西洋比較演劇研究会 5月14日(土)14時〜18時15分 成城大学
1. 片山幹生「中世フランス演劇とは何か?
― フランス演劇史における中世の位置づけとその可能性について」
2. 杉山博昭「聖史劇の宗教画、宗教画の聖史劇
― ルネサンス期イタリアの眼差しが媒介する照応関係」
西洋比較演劇研究会で中世演劇、聖史劇関連の発表というか、講演が2件あると聞いて、聴講してきた。片山先生については、「中世フランス演劇史のまとめ」というブログ形式の、極めて学問的な演劇史を書いておられて、以前から参考にさせていただいている。このブログでも以前取り上げた。杉山先生は、2月に早稲田大学で、「観客発信メディアWL」主催の講演をお聞きし、このブログでもその時の感想を書いた。従って、二人とも私にはある程度馴染みのあるお名前である。
さて、今回の公演は、最初の片山先生が古代ローマの末期以降、典礼劇の時代、13世紀の都市演劇、15-16世紀の聖史劇や世俗劇など、大変バラエティーに富むフランス演劇を概観する講演、そして杉山先生は、2月の講演で扱われたように、15世紀フィレンツェの美術作品と聖史劇の関係を主に話された。当日の様子を知ろうと検索エンジンなどで来られる方もいるかもしれないが、ここは個人的なブログなので、以下はバランスの取れたレポートと言うより私の私的感想であり、備忘録として、参考になった点、特に興味を引かれた点、そして残された疑問などをメモしておきたい。
片山幹生先生の講演だが、概説なのでここでは細かい内容紹介は省くとして、全体として感じたのは、現存するフランス中世演劇のテキストの多様さ、豊かさだ。英語の中世演劇のテキストというと聖史劇の4大サイクル、『エブリマン』や『堅忍の城』など、道徳劇が数本が主なもの。その他は、Digby写本の『マグダラのマリア』他のわずか2,3作の聖人劇、Brome写本の『アブラハムとイサク』などの幾つかの単独の劇、コベントリーやノリッジの聖史劇のサイクルの一部など、西欧の主要な言語に比べるとおそらくかなり少ない。フランス語では、その点、うんざりするほど長い、多数の聖史劇(ミステール)や道徳劇(モラリテ)をはじめ、阿呆劇(ソティ)、笑劇(ファルス)といったイングランドでは殆ど見られないジャンルの数多くの劇もある。私も若い頃、現存テキストの少ないイングランドの中世劇と比べて、フランスの中世劇研究者を大変羨ましく思ったくらいだ。しかし、現存作品の多さ故の苦労もあるだろう。テキスト研究も殆どされていない作品が多いようだし、ましてや、細かい上演記録の掘り起こしは、まだまだ先が長いという状況ではないかと推察する。長大な作品が幾つもあるとは知っていたが、シモン・グレバンという作家の『使徒行伝の聖史劇』など、6万2千行くらいだそうである。古仏語の長編叙事詩『ロランの歌』が約4千行、古英語の同じく長編叙事詩『ベーオウルフ』は3千行少し、と比べるともの凄い長さと分かる。残ったテキストの乏しいブリテン島の劇の場合、英米の多くの研究者達は上演にまつわる資料の発掘に力を注いできた。中世演劇の最初から、清教徒革命の始まる前、つまりシェイクスピア時代のロンドンも含めて、膨大な上演関連資料が、『英国初期演劇資料集』(The Records of Early English Drama, 略称REED)にまとめられつつある。大冊の本が既に30巻以上出版されており、更に順次インターネット上でも公開されつつある。フランスの上演資料も色々個別には出版されていると思うが、まだまだ写本のまま埋もれた資料が多いのではなかろうか。
片山先生は、ラテン語典礼劇についてもかなり触れて下さった。1960年代くらいまでは、典礼劇は英仏独語などの近代語劇を用意したものという進化論的な考えが強かったが、現在では、「演劇的な典礼」とも言える全く別のジャンルとして、14,15世紀まで生き延びたことを片山先生も確認されていた。典礼劇が終わっていく1つのきっかけは、1545年から63年まで繰り返し開催されたカトリック教会のトリエント公会議において、典礼のトロウプスを禁ずるという決定が成されたことがきっかけだとか。最盛期以降、典礼劇がどのような流れをたどったか、私も知らないので参考になったし、今後詳しく学ぶ必要があると思った。ちなみにこの講演以外の話だが、どこかで読んだが(記憶は定かでない)、戦国時代から安土桃山時代、日本にやって来た宣教師によって多くのラテン語の祈り(オラシォ)が伝えられたが、その中には演劇形式のものもあったとか。ラテン典礼劇が日本にも伝わっていたのだろうか。
ラテン語の典礼劇については、近代語劇と基本的にまったく別のジャンルの芸術であり、そもそも演劇的な形をした「典礼」の一種であるという考えに基本的に賛成ではあるが、私はその考え方が近年強くなりすぎているのでないかとも思う。例えばラテン語の劇でも、ボーヴェ大聖堂の『ダニエル劇』とか、『聖パウロの改宗』のような聖者劇、ベネディクトボイアルンの受難劇など、大規模で、「客」とは呼べないにしても、充分に「観衆」を意識し、また作品によってはおそらく地元の人々の上演への協力や参加も考えられる劇もあり、ラテン語にかなり近代語が混じって使われている場合もある。これらは、12世紀のフランス語劇の『アダム劇』と同様に、一般的なラテン典礼劇とは別に考える必要がありそうだ。つまり、やはり典礼劇とは別に、あるいはそれから発展して、教会を上演場所とし、儀式を越えた、観衆のための「見せる」演劇の発達があったというべきではないだろうか。但、それらが、14,15世紀の聖史劇や道徳劇の誕生に繋がったかというと、それはまったく別の問題だが。フランスの都市アラスで13世紀に、一気に高度な演劇文化が開花したように、その前に発展を準備する下地が乏しくても、条件が整えば高度な演劇が短期間で開花する場合があり、12世紀の西欧に幾つかそのような演劇の盛んな大聖堂のコミュニティーがあったのではないだろうか。アラスの演劇については、杉山先生は今回簡単に触れられただけだが、大変詳しいようなので、次の機会にはお話しを聞きたいものだ。発祥から、様々なジャンル、そして現代への影響まで、中世劇全般に関する片山先生の広範な知識がうかがえる講演だった。その点で、私の勉強をふり返ると、自分の興味あるテーマだけは細かく掘り下げていても、イギリス中世劇のその他の部分については知らない事だらけで、フランスと違って作品は少ないのに、ろくに読んでないものさえある。これまでついつい趣味的な勉強に終始してしまいがち。少なくとももっとこのジャンル全体への目配りもしなくては、と反省させられた。
最後に片山先生は、現代文学や演劇における中世劇の影響について、ガブリエレ・ダヌンツィオの『聖セバスチャンの殉教』、ポール・クローデルやダリオ・フォの作品にも少し触れられた。これらの作家作品については私は全く読んだこともなく無知であるが、そういう視点で研究することも出来るのか、と教えられた。それぞれの作家作品における中世劇の影響について、詳しい講演などあると良いな。
後半の杉山博昭先生による、15世紀フィレンツェの聖史劇の話は2月の講演と重なる部分が大分あったので、全体的な内容については、そちらもご覧下されば幸いです。
杉山先生の講演タイトルが示すように、フィレンツェの聖史劇は15世紀イタリア、ボッティチェリの同時代に栄え、「ルネサンス劇」の一部と言う事になる。聖史劇というと英仏独など、他の言語の文化では「中世劇」に分類されているが、当時のヨーロッパの先進国イタリアではルネサンス花盛りの時期である。この中世とルネサンス、あるいは近代初期の文化や文学における時代区分は難しく、かつ重要な問題で、現在も英米の学会でも盛んに議論がされているようだ。今回も公演後、聴衆からコメントが出されていた。
さて、2月の講演同様、杉山先生の講演の主旨は、ボッティチェリなどの当時のフィレンツェの画家達が、受胎告知やキリストの昇天などの絵画を描くにあたり、実際に目撃した聖史劇のイメージを部分的に使って絵を書いている事は明らかだという点。従って、上演がどうなされていたかも、こうした絵を参照することである程度分かる、ということだった。特に、描かれた天使の羽根に見られる舞台衣装の痕跡、天使の光輪がやはり舞台のコスチュームを映している形跡、舞台で使われた天球を表す大道具と絵画の天球の相似、そうした大道具についての当時書かれた記述や描かれた図、その他興味深い具体的な資料に満ちた発表だった。近代科学の発祥の地であるイタリアであるから、そうしたメカニカルな歯車を使った大道具や、特殊効果に使われた花火なども、今聞いても驚くレベルだったようで、聖堂の中で観客の度肝を抜くスペクタクルを繰り広げたシーンもあったらしい。歌舞伎の宙乗り同様に、教会の空間をロープを伝って天使が素早く移動したりというようなシーンも想定されるそうだ。
イングランドの中世劇と比べて面白いのは、フィレンツェでは比較的短い、聖書のエピソード1つ(受胎告知とか、キリストの昇天など)を取り上げた聖史劇が盛んだったこと。イングランドでは、天地創造から、旧約の物語、新約のイエスの誕生や伝道、受難、そして最後の審判など、キリスト教から見た人類の歴史全体を取り上げる所謂「サイクル劇」の形式が主である。フィレンツェにもサイクル形式の聖史劇もあったそうではあるが。イングランドでも、テキストの現存しない無数の宗教劇が上演されていたのは確実であり、全体としては、多くの短い宗教劇があったとは思う。
大変驚いたことして、イタリアでは聖史劇の脚本が、上演されなくなった後の16世紀に千の単位の部数で印刷されて、広く読まれたそうだ。多くの人々が、聖書の物語を分かりやすい「ドラマチックな」形で読む手段として、劇の台本を読んだわけである。当時のフィレンツェの識字率は40〜50パーセントあったと杉山先生はおっしゃっていたがこれもイングランドと比べ、驚異的高さ。但、男女別、また識字の内容(ラテン語かイタリア語かなど)には触れられなかった。恐らく成人男性の識字率で、ラテン語・イタリア語の区別なくいずれかの言語、ということだろうか? 脚本は写本としても残っているそうだし、杉山先生自身、写本に直接当たって研究されているようで、素晴らしい。この写本の性質とか使用用途についての詳しい説明はなかったが、これも聞いてみたいことだった。英語の写本の場合、一種の記録として市当局が保存用に作ったもの(ヨーク劇)、上演が行われなくなった16世紀に好古家が書物のコレクションとして筆写させたと考えられるもの(チェスター劇)、用途も実際の上演に基づいた写本かどうかも分からないもの(タウンリー劇、Nタウン劇)など、それぞれ、独特である。劇の写本のあり方は、単純に「読む」ために作られることはまずないので、考慮すべき点が多い。
フィレンツェでもイングランド同様、女性の役は若い男性(少年)が演じたそうである。この点は、日本も含め、多くの伝統演劇に共通する点。しかし、これは前回の講演の時も疑問が残った点だが、女性はどのような形、あるいは地域でもイタリア語の演劇から排除されていたのだろうか。例えば、世俗劇はどうなのだろう。近年、尼僧院における演劇(convent drama)の研究などもなされており、イタリアでもそういう場所では女性が演劇を行ったかも知れない。同じく女優の存在は、フランスではどうだったんだろう?
