フィオリートは、突然大昔の卒業生から電話がかかってきて、大変な敬愛の言葉を受ける。この卒業生が非常に魅力的な大人の女性。2人は師弟のような、でも少しは恋人のような間になる。おかげで、立ち枯れた老木が突然蘇って、生きる喜びを感じ、授業でも熱弁をふるうようになるところが微笑ましい。私のような老人男性からみると、ありえないファンタジーだが、まあファンタジーとして楽しめた(^_^)。
魅力的な校長先生ジュリアーナは、母親に家出され、自分も病気になって入院する男の子を、まるで息子のように世話をする。実の母子のようになっていく2人の様子も心温まる。
アルバイトに出かけて、へとへとになって帰宅した後に見たのだが、とても癒やされた。
出演:
マルゲリータ・ブイ (ジュリアーナ)
リッカルド・スカマルチョ (ジョバンニ)
ロベルト・ヘルリッカ (フィオリート)
☆☆☆☆ / 5
先日WOWOWで放送されたのを録画しておいて見た。気楽に楽しめる学園ドラマ。
ジュリアーナはローマの公立高校の校長。なかなか素敵な先生。彼女の高校へ新しい補助教員のジョバンニが着任する。金八先生みたいに肩に力は入ってない、自然体の若い男性だが、新任なので、それなりにやる気はある。彼を迎えるのはベテランの美術史(そんな授業があるのか、とちょっと驚く)の先生、フィオリート。この先生がまだ定年になってないの?と思うくらいのお爺さん。彼は哲学や文学にも詳しいようで大変なインテリだが、とてもシニカル。やる気のない生徒達に本気で教えても無駄、というような事をしばしばジョバンニに言う。彼自身、生きる希望を無くしているようで、惰性で仕事をしている。しかし、こんな教師だったら、思春期の難しい子供達をコントロールして、授業を成立させることは不可能だと思うんだけどね。
この学校は公立なので、色々と問題を抱えた子もいる。家庭に問題があり、また授業をしばしばさぼってかなり年長の男と付き合っているアンジェラ、母子家庭だが母親が出ていって帰ってこない男の子や、真面目な優等生だけど、自己破壊的なガールフレンドと付き合って大問題を起こす男の子など、色々いる。勉強だけじゃなく、これらの子供の家庭問題とか精神的問題の対応に奔走するジョバンニやジュリアーナの苦労と喜びを描く。
あまりシリアスじゃなく、大人も子供も、皆「まあ、どうにかなるさ」みたいな雰囲気を持ちつつ生きているところが良い。イタリア映画らしさかしらね。そして、かなり散文的で、特にエモーショナルなドラマにするわけでもなく、子供達のエピソードもあまり詳しく説明されないまま終わったりしているところも、かえって自然で良い。
突拍子もない、ピントの外れた老教師フィオリートは、突然大昔の卒業生から電話がかかってきて、大変な敬愛の言葉を受ける。この卒業生が非常に魅力的な大人の女性。2人は師弟のような、でも少しは恋人のような間になる。おかげで、立ち枯れた老木が突然蘇って、生きる喜びを感じ、授業でも熱弁をふるうようになるところが微笑ましい。私のような老人男性からみると、ありえないファンタジーだが、まあファンタジーとして楽しめた(^_^)。
魅力的な校長先生ジュリアーナは、母親に家出され、自分も病気になって入院する男の子を、まるで息子のように世話をする。実の母子のようになっていく2人の様子も心温まる。
アルバイトに出かけて、へとへとになって帰宅した後に見たのだが、とても癒やされた。
2016/02/20
【講演】 杉山博昭 「ルネサンス期イタリアの聖史劇について」 の感想
(日時・会場)2016年2月19日 19-21時 早稲田大学戸山キャンパス
(講師)杉山博昭(早稲田大学高等研究所、助教)
