2013/06/08

グローブ座の跡


前回のブログでローズ座に行った時の事を書いた。このローズの跡地のある通りはPark Streetで、今のロンドン・グローブ座(正しい英語名は、"Shakespeare's Globe")のすぐ裏の通り。ロンドン・グローブは川縁の通りBanksideと川から離れる方向に走る通り、New Globe Walkの交わるところに立っているが、そのNew Globe Walkを1ブロック、川から遠ざかる方向に歩くとPark Streetと交わる。このPark Streetには、ローズ座の跡地と共に、エリザベス朝の元祖グローブ座の跡地もある。但、今表に出ている劇場の跡地は、実際の劇場の敷地の一部に過ぎず、露出している部分よりかなり広い場所を使っていた。この2つの跡地は、Park Streetを挟んでほとんど目と鼻の先。グローブが出来た時(おそらく1598年)には客を奪い合っていたに違いなく、競争に敗れたのか、ローズ(1587年開館)はやがて閉じることとなる(前項参照)。さて、次の写真はグローブ座の跡地の一部。黒い敷石に"THE GLOBE"と書いてある:



次の写真は跡地の手前にある説明版のひとつ。左側の薄い空色の部分が上の写真で見えている場所。中央の濃い青の部分は現在、ジョージ王朝時代(1714-1830)に作られた建物が建っている。グローブは8角形(octagon)で、円形に近い建物だったが、左の薄い空色の部分の内側にある半円が劇場の建物の大体の外周だそうだ。



グローブ座については、インターネット上でも簡単なものから専門的な解説まで色々と説明が読めるので、ここで素人の私が長々書いても仕方ないが、年号など私自身の復習のために、時間の流れに沿って基本的な事実だけメモしておきたい。

この劇場は、シェイクスピアの所属劇団であった宮内大臣一座(The Lord Chamberlain's Men)が所有していた劇場だが、もともと彼らはロンドンの北部郊外のショアディッチに"The Theater"という劇場(「劇場」という名前の劇場)を1576年に建てて利用していた(これがイングランドにおける最初の演劇専用劇場と言われている)。ところが、この劇場は借地に建っており、地主のジャイルズ・アレンは借地契約の期限が来たと言って、劇場の建物の所有権を主張した。彼は木材などを利用したかったのかも知れない。そのため、リチャードとカスバートのバーベッジ兄弟を中心とした劇団員達は、大工のピーター・ストリートの助力を得て、1598年の12月、街がクリスマス休み中でアレンがロンドンを離れていた28日に、The Theaterの建物を分解した。彼らは、その資材をテムズ南岸のバンクサイドに移送し、翌1599年新しい劇場を建てた。これがグローブ座である。劇団所有の劇場であるから、現在の日本でいうと、俳優座劇場みたいなものか。ちなみにアレンはこの夜逃げ的な移設に憤然として、訴訟を起こしているが、敗訴した。

このあたりのことは、もの凄くドラマチックな気がするのだが、誰か映画にしてくれないかしらと思う。きっと『恋するシェイクスピア』より余程面白くなりそうだ。小説にはなっていないのかな?

その後、グローブではシェイクスピアの戯曲を始め多くの作品が上演され続けるが、1613年、演目であった『ヘンリー8世』のために使った大砲の火花が茅葺き屋根に引火し火事で焼失。しかし、劇団は同じ場所に同様の劇場を再建して使用した(第2次グローブ座)。イングランド中で、清教徒革命により演劇が原則禁止となる1642年まで上演が続く。1644年(あるいはその少し後)頃には清教徒により破壊された。

グローブ座の跡地は1989年に発見され、ロンドン博物館のスタッフなどによって発掘・研究されている。

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