杉山先生の講演は、フィレンツェの聖史劇、それも美術と演劇の関係に的を絞ったものであったので、イタリアの聖史劇全体に関しては、例えば聖史劇の起源など、聞いてみたいことが沢山残った。しかし、これは私がご本人の著書やイタリア演劇史の概説書などでまず基本事項を勉強してから、直接質問すべき事だろう。
以上、今後も考えるために、個人的な感想や疑問を思いつくままメモしてみた。
この研究会は私は会員ではなく、今回インターネットのお知らせで知って聴講させていただいたのだが、それぞれ、講演時間も1時間半近く、更に質問時間もとても長くて、質問も多岐に渡り、大変な努力をして講演と質疑応答をやっていただいた。講師のお二人に深く感謝したい。勉強になった。
2016/05/15
2016/05/06
“King Lear“ (NT Live) 『リア王』(ナショナル・シアター・ライブ)
観劇日:2016.5.3 15:15-18:15(休憩1回)
劇場:キネマ旬報シアター(柏駅前)
演出:Sam Mendes
セット:Anthony Ward
照明:Paul Pyant
音響:Paul Arditti
音楽:Paddy Cunian
出演:
Simon Russell Beale (Lear)
Kate Fleetwood (Goneril)
Anna Maxwell Martin (Regan)
Olivia Vinall (Cordelia)
Stephen Boxer (The Earl of Gloucester)
Stanley Townsend (The Earl of Kent)
Adrian Scarborough (Fool)
Tom Brooke (Edgar)
Sam Troughton (Edmund)
Paapa Essiedu (The Duke of Burgundy)
☆☆☆☆ / 5
ゴールデンウィークの真ん中の一日、我が家からはかなり遠い柏市にあるキネマ旬報シアターまで電車に乗って、サイモン・ラッセル・ビール主演、サム・メンデス演出の『リア王』を見に出かけた。ラッセル・ビールは映画やテレビなどでは主役をすることはなく、出ても本当に小さな脇役程度だが、イギリスの演劇ファンの間では絶大な人気を誇り、ナショナルやロイヤル・シェイクスピアに出る時は主役。次はRSCでプロスペローを演じると聞いた。彼の巧さは、シェイクスピアの台詞を韻文として謳いあげる能力の高さにあると思う。そういう意味で、古典的な役者だ。彼は音楽が大好きなようで、BBCのクラシック番組の司会をやったこともある。台詞をメロディアスに発音する力はそんなところから来ているのかも知れない。しかし、今回の公演では、専制的なリアの性格を強調するためか、力んだ台詞が多くて、彼の長所が目立たなかった印象。
休憩の後にサム・メンデスやラッセル・ビール、その他の専門家のインタビューがあって、そこでラッセル・ビールがリアの認知症のことを意識したと述べていた。また、専門家が、リアの狂気は、、認知症の中でも特にレビー小体認知症を思わせる点があると指摘していた。そう言われると、狂気と正気がまだらに現れる後半は、確かにリアは認知症に苦しんでいたのかも知れない。そういう目で見ると、そもそも自分の感情のコントロールが聞かなくなり、ゴネリルやリーガンから見ても常識をはずれた判断をしてしまう冒頭の部分から、リアは既に認知症の症状を持っていたと言えるだろう。そういうことを恐らく意識して演出された舞台かな。
全体としてオーソドックスで、特に奇抜な点はないと思うが、黒っぽいセットと衣装で統一された冒頭の宮廷のシーンは、儀式的で、独裁国家の雰囲気をかもし出していた。しかし、特にナチスとか、現代の強権的な国家などを連想させるわけではなく、権力に溺れた者の自滅を普遍的に描こうとしているようだ。身体的な狂気と、政治的独裁のおごりが重なり、リアは怒りの爆発の中で、当然の結果として自らを滅ぼし、人間らしさを失っていくというストーリーに見える。嵐のシーン以降も、そういう流れだから、なかなか老王の哀れさは感じられず、いよいよ最後、コーディリアとの再会の場面になって、やっと人生のはかなさを感じさせるリアになった。俳優サイモン・ラッセル・ビールがまだ若く、演技がエネルギッシュで、身体的な弱々しさを感じないという点も一因だろう。デレク・ジャコビやナイジェル・ホーソンの悲しみのリアとは対照的な、謂わば、怒りのリア。でも、最後になって、その狂った怒りから目覚めたときの哀れさは胸を打つ。
その怒りが最も端的、かつ効果的に現れるのが、ショッキングなフールの殺害の場面。リアの制御不能の狂気を上手く表現していた。
ケイト・フリートウッドの、冷たい面構えのゴネリル、人間くさい邪悪さに溢れたアンナ・マックスウェル・マーティンのリーガンの姉妹が印象的。これらの役は実に良い役で、どの俳優も目立つ。エイドリアン・スカーバラのフールは、あまりに普通すぎた。その他、脇役陣も安定した演技。主役の役作りについては、私の好みのリアとは言いがたいが、プロダクション全体としては大いに満足できた。
これはナショナル・シアターの一番大きな劇場、オリヴィエでの公演。NTライブで見ることの長所は、劇場ではなかなか分からない俳優の表情がよく見えること。しかし、欠点としては、オリヴィエの大きな舞台や劇場全体を包むスケールの大きさが消えてしまい、ドンマーのような小劇場とかウェストエンドの商業劇場の額縁舞台を見るのとあまり違った感じがしないこと。特に冒頭の宮殿のシーンは、儀式の感覚がかなり失われ、マイナスだったのではないか。また、これまでのNTライブでも感じたが、ボリュームが大きすぎる。耳鳴りがしそうなくらいの音で、台詞の味わいが消えかねない。普通の映画では圧倒的な音量で観客を包み込むことが多いが、演劇では観客は能動的に、耳を澄まして台詞に聞き入る。舞台を再現した映像では、普通の映画とは違った音量設定にすべきでは。
劇場:キネマ旬報シアター(柏駅前)
演出:Sam Mendes
セット:Anthony Ward
照明:Paul Pyant
音響:Paul Arditti
音楽:Paddy Cunian
出演:
Simon Russell Beale (Lear)
Kate Fleetwood (Goneril)
Anna Maxwell Martin (Regan)
Olivia Vinall (Cordelia)
Stephen Boxer (The Earl of Gloucester)
Stanley Townsend (The Earl of Kent)
Adrian Scarborough (Fool)
Tom Brooke (Edgar)
Sam Troughton (Edmund)
Paapa Essiedu (The Duke of Burgundy)
☆☆☆☆ / 5
ゴールデンウィークの真ん中の一日、我が家からはかなり遠い柏市にあるキネマ旬報シアターまで電車に乗って、サイモン・ラッセル・ビール主演、サム・メンデス演出の『リア王』を見に出かけた。ラッセル・ビールは映画やテレビなどでは主役をすることはなく、出ても本当に小さな脇役程度だが、イギリスの演劇ファンの間では絶大な人気を誇り、ナショナルやロイヤル・シェイクスピアに出る時は主役。次はRSCでプロスペローを演じると聞いた。彼の巧さは、シェイクスピアの台詞を韻文として謳いあげる能力の高さにあると思う。そういう意味で、古典的な役者だ。彼は音楽が大好きなようで、BBCのクラシック番組の司会をやったこともある。台詞をメロディアスに発音する力はそんなところから来ているのかも知れない。しかし、今回の公演では、専制的なリアの性格を強調するためか、力んだ台詞が多くて、彼の長所が目立たなかった印象。
休憩の後にサム・メンデスやラッセル・ビール、その他の専門家のインタビューがあって、そこでラッセル・ビールがリアの認知症のことを意識したと述べていた。また、専門家が、リアの狂気は、、認知症の中でも特にレビー小体認知症を思わせる点があると指摘していた。そう言われると、狂気と正気がまだらに現れる後半は、確かにリアは認知症に苦しんでいたのかも知れない。そういう目で見ると、そもそも自分の感情のコントロールが聞かなくなり、ゴネリルやリーガンから見ても常識をはずれた判断をしてしまう冒頭の部分から、リアは既に認知症の症状を持っていたと言えるだろう。そういうことを恐らく意識して演出された舞台かな。
全体としてオーソドックスで、特に奇抜な点はないと思うが、黒っぽいセットと衣装で統一された冒頭の宮廷のシーンは、儀式的で、独裁国家の雰囲気をかもし出していた。しかし、特にナチスとか、現代の強権的な国家などを連想させるわけではなく、権力に溺れた者の自滅を普遍的に描こうとしているようだ。身体的な狂気と、政治的独裁のおごりが重なり、リアは怒りの爆発の中で、当然の結果として自らを滅ぼし、人間らしさを失っていくというストーリーに見える。嵐のシーン以降も、そういう流れだから、なかなか老王の哀れさは感じられず、いよいよ最後、コーディリアとの再会の場面になって、やっと人生のはかなさを感じさせるリアになった。俳優サイモン・ラッセル・ビールがまだ若く、演技がエネルギッシュで、身体的な弱々しさを感じないという点も一因だろう。デレク・ジャコビやナイジェル・ホーソンの悲しみのリアとは対照的な、謂わば、怒りのリア。でも、最後になって、その狂った怒りから目覚めたときの哀れさは胸を打つ。
その怒りが最も端的、かつ効果的に現れるのが、ショッキングなフールの殺害の場面。リアの制御不能の狂気を上手く表現していた。
ケイト・フリートウッドの、冷たい面構えのゴネリル、人間くさい邪悪さに溢れたアンナ・マックスウェル・マーティンのリーガンの姉妹が印象的。これらの役は実に良い役で、どの俳優も目立つ。エイドリアン・スカーバラのフールは、あまりに普通すぎた。その他、脇役陣も安定した演技。主役の役作りについては、私の好みのリアとは言いがたいが、プロダクション全体としては大いに満足できた。