(開催団体)観客発信メディアWL(ダブル)、来たるべき田楽研究会、共催
標記の一般向け講演会に行ってきた。質問時間を除いても100分くらい、様々な面にわたってフィレンツェの聖史劇のお話を堪能した。フランス中世劇については、ある程度本を読んだことがあるが、イタリアの聖史劇については、今まで何一つ知らなかったので、大変勉強になった。講師の杉山先生は修士で美術史を専攻されたそうで、特に、演劇と美術との関連に詳しい講演内容。沢山の絵画、ステージの再現模型の写真、イタリア現地の建築物の写真などを見せていただき、まるで美術史の授業を聞いているようだった。フラ・アンジェリコやボッティチェッリなど、イタリア絵画の巨匠の名作には、演劇の影響がかなりあるらしいと分かった。
講演内容について、講師の許可なしに具体的に詳しく書くのは、マナー違反になりかねないが、折角の貴重な機会だったので、イングランドの聖史劇との比較など、私の感想を中心に特に興味を引かれた点などメモしておきたい。
今回の演題は分かりやすいようにか、「・・・イタリアの・・・」となっているが、イタリアはひとつの独立国家ではなかったので、今回取り上げられたのはフィレンツェの聖史劇。それも15世紀、主に共和制時代に栄えたのだそうだ。というと、最近日本でも展覧会が相次いで開かれているボッティチェッリなど、イタリア・ルネサンス絵画の巨匠が活躍した時代と場所である。そうした絵画で描かれた天使とか聖書の人物や情景の多くが、演劇のシーンと非常に似通った面があるそうだ。美術と聖史劇の関連は、英米の聖史劇でもかなり研究されてきたが、何しろ宗教改革を経たイングランドの教会や大聖堂は白塗りされたり、削られたりして、ほとんど壁画が残っていない。イングランドの演劇と比較する場合、石膏(alabaster)の彫刻や写本の絵、ステンドグラス、そして、大陸諸国に残る絵画などが使われてきたが、イタリアはその点で、教会の壁画などとして圧倒的多数の絵画が残存しており、羨ましい。
フィレンツェでは、聖史劇が、野外だけでなく、聖堂の内部でも行われ、それらの聖堂の一部は今も現存するそうだ。聖堂内の身廊(入り口から中央までの一般信徒が入れる部分)と内陣(中央から、その奥の聖歌隊席や祭壇など、教会関係者のみ入れる部分)を仕切る壁(英語では’screen’とか’rood screen’)の高い部分で、演技が行われたらしい。こうした場所が残っているおかげで、上演の様子も具体的に再構成しやすいようだ。イングランドでは、教会の建物内部では、ラテン語の宗教儀式の一種である典礼劇は行われたが、英語やフランス語など俗語の劇が行われることはなかったようなので、違いに驚いた。
一方、野外の上演では、山車が使われたのは、イングランドと同様である。山車の行列は非常に重要な要素で、人々の人気を集めたスペクタクルだったようだ。これは日本のお祭りの山車とも共通する。但、講演を聴いた限りでは、実際の上演は町の中心部、ベッキオ宮殿の前のシニョリーア広場に山車が集結して並び、そこで行われたらしい。町の色々な場所で個別の山車が上演を行うというような事はなかったのだろうか? 日本のお祭りの山車は(例えば石川県小松市)、一同に集合して芸能を上演することもあるが、町の各所で踊りや歌舞伎を披露したりもする。イングランドのヨークでは、街頭の12の上演カ所(’stations’)が使われた、という15世紀初期の記録がある。山車がどのような形状をしていたと推測されるのか、動かすためにはどうしたのか(馬、人力?)など、聞いてみたかった。
俳優等について興味深かったのは、フィレンツェでも女性は登場しなかったと言うこと。女性役は少年が演じたようだ。この辺は、日本も含め、色々な国で共通する。そうした少年達は、性的な興味の対象にもなったとのこと。これも、イングランドや日本の女役と似た面がある。但、中世イングランドでは、地方では一部に女性が使われたという記述もあり、けして全国的に権力で女性の演技を禁じていたわけではなさそうである。その後、16世紀末から17世紀、商業演劇の時代になると、イングランドでも女性は絶対にステージには登れなくなる。その頃、フランスでは女優が使われていたそうだ。中世から17世紀末あたりまで、女優の存在や、女役の担い手について、西欧各国の事情を時系列でまとめて紹介すると面白そうだ。
フィレンツェの聖史劇は15世紀が最盛期で、その後廃れたようだ。プロテスタントに変わったイングランドよりも早いくらいだ。ギリシャ・ローマの古典劇の再興や活版印刷の隆盛などが関係があるようなことをちょっと言われていたが、時間が許せば廃れた理由も詳しく聞きたかった点。でも一度の講演では何もかもというわけには行かない。
他にも色々と面白い事があったが、上記の様に、あまり詳しく書くのはマナー違反になる怖れがあるので、このくらいにしておこう。杉山先生の研究については、ご自身が早稲田大学高等研究所のウェッブサイトで語っておられるので、関心のある方はそちらを参照してください。
更に詳しくは、若くして既に大冊の研究書を出版しておられるので、そちらを参照:『ルネッサンスの聖史劇』(中央公論新社、2013)
資料、スライド共に良くまとまっており、話も色々な興味深いエピソードを交えてお上手だった。才気煥発を絵に描いたような若手学者で、今後も大いに活躍されることと思う。私も教えられる事ばかりだった。
(追記) 今回、検索して始めて気づいたが、2014年7月に表象文化学会の企画パネルとして、「杉山博昭『ルネッサンスの聖史劇』を読む」という催しがあったそうで、その報告が表象文化学会の"REPRE" 22号に掲載されている。司会はフランス聖史劇研究の黒岩卓先生。学会のパネルであるから、それぞれの発言はかなり専門的で、私にもちょっと難しい。
(講師)杉山博昭(早稲田大学高等研究所、助教)
(開催団体)観客発信メディアWL(ダブル)、来たるべき田楽研究会、共催
標記の一般向け講演会に行ってきた。質問時間を除いても100分くらい、様々な面にわたってフィレンツェの聖史劇のお話を堪能した。フランス中世劇については、ある程度本を読んだことがあるが、イタリアの聖史劇については、今まで何一つ知らなかったので、大変勉強になった。講師の杉山先生は修士で美術史を専攻されたそうで、特に、演劇と美術との関連に詳しい講演内容。沢山の絵画、ステージの再現模型の写真、イタリア現地の建築物の写真などを見せていただき、まるで美術史の授業を聞いているようだった。フラ・アンジェリコやボッティチェッリなど、イタリア絵画の巨匠の名作には、演劇の影響がかなりあるらしいと分かった。
講演内容について、講師の許可なしに具体的に詳しく書くのは、マナー違反になりかねないが、折角の貴重な機会だったので、イングランドの聖史劇との比較など、私の感想を中心に特に興味を引かれた点などメモしておきたい。