これはナショナル・シアターの一番大きな劇場、オリヴィエでの公演。NTライブで見ることの長所は、劇場ではなかなか分からない俳優の表情がよく見えること。しかし、欠点としては、オリヴィエの大きな舞台や劇場全体を包むスケールの大きさが消えてしまい、ドンマーのような小劇場とかウェストエンドの商業劇場の額縁舞台を見るのとあまり違った感じがしないこと。特に冒頭の宮殿のシーンは、儀式の感覚がかなり失われ、マイナスだったのではないか。また、これまでのNTライブでも感じたが、ボリュームが大きすぎる。耳鳴りがしそうなくらいの音で、台詞の味わいが消えかねない。普通の映画では圧倒的な音量で観客を包み込むことが多いが、演劇では観客は能動的に、耳を澄まして台詞に聞き入る。舞台を再現した映像では、普通の映画とは違った音量設定にすべきでは。
2016/04/28
"Skylight" NT Live(「スカイライト」ナショナル・シアター・ライブ)
観劇日:2016.4.27 18:45-21:30 (約20分のインターバル)
劇場:吉祥寺オデオン (録画場所はウエストエンドのウインダムズ劇場)
演出:Stephen Daldry
脚本:David Hare
デザイン:Bob Crowley
出演:
Bill Nighy (Tom Sergeant, an owner of restaurant chain)
Cary Mulligan (Kyra Hollis, a secondary school teacher)
Matthew Beard (Edward Sergeant, Tom’s son)
☆☆☆☆ / 5
先日の「夜中に犬に起こった奇妙な事件」を大いに楽しんだことに味をしめ、かつディヴィッド・ヘアーは私の大好きな劇作家でもあるので、「スカイライト」にも行ってきたが、期待通り、大満足。もともと、1995年にナショナル・シアターの小劇場、コッテスローで上演され、ウエスト・エンド、そしてブロードウェイにも進出した、実績ある作品だそうだ。今回の再演は2015年。1995年というと、ジョン・メージャー首相(在任:1990-97)の後半、サッチャー主義を引きずりながらも国家の方向が定まらず、次期政権を狙うことになる労働党の勢いが増している時代。20年を経ての再演だが、初演当時の社会や政治状況を強く反映したヘアーらしい作品であるにも関わらず、今回も良い劇評を得、観客にも好評だったようだ。俳優の演技やダルドリーの演出など、プロダクションの質の高さは重要な要因だが、95年のイギリス社会の問題意識が現在も未だに有効であることも一因だろうと思った。
(ストーリー)舞台は全て、中等学校の教師、キーラ・ホリスのうらぶれたワンルーム・アパートで展開する。彼女は貧しい地区にある公立学校の教師。生徒に唾を吐きかけられたり、給食係の女性が生徒に襲われたりと、何かと問題のある学校のようだが、やる気のある生徒のために時間外に補習をするなど理想に燃えて頑張っており、仕事に生きがいを感じている。ある日、彼女のアパートに、以前同居し、また社員としても雇われていた企業経営者トム・サージャントの息子エドワードがやって来る。彼女はサージャント家から突然居なくなったのだが、エドワードは彼女にかなりなついていた。エドワードは母アリスが病気で亡くなったこと、そして残された父トムが大変寂しがっていることをキーラに伝え、父に会いに行って欲しいと言う。その当時、トムとキーラは、アリスに隠れて愛人関係を続けていたのであった。しかし、キーラはエドワードの頼みを断る。エドワードが帰った後、たまたま、今度はトムがやってくる。トムはキーラの貧しい住居やつつましい生活の様子を見、ハードな仕事の事を聞き、彼の家に戻ってきて欲しいと思うが・・・。
と言う風にストーリーを書くと、3人の、そして今はもう亡くなっているアリスを含めると4人の家庭劇ということになる。ボブ・クローリーのセットはリアリティーに溢れ、如何にもロンドンの、ねずみやゴキブリが出そうな安アパート。しかし、実際のところ、不動産価格が企業や外国人資産家の投資の為に高騰しているロンドンでは、教師や看護婦など地味な公的サービスを担う人々は、あまり治安や環境の良くない地区のベッド・シット(bed-sit)と呼ばれる古いワンルーム・アパートにしか住めなくなっている。セットをみて、オズボーンの「怒りを込めてふり返れ」のセットみたいだな、と思ったのは私だけではないだろう。
トムはサッチャーやブレアが強調した起業家精神を体現する人物。なぜ大学をトップの成績で出て、かっては彼の下でビジネスでも才能を大いに発揮したキーラが、この薄汚い地区に住み、最低の給料なのにストレスばかり多い仕事で能力を浪費しているのか、どうしても理解出来ない。彼女がその気になれば、彼と暖かい家庭を作り、彼の下で立派なキャリアを再開することが出来るのに。一方、キーラは、子供達のために全力を傾ける今の仕事に大変大きな意義を感じており、また、サージャント家に居候していた時のバブルみたいな贅沢な生活とは違い、あまり豊かでない庶民の1人として、普通の暮らしをすることに意味を見いだしてもいる。トムも確かにそういうキーラの純粋さに、自分にはないものを見て魅力を感じたのだろうが、しかし今や遠くの世界に暮らして、手が届かなくなってしまった彼女を何とか説得し、2人で豊かな家庭を作ろうとする。キーラは、彼女の理想や暮らしぶりを本当には理解せず、自分から歩み寄ることのないトムとの間に、越えがたい隔たりを感じるのだった。
貧富の激しい格差、庶民がまともな住居に住めないような不動産価格、一部の富裕層の飛び抜けた豊かさ、等々、戯曲が書かれた20年前以上に、今の日本やイギリス、特に東京やロンドンにぴったり当てはまる作品だ。更に着目したのは、作者が、トムの性格に、家父長的な、女性を支配せずにはおれない気質をはっきりと書き込んでいる点だ。家庭においても、仕事でも、自分の下で、自分の計画と価値観に沿って働かせ、配偶者(あるいはパートナー)の人生を支配したいという、多くの悪気のない善良な男達の根本的な差別意識を、ヘアーは明確に浮き彫りにしている。トムはキーラを深く愛し、彼女を幸せにしたいと心から思っている。しかし、自分の価値観に沿った「家庭」という檻の中で暮らす人形であるかぎり、できる限りの幸福や豊かさを女性に保証はするが、それを越えた自立は絶対に認めたくないのが、トムに心底染みついた考え方だろう。やはり女は主人たる夫の所有物なのである。男が女性を大事に処遇し、女は力関係の不平等を受け入れるという、安定的な不平等関係に立って成り立つ幸福をトムはキーラに求める。だからこそ、相手に未練は残っていても、今つきあっている男は居なくても、息子とは大いに意気投合しても、キーラはトムの下へは帰れない。私にとっては、このジェンダーにまつわる問題意識が、この劇でもっとも面白い点だった。
良いことばかりで大きな問題点は何もない公演だが、やはりマリガンとナイという俳優の組み合わせは、ちょっと年齢の差がリアリティーを越えているような・・・。イギリス人女性としてはかなり「かわいい」タイプの顔をしたマリガンと、温厚で知的な老人の風貌を持つナイの愛人としての組み合わせはありそうにない。が、そう思うのは、私が日本人だからかもしれない。イギリスでは日本のようには年齢の差にこだわらないから、観客も違和感ないのかもしれない。また、ガツガツした起業家精神に溢れ、若い女性を愛人にしたトムを演じるには、ナイはどうも育ちの良いジェントルマンの雰囲気を崩し切れていない。おそらく初演のマイケル・ガンボンのほうがその点では良かったのではと想像する。また、ナイもマリガンも上品な雰囲気溢れる俳優なので、脚本における2人のどろどろした腐れ縁が、随分とクリーンなものに見えてはいないだろうか。男女の愛情というよりは、ベテラン経営者と彼の大事に育てた弟子のようでもある。でも、そういう二人で男女関係に陥る場合も結構あると思うし、私個人としては、これはこれでとても説得力があったので、問題なしではあるが。
しかし、ナイは上手い。台詞のタイミングが絶妙。ちょっと間を置いたり、イントネーションにひねりを入れて観客の笑いを誘う。生の劇場公演の録画だから、イギリス人観客の笑いが良く聞こえたが、我々にはそれ程台詞のニュアンスが分からず、あるいは分かっても実感できずに笑うところまで行かないのは残念だが。マリガンと、エドワード役のビアードも達者な演技だった。マリガンは、内面では色々と葛藤がありながら、表面は「涼しい」微笑を浮かべて相手との距離を感じさせるところが印象的。
私はヘアー作品では、イラク戦争の開戦に至る経緯を描く”Stuff Happens”(2004) と、リーマン・ショック以後の経済危機を舞台化した”Power of Yes”(2009) という、時代の全体像をつかもうとするスケールの大きな群像劇を見てきたが、今回は一部屋で繰り広げられる家庭劇で、彼の多彩な才能を実感した。21世紀の今にぴったりのキッチン・シンク・ドラマ。
劇場:吉祥寺オデオン (録画場所はウエストエンドのウインダムズ劇場)
演出:Stephen Daldry
脚本:David Hare
デザイン:Bob Crowley
出演:
Bill Nighy (Tom Sergeant, an owner of restaurant chain)
Cary Mulligan (Kyra Hollis, a secondary school teacher)
Matthew Beard (Edward Sergeant, Tom’s son)
☆☆☆☆ / 5
先日の「夜中に犬に起こった奇妙な事件」を大いに楽しんだことに味をしめ、かつディヴィッド・ヘアーは私の大好きな劇作家でもあるので、「スカイライト」にも行ってきたが、期待通り、大満足。もともと、1995年にナショナル・シアターの小劇場、コッテスローで上演され、ウエスト・エンド、そしてブロードウェイにも進出した、実績ある作品だそうだ。今回の再演は2015年。1995年というと、ジョン・メージャー首相(在任:1990-97)の後半、サッチャー主義を引きずりながらも国家の方向が定まらず、次期政権を狙うことになる労働党の勢いが増している時代。20年を経ての再演だが、初演当時の社会や政治状況を強く反映したヘアーらしい作品であるにも関わらず、今回も良い劇評を得、観客にも好評だったようだ。俳優の演技やダルドリーの演出など、プロダクションの質の高さは重要な要因だが、95年のイギリス社会の問題意識が現在も未だに有効であることも一因だろうと思った。