今回の演題は分かりやすいようにか、「・・・イタリアの・・・」となっているが、イタリアはひとつの独立国家ではなかったので、今回取り上げられたのはフィレンツェの聖史劇。それも15世紀、主に共和制時代に栄えたのだそうだ。というと、最近日本でも展覧会が相次いで開かれているボッティチェッリなど、イタリア・ルネサンス絵画の巨匠が活躍した時代と場所である。そうした絵画で描かれた天使とか聖書の人物や情景の多くが、演劇のシーンと非常に似通った面があるそうだ。美術と聖史劇の関連は、英米の聖史劇でもかなり研究されてきたが、何しろ宗教改革を経たイングランドの教会や大聖堂は白塗りされたり、削られたりして、ほとんど壁画が残っていない。イングランドの演劇と比較する場合、石膏(alabaster)の彫刻や写本の絵、ステンドグラス、そして、大陸諸国に残る絵画などが使われてきたが、イタリアはその点で、教会の壁画などとして圧倒的多数の絵画が残存しており、羨ましい。
フィレンツェでは、聖史劇が、野外だけでなく、聖堂の内部でも行われ、それらの聖堂の一部は今も現存するそうだ。聖堂内の身廊(入り口から中央までの一般信徒が入れる部分)と内陣(中央から、その奥の聖歌隊席や祭壇など、教会関係者のみ入れる部分)を仕切る壁(英語では’screen’とか’rood screen’)の高い部分で、演技が行われたらしい。こうした場所が残っているおかげで、上演の様子も具体的に再構成しやすいようだ。イングランドでは、教会の建物内部では、ラテン語の宗教儀式の一種である典礼劇は行われたが、英語やフランス語など俗語の劇が行われることはなかったようなので、違いに驚いた。
一方、野外の上演では、山車が使われたのは、イングランドと同様である。山車の行列は非常に重要な要素で、人々の人気を集めたスペクタクルだったようだ。これは日本のお祭りの山車とも共通する。但、講演を聴いた限りでは、実際の上演は町の中心部、ベッキオ宮殿の前のシニョリーア広場に山車が集結して並び、そこで行われたらしい。町の色々な場所で個別の山車が上演を行うというような事はなかったのだろうか? 日本のお祭りの山車は(例えば石川県小松市)、一同に集合して芸能を上演することもあるが、町の各所で踊りや歌舞伎を披露したりもする。イングランドのヨークでは、街頭の12の上演カ所(’stations’)が使われた、という15世紀初期の記録がある。山車がどのような形状をしていたと推測されるのか、動かすためにはどうしたのか(馬、人力?)など、聞いてみたかった。
俳優等について興味深かったのは、フィレンツェでも女性は登場しなかったと言うこと。女性役は少年が演じたようだ。この辺は、日本も含め、色々な国で共通する。そうした少年達は、性的な興味の対象にもなったとのこと。これも、イングランドや日本の女役と似た面がある。但、中世イングランドでは、地方では一部に女性が使われたという記述もあり、けして全国的に権力で女性の演技を禁じていたわけではなさそうである。その後、16世紀末から17世紀、商業演劇の時代になると、イングランドでも女性は絶対にステージには登れなくなる。その頃、フランスでは女優が使われていたそうだ。中世から17世紀末あたりまで、女優の存在や、女役の担い手について、西欧各国の事情を時系列でまとめて紹介すると面白そうだ。
フィレンツェの聖史劇は15世紀が最盛期で、その後廃れたようだ。プロテスタントに変わったイングランドよりも早いくらいだ。ギリシャ・ローマの古典劇の再興や活版印刷の隆盛などが関係があるようなことをちょっと言われていたが、時間が許せば廃れた理由も詳しく聞きたかった点。でも一度の講演では何もかもというわけには行かない。
他にも色々と面白い事があったが、上記の様に、あまり詳しく書くのはマナー違反になる怖れがあるので、このくらいにしておこう。杉山先生の研究については、ご自身が早稲田大学高等研究所のウェッブサイトで語っておられるので、関心のある方はそちらを参照してください。
更に詳しくは、若くして既に大冊の研究書を出版しておられるので、そちらを参照:『ルネッサンスの聖史劇』(中央公論新社、2013)