(ストーリー)舞台は全て、中等学校の教師、キーラ・ホリスのうらぶれたワンルーム・アパートで展開する。彼女は貧しい地区にある公立学校の教師。生徒に唾を吐きかけられたり、給食係の女性が生徒に襲われたりと、何かと問題のある学校のようだが、やる気のある生徒のために時間外に補習をするなど理想に燃えて頑張っており、仕事に生きがいを感じている。ある日、彼女のアパートに、以前同居し、また社員としても雇われていた企業経営者トム・サージャントの息子エドワードがやって来る。彼女はサージャント家から突然居なくなったのだが、エドワードは彼女にかなりなついていた。エドワードは母アリスが病気で亡くなったこと、そして残された父トムが大変寂しがっていることをキーラに伝え、父に会いに行って欲しいと言う。その当時、トムとキーラは、アリスに隠れて愛人関係を続けていたのであった。しかし、キーラはエドワードの頼みを断る。エドワードが帰った後、たまたま、今度はトムがやってくる。トムはキーラの貧しい住居やつつましい生活の様子を見、ハードな仕事の事を聞き、彼の家に戻ってきて欲しいと思うが・・・。
と言う風にストーリーを書くと、3人の、そして今はもう亡くなっているアリスを含めると4人の家庭劇ということになる。ボブ・クローリーのセットはリアリティーに溢れ、如何にもロンドンの、ねずみやゴキブリが出そうな安アパート。しかし、実際のところ、不動産価格が企業や外国人資産家の投資の為に高騰しているロンドンでは、教師や看護婦など地味な公的サービスを担う人々は、あまり治安や環境の良くない地区のベッド・シット(bed-sit)と呼ばれる古いワンルーム・アパートにしか住めなくなっている。セットをみて、オズボーンの「怒りを込めてふり返れ」のセットみたいだな、と思ったのは私だけではないだろう。
トムはサッチャーやブレアが強調した起業家精神を体現する人物。なぜ大学をトップの成績で出て、かっては彼の下でビジネスでも才能を大いに発揮したキーラが、この薄汚い地区に住み、最低の給料なのにストレスばかり多い仕事で能力を浪費しているのか、どうしても理解出来ない。彼女がその気になれば、彼と暖かい家庭を作り、彼の下で立派なキャリアを再開することが出来るのに。一方、キーラは、子供達のために全力を傾ける今の仕事に大変大きな意義を感じており、また、サージャント家に居候していた時のバブルみたいな贅沢な生活とは違い、あまり豊かでない庶民の1人として、普通の暮らしをすることに意味を見いだしてもいる。トムも確かにそういうキーラの純粋さに、自分にはないものを見て魅力を感じたのだろうが、しかし今や遠くの世界に暮らして、手が届かなくなってしまった彼女を何とか説得し、2人で豊かな家庭を作ろうとする。キーラは、彼女の理想や暮らしぶりを本当には理解せず、自分から歩み寄ることのないトムとの間に、越えがたい隔たりを感じるのだった。
貧富の激しい格差、庶民がまともな住居に住めないような不動産価格、一部の富裕層の飛び抜けた豊かさ、等々、戯曲が書かれた20年前以上に、今の日本やイギリス、特に東京やロンドンにぴったり当てはまる作品だ。更に着目したのは、作者が、トムの性格に、家父長的な、女性を支配せずにはおれない気質をはっきりと書き込んでいる点だ。家庭においても、仕事でも、自分の下で、自分の計画と価値観に沿って働かせ、配偶者(あるいはパートナー)の人生を支配したいという、多くの悪気のない善良な男達の根本的な差別意識を、ヘアーは明確に浮き彫りにしている。トムはキーラを深く愛し、彼女を幸せにしたいと心から思っている。しかし、自分の価値観に沿った「家庭」という檻の中で暮らす人形であるかぎり、できる限りの幸福や豊かさを女性に保証はするが、それを越えた自立は絶対に認めたくないのが、トムに心底染みついた考え方だろう。やはり女は主人たる夫の所有物なのである。男が女性を大事に処遇し、女は力関係の不平等を受け入れるという、安定的な不平等関係に立って成り立つ幸福をトムはキーラに求める。だからこそ、相手に未練は残っていても、今つきあっている男は居なくても、息子とは大いに意気投合しても、キーラはトムの下へは帰れない。私にとっては、このジェンダーにまつわる問題意識が、この劇でもっとも面白い点だった。
良いことばかりで大きな問題点は何もない公演だが、やはりマリガンとナイという俳優の組み合わせは、ちょっと年齢の差がリアリティーを越えているような・・・。イギリス人女性としてはかなり「かわいい」タイプの顔をしたマリガンと、温厚で知的な老人の風貌を持つナイの愛人としての組み合わせはありそうにない。が、そう思うのは、私が日本人だからかもしれない。イギリスでは日本のようには年齢の差にこだわらないから、観客も違和感ないのかもしれない。また、ガツガツした起業家精神に溢れ、若い女性を愛人にしたトムを演じるには、ナイはどうも育ちの良いジェントルマンの雰囲気を崩し切れていない。おそらく初演のマイケル・ガンボンのほうがその点では良かったのではと想像する。また、ナイもマリガンも上品な雰囲気溢れる俳優なので、脚本における2人のどろどろした腐れ縁が、随分とクリーンなものに見えてはいないだろうか。男女の愛情というよりは、ベテラン経営者と彼の大事に育てた弟子のようでもある。でも、そういう二人で男女関係に陥る場合も結構あると思うし、私個人としては、これはこれでとても説得力があったので、問題なしではあるが。
しかし、ナイは上手い。台詞のタイミングが絶妙。ちょっと間を置いたり、イントネーションにひねりを入れて観客の笑いを誘う。生の劇場公演の録画だから、イギリス人観客の笑いが良く聞こえたが、我々にはそれ程台詞のニュアンスが分からず、あるいは分かっても実感できずに笑うところまで行かないのは残念だが。マリガンと、エドワード役のビアードも達者な演技だった。マリガンは、内面では色々と葛藤がありながら、表面は「涼しい」微笑を浮かべて相手との距離を感じさせるところが印象的。
私はヘアー作品では、イラク戦争の開戦に至る経緯を描く”Stuff Happens”(2004) と、リーマン・ショック以後の経済危機を舞台化した”Power of Yes”(2009) という、時代の全体像をつかもうとするスケールの大きな群像劇を見てきたが、今回は一部屋で繰り広げられる家庭劇で、彼の多彩な才能を実感した。21世紀の今にぴったりのキッチン・シンク・ドラマ。
2016/04/20
“The Curious Incident of the Dog in the Night-Time“ NT Live (「夜中に犬に起こった奇妙な事件」ナショナル・シアター・ライブ)
観劇日:2016.4.19 (171分、休憩1回)
劇場:吉祥寺オデオン
演出:マリアンヌ・エリオット
原作:マーク・ハッドン
脚本:サイモン・スティーブンス
セット:バニー・クリスティー
照明:ポール・コンスタブル
音響:イアン・ディッキンソン
音楽:エイドリアン・サットン
映像:フィン・ロス
出演:
ルーク・トレッダウェイ (クリストファー)
ニコラ・ウォーカー (ジュディ、母親)
ユーナ・スタッブス (ミセス・アレクサンダー、近所の老婦人)
ニーブ・キューザック (シボーン、特殊学級の先生)
ポ−ル・リッター (エド、父親)
☆☆☆☆☆/ 5
NT Liveの映像を通してだけれど、久しぶりにイギリスの舞台を見た。工夫に満ちた舞台で、非常に楽しめた。2012年の制作だが、初演ではオリヴィエ賞など多くの演劇賞を獲得し、2016年の今になってもロンドンではギールグッド劇場でロングランしており、また全世界で NT Liveを通じて上映され続けているのもうなずける傑作だ。
物語は、マーク・ハッドンの小説を原作としており、自閉症スペクトラムの15歳の少年、クリストファーを主人公に、彼の父母、そして特殊学級の先生を中心に描く。
クリストファーは2年前に母親を心臓発作で失い、今は父親と地方の小都市スウィンドンで暮らしている。自閉症で日常の社会生活では色々な困難はあるが、数学では人並み外れた能力を持っている。ある日彼は庭で隣人のシアーズさんの犬が、熊手(干し草かきに使う大きなやつ)で無惨に刺し殺されているのを見つけ、非常にショックを受ける。彼は、その「殺犬」の犯人を捜そうとして近所の家を戸別訪問して話を聞こうとするが、自閉症の彼には到底理解出来ない複雑な事情を聞いて混乱する。犬の死に端を発した彼の冒険は、彼をロンドンへ向かわせるが、旅は困難を極める・・・。
自閉症の少年の心を描きながら、しかし、観客は父や母、先生など健常者の大人の視点も理解しなければいけない。脚本のスティーブンスと演出のエリオットは、そういう2つの視野を絡み合わせつつ、巧みに舞台を構成している。そして、それを実現させたデザイン、照明、音響担当等のスタッフの力も非常に大きい。例えば、クリストファーの書く「本」(実は日記)を彼自身に読ませたり、先生のシボーンに読ませたりして、視点をずらしつつ、彼の内面を照射する。ある意味、デジタルの世界のように整然と構成されているクリストファーの思考形態は、照明による四角い線で格子状に区切られた舞台と、その世界を飛び交う数字や記号で表される。一方、父母など、彼のまわりの人間達の心や行動はあまりにもぐちゃぐちゃで、クリストファーには到底、シャーローク・ホームズのようにはきれいに解読できない。キャパシティーを越えてあふれ出す情報を前にして、クリストファーは混乱し、パニックを起こす。
障害を持った人を健常者の子供と比べるのは不正確とは思うが、見終わった後、私は自分の子供の頃の気持ちを思いだした。大人の言っている言葉が分からない、彼らの言う正しい事、間違った事、しなければならない、してはならない事の意味が分からない、そういう気持ち。大人の世界が無限の謎解きパズルのようで、不思議なことばかりだった。喜ばれると思ったことが大人を困らせたり、いけないことと思ったのに褒められたり。そして、同じ日本語なのに、大人同士の会話は、何が何だか分からなくて、暗号が飛び交う空間のようだった。
常々感じていることだけど、人と人を結びつける感情のコード、言語とかジェスチャーとかそれらのタイミングとか組み合わせとか強弱とか、そういうものは、人それぞれ違っていて、誰が正しいとか、何が正常とか言いがたい。ただし、大多数の人々を結びつけるコードの共通項によって世界は動いているので、そういうマジョリティーのコードとは違ったシステムを持っている人は、この大人の世界では上手く機能できない。子供達もそうだが、自閉症スペクトラムの人達も、ダウン症の人達もそうだ。でも彼らは彼らの世界においては首尾一貫して機能しているとも言える。それどころか、クリストファーのように、通常のコードで動く人々には理解出来ない世界を持っていたりするのだろう。クリストファーが数学に取り組んだり、天空を見上げたりするとき、彼の想像力は私達の思いもよらないパラレル・ワールドで無限大にはじけ、私達には見えない世界を見ている。クリストファーのように、整然とした世界で上手く機能し、それを越えるとパンクするというある意味分かりやすい宇宙に生きている人と視線を重ねて見ると、彼の父母やシアーズ夫妻のような人々は何と不完全で混乱していることか。劇を見終わる頃には、彼らこそ、不可解な衝動にがんじがらめの、救いようのない「障害者」に見えてきたから不思議だ。
クリストファーを演じたルーク・トレッダウェイは、15歳の少年にしては歳取りすぎて見えるが、これは映像によるクローズアップで見た為もあり、舞台ではそう目立たないだろうと思う。それ以外は完璧。自閉症の少年になりきった演技は入念な準備を要したことだろう。彼の細部まで行き届いた演技は、映画「博士と彼女のセオリー」でALS患者となったホーキンズ博士を演じたエディー・レドメインを彷彿とさせた。母親を演じたニコラ・ウォーカー、父親役のポール・リッターもクリストファーに振り回される大人を上手に、陰影を感じさせつつ演じている。そして、クリストファーの世界と大人達の世界の仲立ちをし、少し離れたり、内側に入ったりしつつクリストファーを見続けるシボーン先生の役柄と、それを演じたニーブ・キューザックが大変印象的だ。
普通の映画を見るよりは大分高価だが(3000円)、十二分にお釣りの来る満足感を得られた。私は社会の問題を描く劇や、シェイクスピアやイプセンなどの西洋古典が好きなので、この劇にはあまり期待せずに出かけたが、予想が良い意味で完全にはずれて良かった。
劇場:吉祥寺オデオン
演出:マリアンヌ・エリオット
原作:マーク・ハッドン
脚本:サイモン・スティーブンス
セット:バニー・クリスティー
照明:ポール・コンスタブル
音響:イアン・ディッキンソン
音楽:エイドリアン・サットン
映像:フィン・ロス
出演:
ルーク・トレッダウェイ (クリストファー)
ニコラ・ウォーカー (ジュディ、母親)
ユーナ・スタッブス (ミセス・アレクサンダー、近所の老婦人)
ニーブ・キューザック (シボーン、特殊学級の先生)
ポ−ル・リッター (エド、父親)
☆☆☆☆☆/ 5
NT Liveの映像を通してだけれど、久しぶりにイギリスの舞台を見た。工夫に満ちた舞台で、非常に楽しめた。2012年の制作だが、初演ではオリヴィエ賞など多くの演劇賞を獲得し、2016年の今になってもロンドンではギールグッド劇場でロングランしており、また全世界で NT Liveを通じて上映され続けているのもうなずける傑作だ。
物語は、マーク・ハッドンの小説を原作としており、自閉症スペクトラムの15歳の少年、クリストファーを主人公に、彼の父母、そして特殊学級の先生を中心に描く。
クリストファーは2年前に母親を心臓発作で失い、今は父親と地方の小都市スウィンドンで暮らしている。自閉症で日常の社会生活では色々な困難はあるが、数学では人並み外れた能力を持っている。ある日彼は庭で隣人のシアーズさんの犬が、熊手(干し草かきに使う大きなやつ)で無惨に刺し殺されているのを見つけ、非常にショックを受ける。彼は、その「殺犬」の犯人を捜そうとして近所の家を戸別訪問して話を聞こうとするが、自閉症の彼には到底理解出来ない複雑な事情を聞いて混乱する。犬の死に端を発した彼の冒険は、彼をロンドンへ向かわせるが、旅は困難を極める・・・。
自閉症の少年の心を描きながら、しかし、観客は父や母、先生など健常者の大人の視点も理解しなければいけない。脚本のスティーブンスと演出のエリオットは、そういう2つの視野を絡み合わせつつ、巧みに舞台を構成している。そして、それを実現させたデザイン、照明、音響担当等のスタッフの力も非常に大きい。例えば、クリストファーの書く「本」(実は日記)を彼自身に読ませたり、先生のシボーンに読ませたりして、視点をずらしつつ、彼の内面を照射する。ある意味、デジタルの世界のように整然と構成されているクリストファーの思考形態は、照明による四角い線で格子状に区切られた舞台と、その世界を飛び交う数字や記号で表される。一方、父母など、彼のまわりの人間達の心や行動はあまりにもぐちゃぐちゃで、クリストファーには到底、シャーローク・ホームズのようにはきれいに解読できない。キャパシティーを越えてあふれ出す情報を前にして、クリストファーは混乱し、パニックを起こす。
障害を持った人を健常者の子供と比べるのは不正確とは思うが、見終わった後、私は自分の子供の頃の気持ちを思いだした。大人の言っている言葉が分からない、彼らの言う正しい事、間違った事、しなければならない、してはならない事の意味が分からない、そういう気持ち。大人の世界が無限の謎解きパズルのようで、不思議なことばかりだった。喜ばれると思ったことが大人を困らせたり、いけないことと思ったのに褒められたり。そして、同じ日本語なのに、大人同士の会話は、何が何だか分からなくて、暗号が飛び交う空間のようだった。
常々感じていることだけど、人と人を結びつける感情のコード、言語とかジェスチャーとかそれらのタイミングとか組み合わせとか強弱とか、そういうものは、人それぞれ違っていて、誰が正しいとか、何が正常とか言いがたい。ただし、大多数の人々を結びつけるコードの共通項によって世界は動いているので、そういうマジョリティーのコードとは違ったシステムを持っている人は、この大人の世界では上手く機能できない。子供達もそうだが、自閉症スペクトラムの人達も、ダウン症の人達もそうだ。でも彼らは彼らの世界においては首尾一貫して機能しているとも言える。それどころか、クリストファーのように、通常のコードで動く人々には理解出来ない世界を持っていたりするのだろう。クリストファーが数学に取り組んだり、天空を見上げたりするとき、彼の想像力は私達の思いもよらないパラレル・ワールドで無限大にはじけ、私達には見えない世界を見ている。クリストファーのように、整然とした世界で上手く機能し、それを越えるとパンクするというある意味分かりやすい宇宙に生きている人と視線を重ねて見ると、彼の父母やシアーズ夫妻のような人々は何と不完全で混乱していることか。劇を見終わる頃には、彼らこそ、不可解な衝動にがんじがらめの、救いようのない「障害者」に見えてきたから不思議だ。
クリストファーを演じたルーク・トレッダウェイは、15歳の少年にしては歳取りすぎて見えるが、これは映像によるクローズアップで見た為もあり、舞台ではそう目立たないだろうと思う。それ以外は完璧。自閉症の少年になりきった演技は入念な準備を要したことだろう。彼の細部まで行き届いた演技は、映画「博士と彼女のセオリー」でALS患者となったホーキンズ博士を演じたエディー・レドメインを彷彿とさせた。母親を演じたニコラ・ウォーカー、父親役のポール・リッターもクリストファーに振り回される大人を上手に、陰影を感じさせつつ演じている。そして、クリストファーの世界と大人達の世界の仲立ちをし、少し離れたり、内側に入ったりしつつクリストファーを見続けるシボーン先生の役柄と、それを演じたニーブ・キューザックが大変印象的だ。
普通の映画を見るよりは大分高価だが(3000円)、十二分にお釣りの来る満足感を得られた。私は社会の問題を描く劇や、シェイクスピアやイプセンなどの西洋古典が好きなので、この劇にはあまり期待せずに出かけたが、予想が良い意味で完全にはずれて良かった。
2016/03/22
【英・アイルランド・仏映画】「ジミー、野を駆ける伝説」(2014)
原題:"Jimmy's Hall"
監督:ケン・ローチ
脚本:ポール・ラヴァティ
制作:レベッカ・オブライエン
音楽:ジョージ・フェントン
撮影:ロビー・ライアン
出演:
バリー・ウォード (ジミー・グラルトン)
フランシス・マギー (モシー、ジミーの親友)
アイリーン・ヘンリー (アリス、ジミーの母)
ウーナ (シモーヌ・カービー、ジミーの昔の恋人)
ステラ (ステラ・マクガール)
ジム・ノートン (シェリダン神父、教区教会の主任司祭)
アンドリュー・スコット (シーマス神父、若い司祭)
ブライアン・F・オバーン (デニス・オキーフ、大地主)
アシュリン・フランシオーシ (マリー・オキーフ)
☆☆☆☆ / 5
2014年の映画で、日本では去年(2015年)の1月に公開された。私は公開前から見たいと思っていたのだが、そのうち行こうと思いつつ上映期間が終わってしまい、見逃した。先日WOWOWで放送され、録画して見た。
物語は1930年代、世界恐慌後のアイルランドにおいて、実際に存在した社会主義の活動家ジェイムズ(ジミー)・グラルトン(James Gralton, 1886-1945)の姿に基づいているそうだが、細部はフィクションだろう。
ジミーは、アイルランドの北部、リートリム州(County Leitrim)の小さな農村で生まれ育ったが、1920年頃、アイルランドの独立戦争に参加し、地域の人望を集めた。その後、彼はアメリカに移住していたが、年老いた母の世話をし、農業を営むために10年ぶりに故郷の村に帰ってきたところで物語は始まる。この当時のアイルランドは、映画からうかがえる限りでは、政府とカトリック教会、そして大地主達が、権力と押しつけのモラルで、貧しい農民達をがんじがらめにしていた。その象徴的な存在が教区教会の司祭、シェリダン神父であり、地主で資本家のデニス・オキーフ。
ジミーは昔の仲間に歓迎され、皆と農作業に励んだりして静かな暮らしを始める。しかし、彼が10年前に様々な社会活動や教育を行っていたささやかなトタン張りの建物(「ジミーのホール」)のことを聞きつけた10代の若者達が、廃屋のようになっているホールを整備し、昔のような活動を再開して欲しい、とジミーにせがむ。もめ事の種を避けて、目立たない暮らしをしようとしていたジミーだったが、再三の願いを断り切れず、皆と力を合わせてホールを再開。詩の朗読、絵画教室、音楽とダンス等々、様々な活動が熱心に行われるようになる。特に、アイルランド特有のダンスのシーンが素晴らしい。