資料、スライド共に良くまとまっており、話も色々な興味深いエピソードを交えてお上手だった。才気煥発を絵に描いたような若手学者で、今後も大いに活躍されることと思う。私も教えられる事ばかりだった。
(追記) 今回、検索して始めて気づいたが、2014年7月に表象文化学会の企画パネルとして、「杉山博昭『ルネッサンスの聖史劇』を読む」という催しがあったそうで、その報告が表象文化学会の"REPRE" 22号に掲載されている。司会はフランス聖史劇研究の黒岩卓先生。学会のパネルであるから、それぞれの発言はかなり専門的で、私にもちょっと難しい。
2016/02/13
「英国の夢、ラファエル前派展」(Bunkamura ザ・ミュージアム)
2月13日、Bunkamura のラファエル前派展に行ってきました。ラファエル前派の展覧会は人気も高いし、日本でもしばしば開かれてきたと思います。今回の特徴は、有名なテー
ト・ギャラリーなんかの作品と違い、リバプールの国立美術館からの作品が中心となっていること。従って、私は特にラファエル前派に詳しい訳ではありません
が、美術展で見たことがなく、また画集などでも覚えがない絵がほとんどでした。そういう意味では貴重な展覧会だし、行く価値があります。ただ、テートなん
かの絵と比べると、小品や、私にはあまり説得力の感じられない絵が多いかも・・・?まあ、日本まで持ってくることが出来る絵というと限られるでしょうからね。
展覧会の最初に、ジョン・エヴァレット・ミレーの絵が何点かあるのですが、私はそれらが一番好きです。美しい!私は、ミレー、好きですね。今回、 自分で特に気づきました(^0^)。ミレーの描く女性や自然の美しさ、何とも言いがたいです。「春(リンゴの花咲く頃)」という作品が特に印象に残っていま す。私が特にミレーが好きなのは、題材が中世だったりしても、描かれているのは19世紀のイギリス人だからですね。ヴィクトリア朝の美人画です。着ている ブラウスなんか、今でもよく見るような花柄だったり。展示の最初に掛けてある絵「いにしえの夢—浅瀬を渡るイサンブラス卿」に描かれた騎士、イサンブラス卿も、顔だけ見るとよく見るような、孫を連れたイギリスの老紳士。その他のミレーの絵も、存分に楽しめました。展示の最初がクライマックス!
その他では、バーン=ジョーンズの「スポンサ・デ・リバノ(レバノンの花嫁)」という、旧約聖書の雅歌から題材を取った大作があり、素晴らしい作品でした。同じく彼の「フラジオレットを吹く天使」はまるでルネサンスのテンペラ画。ボッティチェリみたいで、きれいです。
ウオーターハウスの「デカメロン」、チラシになっている絵ですが、これも物語性が感じられて良いですね。夢中で話に聞き入っている女性達の表情が素敵です。
美術館のサイトに詳しい解説あり。
展覧会の最初に、ジョン・エヴァレット・ミレーの絵が何点かあるのですが、私はそれらが一番好きです。美しい!私は、ミレー、好きですね。今回、 自分で特に気づきました(^0^)。ミレーの描く女性や自然の美しさ、何とも言いがたいです。「春(リンゴの花咲く頃)」という作品が特に印象に残っていま す。私が特にミレーが好きなのは、題材が中世だったりしても、描かれているのは19世紀のイギリス人だからですね。ヴィクトリア朝の美人画です。着ている ブラウスなんか、今でもよく見るような花柄だったり。展示の最初に掛けてある絵「いにしえの夢—浅瀬を渡るイサンブラス卿」に描かれた騎士、イサンブラス卿も、顔だけ見るとよく見るような、孫を連れたイギリスの老紳士。その他のミレーの絵も、存分に楽しめました。展示の最初がクライマックス!
その他では、バーン=ジョーンズの「スポンサ・デ・リバノ(レバノンの花嫁)」という、旧約聖書の雅歌から題材を取った大作があり、素晴らしい作品でした。同じく彼の「フラジオレットを吹く天使」はまるでルネサンスのテンペラ画。ボッティチェリみたいで、きれいです。
ウオーターハウスの「デカメロン」、チラシになっている絵ですが、これも物語性が感じられて良いですね。夢中で話に聞き入っている女性達の表情が素敵です。
美術館のサイトに詳しい解説あり。
2016/02/10
【テレビ番組】NHK ETV、ハートネットTV 「待ちわびて—袴田巌死刑囚 姉と生きる今—」
ハートネットTV「待ちわびて—袴田巌死刑囚 姉と生きる今—」 2016年2月9日午後8時放送
最近もETVの福祉番組「ハートネットTV」で、良い企画が続いている。2月9日は、死刑囚だが、2014年3月に刑の執行と拘禁が停止されて、釈放された袴田巌(はかまだ いわお)さんのドキュメントだった。30分の番組だし、福祉の番組であるから、冤罪が生まれた経緯などは触れられず、袴田さんが50年近い死刑囚としての拘禁生活の中で、如何に精神をむしばまれてしまったか、今、どうされているか、を淡々と映していた。
番組ホームページ
彼は、いつやって来るともしれぬ死刑におののきながら生きていたが、拘禁生活が20年以上経った頃から、妄想に襲われるようになり、現在に至るまで、支離滅裂な、常識では判断できない言葉を放ちつつ生きておられる。釈放の後、3ヶ月ほど精神病院に入院されたが、その後は自宅で暮らしている。穏やかな人で、お姉さんの暖かい愛情に包まれた、静かな毎日を過ごされているようだ。時々、勝手に出かけて、いつ帰ってくるか分からないところは認知症の人みたいでもあるが、必ず、お姉さんの待つ家に帰ってくる。饅頭や菓子パンが好きらしく、一万円札出して、菓子パンを一度に20個くらい買っているシーンが出てきて、微笑ましかった。そういうことなど、お姉さんは刑務所に入っていた間に出来なかったことを、なるべく彼の思うようにやらせたいと言われている。
このお姉さんが凄い。彼の事を思いつつ亡くなられた母親に代わって、自分が弟の母となって、独身を貫きつつ、彼の冤罪を晴らすために一生を費やし、今は、彼の病んだ心が徐々に快復していくのを待ち続けている。実の母親でもなかなか持てない深い愛情と、強い精神の持ち主である。
それにしても、袴田さんは釈放後も依然として死刑囚である。それは、検察が静岡地裁の判断に不服を唱えて、すぐに即時抗告を行ったからだ。つまり、袴田さんは、理論的には、再度収監され、死刑が執行される可能性させ残されているわけだ。但し、あの高齢で、しかも検察側の論拠は今やずたずたの有様らしいから、まずそういうことは起こらないだろうけれど。検察官達は本当に今でも袴田巌さんが有罪と思っているのだろうか?裁判とは真実を明るみに出して、罪を犯したことが疑いようのない人には罪を償わせ、そうでない人は釈放するべき仕組みであるはず。英語で言うと、"beyond reasonable doubt" ということになるはずだ。ところが、日本の司法では、一旦判断が下されると、検察も裁判所も決して過ちを認めないことが多いように見える。真実が問題ではなく、組織の権威の維持や裁判の勝ち負けを優先しているように見える。その発想は、今になっても、封建時代の「お上」による評定所のようだ。むしろ、捜査や起訴段階での間違いや不十分さを良く検証し、その結果を公開して、今後このようなことが起こらないよう社会の一員として考え努力することこそ、すぐれた組織のすべきことではないだろうか。自浄作用のある組織であると証明することが、市民の尊敬と信頼を生むと思うのだが。
私は近年、中世イングランドの裁判を勉強していて、それが、欠点だらけではあるが、如何に長い歴史と人々の経験の積み重ねから出来た制度か段々分かってきた。イングランドの裁判制度は、基本的に、市民が集まり知恵を出し合って判断するという民主主義の制度の一環として存在し、そのため、陪審員が最も重要な役割を担う。裁判長は法的にわかりにくい点を説明することはあっても、基本的な役割は裁判の司会役にしか過ぎない(その点で、日本の裁判員制度とは大きく異なる)。有罪、無罪を決めるのは別室で相談する市民達である。一方、日本では、長らく市民から遠いところで、職業裁判官、検察官、警察官などの専門家のみによって、犯罪者がベルトコンベヤー式に処理されてきたと言える。日本もやっと裁判員制度が出来て、少しは風通しが良くなることを願いたい。