しかし、厳格で禁欲的なモラルを貧しい教区民に押しつけて支配したいシェリダン神父や、共産主義や組合活動を蛇蠍のごとく嫌う地主のオキーフら村の支配階級は、ジミー達の文化活動に実際以上に政治的、階級闘争的な側面を読み込んで、破壊分子として危険視し、何かにつけて抑圧しようとした。折しも、貧しい農家がオキーフから家を取り上げられるという事件が起き、住民と地主が激しく対立する。それを望んでいなかったジミーも、否応なく政治的対立の構図に引き込まれていく・・・。
ケン・ローチの映画は、私にはどれを見ても気に入ることは分かっていたが、これは特にfeel-goodタイプの作品。社会の問題を描きつつも、踊りや音楽とか、若者達の明るさなどで、全体が楽しい雰囲気で溢れていて、非常に楽しめた。幕切れも希望を抱かせる爽やかな終わり方をしている。映画が始まった途端、画面一杯に広がるまぶしい程の緑の景色も印象的。アイルランドらしさを前面に押し出したローチの演出だ。そして、映画の主要な場面を占めるダンスのシーンが圧巻。アイルランドの音楽や踊りと、ジミーがアメリカから持ち帰った黒人の音楽や踊りが混じり合うあたりも、虐げられた者達への共感を芸能を通じて表現したいというローチのメッセージが感じられる。アイルランドの音楽と踊りが堪能出来るだけでも、見る価値がある映画だ。日本における新劇やプロレタリア文学もそうだが、かっては洋の東西を問わず、芸術家や文化人が労働者の中に入っていったり、労働者自身が色々な文化活動を通して自分達を高めようとしたりした運動は各国にあった。イギリスの演劇では、ナショナルで上演された”Pitman Painters”など記憶に残る。ジミー達の活動もそうしたものとしても捉えられるだろう。
私はアイルランド史についてわずかな知識しか無いが、この映画を通してうかがえる限り、警察や地元の資産家とつるんだカトリック教会による精神的、物理的抑圧が凄まじい。ジミーのホールに行く人々を逐一監視して、教会で名前を読み上げてさらし者にしたり、商店主には不買運動を示唆して脅かし、教会では日曜の説教を利用してジミー達の文化活動を悪魔の誘惑のように糾弾する。まるで全体主義の国家のようだ。主任司祭シェリダンを演じたジム・ノートンは大変説得力ある演技で、彼こそまさに悪魔に見えた。彼はジミーが誠実で、誘惑に屈せず、決してひるまない強い精神の持ち主であることを尊敬しつつ、それ故に尚更彼を怖れ、迫害する。大恐慌後、全世界で人々が貧困に打ちひしがれ、独裁者スターリンに率いられたソビエトが革命後の混乱を乗り越えて国力を伸ばしつつあった時代、欧米の資本家や宗教指導者にとっては、共産主義が如何に大きな、そして現実的な脅威であったかが想像出来る。
英領の北アイルランドも含め、アイルランドにおけるカトリック教会、いやプロテスタントも含めてキリスト教諸派の影響力の大きさを再認識させる映画だった。21世紀の今になっても、北アイルランドでは宗派の違いを発端としたテロ事件が止んでいない。また、医療上の特殊な例外を除いて、北でも共和国でも堕胎が非合法で、望まない妊娠をしてしまった多くの女性がイングランドに渡って手術を受けているような国である。
この映画は、左翼社会運動家の視点から歴史上のヒーローを讃美しており、歴史を客観的に描いてはいないだろう。シェリダン神父がジミーの誠実さを認めることや、若いシーマス神父がシェリダン達に反対することなど、多少の陰影はあるが、実際は、農民の側も、支配層も、もっと複雑な動きがあっただろうと推測するが、それを冷静に分析するのはローチが目ざしている仕事ではない。
出演者の中で、私が良く見る俳優と言うと、アンドリュー・スコットくらい。誰も大スターの出ない映画だが、それでも世界中で公開され、満足した観客も多いことだろう。ケン・ローチと彼を支える脚本のポール・ラヴァティやプロデューサーのレベッカ・オブライエンなどのチームに大きな拍手!!
監督:ケン・ローチ
脚本:ポール・ラヴァティ
制作:レベッカ・オブライエン
音楽:ジョージ・フェントン
撮影:ロビー・ライアン
出演:
バリー・ウォード (ジミー・グラルトン)
フランシス・マギー (モシー、ジミーの親友)
アイリーン・ヘンリー (アリス、ジミーの母)
ウーナ (シモーヌ・カービー、ジミーの昔の恋人)
ステラ (ステラ・マクガール)
ジム・ノートン (シェリダン神父、教区教会の主任司祭)
アンドリュー・スコット (シーマス神父、若い司祭)
ブライアン・F・オバーン (デニス・オキーフ、大地主)
アシュリン・フランシオーシ (マリー・オキーフ)
☆☆☆☆ / 5
2014年の映画で、日本では去年(2015年)の1月に公開された。私は公開前から見たいと思っていたのだが、そのうち行こうと思いつつ上映期間が終わってしまい、見逃した。先日WOWOWで放送され、録画して見た。
物語は1930年代、世界恐慌後のアイルランドにおいて、実際に存在した社会主義の活動家ジェイムズ(ジミー)・グラルトン(James Gralton, 1886-1945)の姿に基づいているそうだが、細部はフィクションだろう。
ジミーは、アイルランドの北部、リートリム州(County Leitrim)の小さな農村で生まれ育ったが、1920年頃、アイルランドの独立戦争に参加し、地域の人望を集めた。その後、彼はアメリカに移住していたが、年老いた母の世話をし、農業を営むために10年ぶりに故郷の村に帰ってきたところで物語は始まる。この当時のアイルランドは、映画からうかがえる限りでは、政府とカトリック教会、そして大地主達が、権力と押しつけのモラルで、貧しい農民達をがんじがらめにしていた。その象徴的な存在が教区教会の司祭、シェリダン神父であり、地主で資本家のデニス・オキーフ。
ジミーは昔の仲間に歓迎され、皆と農作業に励んだりして静かな暮らしを始める。しかし、彼が10年前に様々な社会活動や教育を行っていたささやかなトタン張りの建物(「ジミーのホール」)のことを聞きつけた10代の若者達が、廃屋のようになっているホールを整備し、昔のような活動を再開して欲しい、とジミーにせがむ。もめ事の種を避けて、目立たない暮らしをしようとしていたジミーだったが、再三の願いを断り切れず、皆と力を合わせてホールを再開。詩の朗読、絵画教室、音楽とダンス等々、様々な活動が熱心に行われるようになる。特に、アイルランド特有のダンスのシーンが素晴らしい。
しかし、厳格で禁欲的なモラルを貧しい教区民に押しつけて支配したいシェリダン神父や、共産主義や組合活動を蛇蠍のごとく嫌う地主のオキーフら村の支配階級は、ジミー達の文化活動に実際以上に政治的、階級闘争的な側面を読み込んで、破壊分子として危険視し、何かにつけて抑圧しようとした。折しも、貧しい農家がオキーフから家を取り上げられるという事件が起き、住民と地主が激しく対立する。それを望んでいなかったジミーも、否応なく政治的対立の構図に引き込まれていく・・・。
ケン・ローチの映画は、私にはどれを見ても気に入ることは分かっていたが、これは特にfeel-goodタイプの作品。社会の問題を描きつつも、踊りや音楽とか、若者達の明るさなどで、全体が楽しい雰囲気で溢れていて、非常に楽しめた。幕切れも希望を抱かせる爽やかな終わり方をしている。映画が始まった途端、画面一杯に広がるまぶしい程の緑の景色も印象的。アイルランドらしさを前面に押し出したローチの演出だ。そして、映画の主要な場面を占めるダンスのシーンが圧巻。アイルランドの音楽や踊りと、ジミーがアメリカから持ち帰った黒人の音楽や踊りが混じり合うあたりも、虐げられた者達への共感を芸能を通じて表現したいというローチのメッセージが感じられる。アイルランドの音楽と踊りが堪能出来るだけでも、見る価値がある映画だ。日本における新劇やプロレタリア文学もそうだが、かっては洋の東西を問わず、芸術家や文化人が労働者の中に入っていったり、労働者自身が色々な文化活動を通して自分達を高めようとしたりした運動は各国にあった。イギリスの演劇では、ナショナルで上演された”Pitman Painters”など記憶に残る。ジミー達の活動もそうしたものとしても捉えられるだろう。
私はアイルランド史についてわずかな知識しか無いが、この映画を通してうかがえる限り、警察や地元の資産家とつるんだカトリック教会による精神的、物理的抑圧が凄まじい。ジミーのホールに行く人々を逐一監視して、教会で名前を読み上げてさらし者にしたり、商店主には不買運動を示唆して脅かし、教会では日曜の説教を利用してジミー達の文化活動を悪魔の誘惑のように糾弾する。まるで全体主義の国家のようだ。主任司祭シェリダンを演じたジム・ノートンは大変説得力ある演技で、彼こそまさに悪魔に見えた。彼はジミーが誠実で、誘惑に屈せず、決してひるまない強い精神の持ち主であることを尊敬しつつ、それ故に尚更彼を怖れ、迫害する。大恐慌後、全世界で人々が貧困に打ちひしがれ、独裁者スターリンに率いられたソビエトが革命後の混乱を乗り越えて国力を伸ばしつつあった時代、欧米の資本家や宗教指導者にとっては、共産主義が如何に大きな、そして現実的な脅威であったかが想像出来る。
英領の北アイルランドも含め、アイルランドにおけるカトリック教会、いやプロテスタントも含めてキリスト教諸派の影響力の大きさを再認識させる映画だった。21世紀の今になっても、北アイルランドでは宗派の違いを発端としたテロ事件が止んでいない。また、医療上の特殊な例外を除いて、北でも共和国でも堕胎が非合法で、望まない妊娠をしてしまった多くの女性がイングランドに渡って手術を受けているような国である。
この映画は、左翼社会運動家の視点から歴史上のヒーローを讃美しており、歴史を客観的に描いてはいないだろう。シェリダン神父がジミーの誠実さを認めることや、若いシーマス神父がシェリダン達に反対することなど、多少の陰影はあるが、実際は、農民の側も、支配層も、もっと複雑な動きがあっただろうと推測するが、それを冷静に分析するのはローチが目ざしている仕事ではない。
出演者の中で、私が良く見る俳優と言うと、アンドリュー・スコットくらい。誰も大スターの出ない映画だが、それでも世界中で公開され、満足した観客も多いことだろう。ケン・ローチと彼を支える脚本のポール・ラヴァティやプロデューサーのレベッカ・オブライエンなどのチームに大きな拍手!!
2016/03/16
【イギリス映画】“Suffragette”(サフラジェット)(2015年)
監督:Sarah Gavron
脚本:Abi Morgan
制作:Alison Owen, Faye Ward
音楽:Alexandre Desplat
出演:
Carey Mulligan (Maud Watts)
Helena Bonham Carter (Edith Ellyn)
Anne-Marie Duff (Violet Miller)
Natalie Press (Emily Davidson)
Meryl Streep (Emmeline Pankhurst)
Romola Garai (Alice Haughton)
Brendan Gleeson (Steed)
Ben Whishaw (Sonney Watts)
Samuel West (Benedict)
☆☆☆☆☆ / 5
(まだ日本公開前の映画です。これから見ようと思う人は、以下は読まない方が良いかも知れません。日本公開時のタイトルがどうなるかは知りません。)
イギリスにおける第一次世界大戦直前の女性参政権運動の様子を描いた映画。昨年(2015)の10月にイギリスで封切られた。日本でもおそらく今年か来年あたり公開されることと思う。題名の”Suffragette”は女性参政権運動家を表す言葉。昨年のイギリスでの公開前から是非見たいと思っていたが、日本公開を待ちきれず、アマゾンUKでDVDの予約が可能になったので、予約していたら先日発売になり、送られてきた。
私が期待していた通り、大いに楽しめたし、公平に見ても大変良い映画だと思う。歴史的事実を描きつつも、両性の平等と女性の政治参加を応援する、フェミニズムの視点に立つ映画であり、映画の最後には、各国で女性参政権が獲得された年を示し、例えばサウジアラビアのように未だに女性の政治・社会参加が限られている国々もある中、現在と未来へのメッセージを投げかけてもいる。
イギリスにおける婦人参政権運動の最も有名な指導者、エメリン・パンクハーストや、エプソン競馬場で国王ジョージ5世に直訴しようとして命を落としたエミリー・ディヴィッドソンなど実在した人物も出てくるが、基本的な物語は、架空の人物モード・ワッツという20歳代の若い洗濯婦で一児の母親である女性が、職場の同僚ヴァイオレット・ミラーに誘われて、徐々に主体性を持った運動家に育っていくプロセスを描きながら、1912年から13年にかけての婦人参政権運動を描く、この頃、彼女たちは、政界やマスコミ、そして多くの国民の関心を高めるために、投石、放火などの実力行使に訴えたが、そうした流れを史実にかなり忠実に描いているようだ。
イギリスの婦人参政権運動がパンクハースト家のような上流階級、あるいはミドルクラスだけでなく、モードのような女性を多く巻き込んでいたとしたら、この運動には階級闘争的な面もあったということだろうか。劣悪な洗濯工場で、体を壊したり、怪我をしたり、監督の男性の性暴力に苦しんだりしつつ、日々長時間労働を強いられていたモードやヴァイオレットの様子は、まさに囚人の暮らしであり、20世紀になっても、ディケンズの時代とさして変わらない状況が続いていたことがうかがえる。更に、モードは学校にもろくに行っておらず、十代前半から洗濯婦として働き始めていた。彼女の夫ソニーも同じ工場で働いており、2人には男の子がひとりいて、モードにとっては唯一生きる喜びになっていたが、そうしたささやかな幸福も、彼女が運動に加わることで大きな打撃を被ることになる。また、登場する運動家の中には下院議員の妻アリス・ホートン、妻の運動に理解ある夫と共に薬局を営むイーディスなどもいるが、色々な階級の女性たちが、女性の解放の為に協力して立ち上がっている様子を描こうという意図だろう。下院議員の妻であるアリスでさえ、その自由と体は夫の所有物である。伝わってくるメッセージは、参政権の獲得なくしては、あらゆる階層の女性を隷属状態から解放出来ないということだ。
警察の特殊部隊による活動家のリストアップと監視、警察官による暴力、尋問や懐柔策など、リアリティーがあり、今も昔も、そして洋の東西を問わず変わらないなと思った。70年安保前後の、新左翼の活動家達の経験も思い出した。
私はキャリー・マリガンの舞台や映画、テレビ・ドラマなどを見た記憶がなく、多分これが初めてだと思うが、非常に良い印象を持った。監督や制作者の意図もあると思うが、メークをほとんどつけてない(ように見える)顔で、ワーキングクラスの洗濯婦を自然に演じることが出来ていた。成長する運動家のたくましさも、そして、運動のなかで、妻として、母親として悩む様子も上手く演じていた。それ以外の女優陣も豪華。特に、私にとって主役以上に印象的だったのは、ヴァイオレットを演じたアンヌーマリー・ダフ。舞台で何度か見た女優だが、彼女の台詞と表情の雄弁さにはいつも感心する。ヘレナ・ボナム・カーター、ロモラ・ガライなど、脇役の女優陣も演技達者。カメオで、メリル・ストリープがエメリン・パンクハーストを演じたのも、はまり役だったと思う。
衣装、セット、そしてロンドンの通りの様子など、実に良く出来たピリオド・ドラマになっている。スタッフの熱意と徹底したリサーチがうかがえる。スターを目立たせて彼らの人気で客を集めようとする映画ではなく、飽くまで女性参政権運動家達を描きたいという制作者達の意図が感じられた。そうした作品だからこそ、女優達がより一層輝いて魅力的に見えた。
この映画では、戦闘的な女性参政権運動に焦点を当てているが、これ以外にも、ミリセント・フォーセットに率いられたサフラジスト(Suffragists)と呼ばれる穏健なグループもあり、議会へのロビー活動を通じての政治参加への模索も行われていた。自由党、労働党、労働運動や知識人達との関係など、女性参政権運動にも多様な顔があった。そうした点はこの映画では分からないが、2時間に満たない作品に大局的な視点を求めるのは無理な注文だろう。私も知らないことばかりなので、この映画をきっかけにして、もう少し映画の背景を学んで見たいと思った。先進国の中では、両性の平等に関して極めて保守的で、家父長的であり、「フェミニズム」という言葉がしばしば揶揄される日本においてこそ、特に若い女性達にこの映画を広く見て、考えて欲しいと思う。ちなみに、モードの夫役として、日本人女性にかなり人気のあるらしい(?)ベン・ウィショーも出演。彼が出ているという理由だけでこの映画を見る女性にも、映画のメッセージが心に響くと良いが。
なお、この映画に描かれた時代は第一次世界大戦直前。大戦後、戦争中の女性による社会の多様な職域での活躍が評価されて、1918年には人民代表法 (Representation of the People Act〉が制定され、30歳以上の女性の多く(地位や財産に制限あり)に選挙権が認められ、28年には21歳以上の全ての男女に選挙権が認められるようになった。(なお、この1918年に初めて男子普通選挙権も認められた。それまでは、戸主選挙権であったが、すべての21歳以上の成人男子に認められるようになった。)イギリスにおける女性解放の歴史上、暴力を含む実力行使を行ったサフラジェット達がどれだけの役割を果たしたかは議論が分かれそうだが、それを考える上でもこの映画は見る価値がある。忘れてならないのは、投票などの民主主義の最低限の権利は勿論、平和的なデモでさえも弾圧されていた時代だったということだ。つまり、アパルトヘイト時代の南アフリカにおける黒人達やANCの状況と似ている。そういう状態で、女性たちが延々と平和的手段だけで運動を続けることに意味があったのか疑問であり、実力行使は起こるべくして起こったと言える。
写真は、エメリン・パンクハースト(写真の出典はこちら)。
[2016年9月14日追記]
この映画、日本公開が決まったようですが、その邦題が『未来を花束にして』。宣伝方針としては、原作の政治色、フェミニズム色を出来るだけ消して、きれいな女優さんたちが、時代の荒波に揉まれつつも、けなげに頑張る昔の女性を演じました、というところでしょうか。日本社会の家父長的な性格を示すなんとも皮肉な題名となりました。
脚本:Abi Morgan
制作:Alison Owen, Faye Ward
音楽:Alexandre Desplat
出演:
Carey Mulligan (Maud Watts)
Helena Bonham Carter (Edith Ellyn)
Anne-Marie Duff (Violet Miller)
Natalie Press (Emily Davidson)
Meryl Streep (Emmeline Pankhurst)
Romola Garai (Alice Haughton)
Brendan Gleeson (Steed)
Ben Whishaw (Sonney Watts)
Samuel West (Benedict)
☆☆☆☆☆ / 5
(まだ日本公開前の映画です。これから見ようと思う人は、以下は読まない方が良いかも知れません。日本公開時のタイトルがどうなるかは知りません。)
イギリスにおける第一次世界大戦直前の女性参政権運動の様子を描いた映画。昨年(2015)の10月にイギリスで封切られた。日本でもおそらく今年か来年あたり公開されることと思う。題名の”Suffragette”は女性参政権運動家を表す言葉。昨年のイギリスでの公開前から是非見たいと思っていたが、日本公開を待ちきれず、アマゾンUKでDVDの予約が可能になったので、予約していたら先日発売になり、送られてきた。
私が期待していた通り、大いに楽しめたし、公平に見ても大変良い映画だと思う。歴史的事実を描きつつも、両性の平等と女性の政治参加を応援する、フェミニズムの視点に立つ映画であり、映画の最後には、各国で女性参政権が獲得された年を示し、例えばサウジアラビアのように未だに女性の政治・社会参加が限られている国々もある中、現在と未来へのメッセージを投げかけてもいる。
イギリスにおける婦人参政権運動の最も有名な指導者、エメリン・パンクハーストや、エプソン競馬場で国王ジョージ5世に直訴しようとして命を落としたエミリー・ディヴィッドソンなど実在した人物も出てくるが、基本的な物語は、架空の人物モード・ワッツという20歳代の若い洗濯婦で一児の母親である女性が、職場の同僚ヴァイオレット・ミラーに誘われて、徐々に主体性を持った運動家に育っていくプロセスを描きながら、1912年から13年にかけての婦人参政権運動を描く、この頃、彼女たちは、政界やマスコミ、そして多くの国民の関心を高めるために、投石、放火などの実力行使に訴えたが、そうした流れを史実にかなり忠実に描いているようだ。