この番組は、2月16日午後1時5分より再放送があります。
最近もETVの福祉番組「ハートネットTV」で、良い企画が続いている。2月9日は、死刑囚だが、2014年3月に刑の執行と拘禁が停止されて、釈放された袴田巌(はかまだ いわお)さんのドキュメントだった。30分の番組だし、福祉の番組であるから、冤罪が生まれた経緯などは触れられず、袴田さんが50年近い死刑囚としての拘禁生活の中で、如何に精神をむしばまれてしまったか、今、どうされているか、を淡々と映していた。
番組ホームページ
彼は、いつやって来るともしれぬ死刑におののきながら生きていたが、拘禁生活が20年以上経った頃から、妄想に襲われるようになり、現在に至るまで、支離滅裂な、常識では判断できない言葉を放ちつつ生きておられる。釈放の後、3ヶ月ほど精神病院に入院されたが、その後は自宅で暮らしている。穏やかな人で、お姉さんの暖かい愛情に包まれた、静かな毎日を過ごされているようだ。時々、勝手に出かけて、いつ帰ってくるか分からないところは認知症の人みたいでもあるが、必ず、お姉さんの待つ家に帰ってくる。饅頭や菓子パンが好きらしく、一万円札出して、菓子パンを一度に20個くらい買っているシーンが出てきて、微笑ましかった。そういうことなど、お姉さんは刑務所に入っていた間に出来なかったことを、なるべく彼の思うようにやらせたいと言われている。
このお姉さんが凄い。彼の事を思いつつ亡くなられた母親に代わって、自分が弟の母となって、独身を貫きつつ、彼の冤罪を晴らすために一生を費やし、今は、彼の病んだ心が徐々に快復していくのを待ち続けている。実の母親でもなかなか持てない深い愛情と、強い精神の持ち主である。
それにしても、袴田さんは釈放後も依然として死刑囚である。それは、検察が静岡地裁の判断に不服を唱えて、すぐに即時抗告を行ったからだ。つまり、袴田さんは、理論的には、再度収監され、死刑が執行される可能性させ残されているわけだ。但し、あの高齢で、しかも検察側の論拠は今やずたずたの有様らしいから、まずそういうことは起こらないだろうけれど。検察官達は本当に今でも袴田巌さんが有罪と思っているのだろうか?裁判とは真実を明るみに出して、罪を犯したことが疑いようのない人には罪を償わせ、そうでない人は釈放するべき仕組みであるはず。英語で言うと、"beyond reasonable doubt" ということになるはずだ。ところが、日本の司法では、一旦判断が下されると、検察も裁判所も決して過ちを認めないことが多いように見える。真実が問題ではなく、組織の権威の維持や裁判の勝ち負けを優先しているように見える。その発想は、今になっても、封建時代の「お上」による評定所のようだ。むしろ、捜査や起訴段階での間違いや不十分さを良く検証し、その結果を公開して、今後このようなことが起こらないよう社会の一員として考え努力することこそ、すぐれた組織のすべきことではないだろうか。自浄作用のある組織であると証明することが、市民の尊敬と信頼を生むと思うのだが。
私は近年、中世イングランドの裁判を勉強していて、それが、欠点だらけではあるが、如何に長い歴史と人々の経験の積み重ねから出来た制度か段々分かってきた。イングランドの裁判制度は、基本的に、市民が集まり知恵を出し合って判断するという民主主義の制度の一環として存在し、そのため、陪審員が最も重要な役割を担う。裁判長は法的にわかりにくい点を説明することはあっても、基本的な役割は裁判の司会役にしか過ぎない(その点で、日本の裁判員制度とは大きく異なる)。有罪、無罪を決めるのは別室で相談する市民達である。一方、日本では、長らく市民から遠いところで、職業裁判官、検察官、警察官などの専門家のみによって、犯罪者がベルトコンベヤー式に処理されてきたと言える。日本もやっと裁判員制度が出来て、少しは風通しが良くなることを願いたい。
この番組は、2月16日午後1時5分より再放送があります。
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