イギリスの婦人参政権運動がパンクハースト家のような上流階級、あるいはミドルクラスだけでなく、モードのような女性を多く巻き込んでいたとしたら、この運動には階級闘争的な面もあったということだろうか。劣悪な洗濯工場で、体を壊したり、怪我をしたり、監督の男性の性暴力に苦しんだりしつつ、日々長時間労働を強いられていたモードやヴァイオレットの様子は、まさに囚人の暮らしであり、20世紀になっても、ディケンズの時代とさして変わらない状況が続いていたことがうかがえる。更に、モードは学校にもろくに行っておらず、十代前半から洗濯婦として働き始めていた。彼女の夫ソニーも同じ工場で働いており、2人には男の子がひとりいて、モードにとっては唯一生きる喜びになっていたが、そうしたささやかな幸福も、彼女が運動に加わることで大きな打撃を被ることになる。また、登場する運動家の中には下院議員の妻アリス・ホートン、妻の運動に理解ある夫と共に薬局を営むイーディスなどもいるが、色々な階級の女性たちが、女性の解放の為に協力して立ち上がっている様子を描こうという意図だろう。下院議員の妻であるアリスでさえ、その自由と体は夫の所有物である。伝わってくるメッセージは、参政権の獲得なくしては、あらゆる階層の女性を隷属状態から解放出来ないということだ。
警察の特殊部隊による活動家のリストアップと監視、警察官による暴力、尋問や懐柔策など、リアリティーがあり、今も昔も、そして洋の東西を問わず変わらないなと思った。70年安保前後の、新左翼の活動家達の経験も思い出した。
私はキャリー・マリガンの舞台や映画、テレビ・ドラマなどを見た記憶がなく、多分これが初めてだと思うが、非常に良い印象を持った。監督や制作者の意図もあると思うが、メークをほとんどつけてない(ように見える)顔で、ワーキングクラスの洗濯婦を自然に演じることが出来ていた。成長する運動家のたくましさも、そして、運動のなかで、妻として、母親として悩む様子も上手く演じていた。それ以外の女優陣も豪華。特に、私にとって主役以上に印象的だったのは、ヴァイオレットを演じたアンヌーマリー・ダフ。舞台で何度か見た女優だが、彼女の台詞と表情の雄弁さにはいつも感心する。ヘレナ・ボナム・カーター、ロモラ・ガライなど、脇役の女優陣も演技達者。カメオで、メリル・ストリープがエメリン・パンクハーストを演じたのも、はまり役だったと思う。
衣装、セット、そしてロンドンの通りの様子など、実に良く出来たピリオド・ドラマになっている。スタッフの熱意と徹底したリサーチがうかがえる。スターを目立たせて彼らの人気で客を集めようとする映画ではなく、飽くまで女性参政権運動家達を描きたいという制作者達の意図が感じられた。そうした作品だからこそ、女優達がより一層輝いて魅力的に見えた。
この映画では、戦闘的な女性参政権運動に焦点を当てているが、これ以外にも、ミリセント・フォーセットに率いられたサフラジスト(Suffragists)と呼ばれる穏健なグループもあり、議会へのロビー活動を通じての政治参加への模索も行われていた。自由党、労働党、労働運動や知識人達との関係など、女性参政権運動にも多様な顔があった。そうした点はこの映画では分からないが、2時間に満たない作品に大局的な視点を求めるのは無理な注文だろう。私も知らないことばかりなので、この映画をきっかけにして、もう少し映画の背景を学んで見たいと思った。先進国の中では、両性の平等に関して極めて保守的で、家父長的であり、「フェミニズム」という言葉がしばしば揶揄される日本においてこそ、特に若い女性達にこの映画を広く見て、考えて欲しいと思う。ちなみに、モードの夫役として、日本人女性にかなり人気のあるらしい(?)ベン・ウィショーも出演。彼が出ているという理由だけでこの映画を見る女性にも、映画のメッセージが心に響くと良いが。
なお、この映画に描かれた時代は第一次世界大戦直前。大戦後、戦争中の女性による社会の多様な職域での活躍が評価されて、1918年には人民代表法 (Representation of the People Act〉が制定され、30歳以上の女性の多く(地位や財産に制限あり)に選挙権が認められ、28年には21歳以上の全ての男女に選挙権が認められるようになった。(なお、この1918年に初めて男子普通選挙権も認められた。それまでは、戸主選挙権であったが、すべての21歳以上の成人男子に認められるようになった。)イギリスにおける女性解放の歴史上、暴力を含む実力行使を行ったサフラジェット達がどれだけの役割を果たしたかは議論が分かれそうだが、それを考える上でもこの映画は見る価値がある。忘れてならないのは、投票などの民主主義の最低限の権利は勿論、平和的なデモでさえも弾圧されていた時代だったということだ。つまり、アパルトヘイト時代の南アフリカにおける黒人達やANCの状況と似ている。そういう状態で、女性たちが延々と平和的手段だけで運動を続けることに意味があったのか疑問であり、実力行使は起こるべくして起こったと言える。
写真は、エメリン・パンクハースト(写真の出典はこちら)。
[2016年9月14日追記]
この映画、日本公開が決まったようですが、その邦題が『未来を花束にして』。宣伝方針としては、原作の政治色、フェミニズム色を出来るだけ消して、きれいな女優さんたちが、時代の荒波に揉まれつつも、けなげに頑張る昔の女性を演じました、というところでしょうか。日本社会の家父長的な性格を示すなんとも皮肉な題名となりました。
2016/03/09
【イタリア映画】「ローマの教室で—我らの佳き日々—」 (2012年)
監督:ジョゼッペ・ピッチョーニ
出演:
マルゲリータ・ブイ (ジュリアーナ)
リッカルド・スカマルチョ (ジョバンニ)
ロベルト・ヘルリッカ (フィオリート)
☆☆☆☆ / 5
先日WOWOWで放送されたのを録画しておいて見た。気楽に楽しめる学園ドラマ。
ジュリアーナはローマの公立高校の校長。なかなか素敵な先生。彼女の高校へ新しい補助教員のジョバンニが着任する。金八先生みたいに肩に力は入ってない、自然体の若い男性だが、新任なので、それなりにやる気はある。彼を迎えるのはベテランの美術史(そんな授業があるのか、とちょっと驚く)の先生、フィオリート。この先生がまだ定年になってないの?と思うくらいのお爺さん。彼は哲学や文学にも詳しいようで大変なインテリだが、とてもシニカル。やる気のない生徒達に本気で教えても無駄、というような事をしばしばジョバンニに言う。彼自身、生きる希望を無くしているようで、惰性で仕事をしている。しかし、こんな教師だったら、思春期の難しい子供達をコントロールして、授業を成立させることは不可能だと思うんだけどね。
この学校は公立なので、色々と問題を抱えた子もいる。家庭に問題があり、また授業をしばしばさぼってかなり年長の男と付き合っているアンジェラ、母子家庭だが母親が出ていって帰ってこない男の子や、真面目な優等生だけど、自己破壊的なガールフレンドと付き合って大問題を起こす男の子など、色々いる。勉強だけじゃなく、これらの子供の家庭問題とか精神的問題の対応に奔走するジョバンニやジュリアーナの苦労と喜びを描く。
あまりシリアスじゃなく、大人も子供も、皆「まあ、どうにかなるさ」みたいな雰囲気を持ちつつ生きているところが良い。イタリア映画らしさかしらね。そして、かなり散文的で、特にエモーショナルなドラマにするわけでもなく、子供達のエピソードもあまり詳しく説明されないまま終わったりしているところも、かえって自然で良い。
突拍子もない、ピントの外れた老教師フィオリートは、突然大昔の卒業生から電話がかかってきて、大変な敬愛の言葉を受ける。この卒業生が非常に魅力的な大人の女性。2人は師弟のような、でも少しは恋人のような間になる。おかげで、立ち枯れた老木が突然蘇って、生きる喜びを感じ、授業でも熱弁をふるうようになるところが微笑ましい。私のような老人男性からみると、ありえないファンタジーだが、まあファンタジーとして楽しめた(^_^)。
魅力的な校長先生ジュリアーナは、母親に家出され、自分も病気になって入院する男の子を、まるで息子のように世話をする。実の母子のようになっていく2人の様子も心温まる。
アルバイトに出かけて、へとへとになって帰宅した後に見たのだが、とても癒やされた。
出演:
マルゲリータ・ブイ (ジュリアーナ)
リッカルド・スカマルチョ (ジョバンニ)
ロベルト・ヘルリッカ (フィオリート)
☆☆☆☆ / 5
先日WOWOWで放送されたのを録画しておいて見た。気楽に楽しめる学園ドラマ。
ジュリアーナはローマの公立高校の校長。なかなか素敵な先生。彼女の高校へ新しい補助教員のジョバンニが着任する。金八先生みたいに肩に力は入ってない、自然体の若い男性だが、新任なので、それなりにやる気はある。彼を迎えるのはベテランの美術史(そんな授業があるのか、とちょっと驚く)の先生、フィオリート。この先生がまだ定年になってないの?と思うくらいのお爺さん。彼は哲学や文学にも詳しいようで大変なインテリだが、とてもシニカル。やる気のない生徒達に本気で教えても無駄、というような事をしばしばジョバンニに言う。彼自身、生きる希望を無くしているようで、惰性で仕事をしている。しかし、こんな教師だったら、思春期の難しい子供達をコントロールして、授業を成立させることは不可能だと思うんだけどね。
この学校は公立なので、色々と問題を抱えた子もいる。家庭に問題があり、また授業をしばしばさぼってかなり年長の男と付き合っているアンジェラ、母子家庭だが母親が出ていって帰ってこない男の子や、真面目な優等生だけど、自己破壊的なガールフレンドと付き合って大問題を起こす男の子など、色々いる。勉強だけじゃなく、これらの子供の家庭問題とか精神的問題の対応に奔走するジョバンニやジュリアーナの苦労と喜びを描く。
あまりシリアスじゃなく、大人も子供も、皆「まあ、どうにかなるさ」みたいな雰囲気を持ちつつ生きているところが良い。イタリア映画らしさかしらね。そして、かなり散文的で、特にエモーショナルなドラマにするわけでもなく、子供達のエピソードもあまり詳しく説明されないまま終わったりしているところも、かえって自然で良い。
突拍子もない、ピントの外れた老教師フィオリートは、突然大昔の卒業生から電話がかかってきて、大変な敬愛の言葉を受ける。この卒業生が非常に魅力的な大人の女性。2人は師弟のような、でも少しは恋人のような間になる。おかげで、立ち枯れた老木が突然蘇って、生きる喜びを感じ、授業でも熱弁をふるうようになるところが微笑ましい。私のような老人男性からみると、ありえないファンタジーだが、まあファンタジーとして楽しめた(^_^)。
魅力的な校長先生ジュリアーナは、母親に家出され、自分も病気になって入院する男の子を、まるで息子のように世話をする。実の母子のようになっていく2人の様子も心温まる。
アルバイトに出かけて、へとへとになって帰宅した後に見たのだが、とても癒やされた。
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