主催団体: York Theatre Royal, Riding Lights Theatre Company, York Museum Trust
観劇日時:
2012. 8. 17 19:30-23:00 (including a 25 min interval)
2012. 8. 18 14:30-18:00 (including a 25 min interval)
公演場所: York Museum Garden内特設野外ステージ(前回のポスト参照)
演出:Paul Burbridge, Damian Cruden
脚本:Mike Kenny
セット:Sean Cavanagh
照明:Richard G. Jones
音響:Clement Rawling
音楽:Christopher Madin
衣装:Anna Gooch
出演:
God the Father & Jesus: Ferdiand Kingsley
Satan (Lucifer): Graeme Hawley
Pilate: Tom Jackson
Herod: Rory Mulvihill
Mary: Lydia Onyett
Joseph: Rob Ainsley
Caiaphas: Michael Lightfoot
Annas: Beryl Nairn
他多数
既に「全体の印象」として触れたが、The York Mystery Plays 2012を、8月17日の夜の部と、18日の昼の部の2度見てきた。2度見たと言うと、私の指導教授はあきれ顔だったが、やはり専門にしている劇の上演なので、細かい事まで注意して見たいと思った。その成果があったかどうかは分からないが、どちらの回もかなり楽しめた。夜と昼という時間の違いにより、野外ステージならではの雰囲気の違いも味わえた。
公演場所は、ヨークの中心街にあるヨーク博物館(York Museum)の庭園。この場所は中世においてSt Mary's Abbeyという大きな修道院があったところで、博物館内にはその出土品が多数展示してあるが、それだけでなく、敷地内に修道院の巨大な壁が遺跡として残っている。その遺跡の壁が丁度背景になるように巨大な野外ステージを組んであり、素晴らしい舞台になった。特に夜の部は、遺跡の壁が照明に照らし出されて幻想的な雰囲気をかもし出し、一段と効果的だった。会場の写真は前回のポストに纏めて載せたので、そちらを見ていただきたい。
その遺跡の前に巨大な階段状になったステージ。更にその前に四角の広大なオープンスペースがあり、そのオープンスペースを三方から囲むように階段状の客席が作られている。1000席くらいあるだろうか。階段ステージの両側には、合唱隊(choir)と楽士がコスチュームを着て着席している。客席の上には張り出し屋根があるが、中央のステージエリアにはなく、雨が降れば俳優は濡れる。
観客層は見たところ、圧倒的に老人が多かったが、特にマチネではその傾向が顕著だった。また男女比では女性が多め。また、非白人はほとんど皆無で、千人程度入る劇場を目を凝らして見つめても、5人にも満たない程度と思われる。多民族社会となりつつあるイギリスとしては、これで良いのかやや疑問に感じた。
17日の夜の部では、正面の席はほぼ埋まっていたが、左右の席は半分くらい空席だった。18日のマチネは全席ほぼ満席。
では、最初から順に気づいたことをメモしておく。
第1幕(Act 1)
「天地創造、天使の創造と堕落」
特に予告するものもなく、俳優がひとり出て来てステージ・エリア手前の中央にしゃがみ込むが、これが神。ステージに絵や字を書き始める。やがて、Ego sum alpha et omega . . . .と台詞を言い始める。台詞はマイクをとおして言われている。モダン・ドレス。やがて、7つの階位の天使達(the nine orders of angels)が登場。色鮮やかなコスチュームを着て、合唱隊の歌に合わせて踊り始める。サタンを除き、皆女優のようだ。
ステージの左上に金属の塔のようなものが現れる(前回のポストに写真有り)。その先端は円形で、やがてそこから炎が出てくるので、太陽を表しているのかなと思った。
最初から神とサタンは全く同じ服(薄茶のチェスター・コートに朱色のスカーフ)を着て向き合う。サタンは大きな杯を抱えているが、これは何を表すのだろう。
ステージの一部がトラップ・ドアとして開き、煙が出てくる。サタンがその穴に落ちる。又、天使のうち、サタンに従っていた何人かが他の天使により、その穴に無理矢理投げ込まれる。ステージが所々開き、サタンや堕天使が顔を出し、苦悩の叫びを上げる。地獄のトラップ・ドアーから上半身を出したサタンや他の堕天使達は、体に縄を巻き付けられている。
竿の先に付けた大きな風船が幾つも運び込まれるが、これらは星を意味しているのだろう。
(このあたり、コンスタントに音楽と合唱が響き、音楽劇といった感じである)
木の葉で創られた様々な動物の人形(18あった)が手押し車に載せられて運び込まれる。果物が実っており、果樹園としてのエデンの園。
「人間の創造と堕罪」
アダムとイブは小学生の男女。ステージの左上に知恵の木。アダムとイブはエデンの園の果樹の間で無邪気に遊んでいる。サタンが庭師のようなエプロンをつけて出て来て、イブに近づく。まるで、悪いおじさんが無垢な子供を騙すかのようなシーン。サタンがイブを導き、脚立に乗せて知恵の木の実を取るように仕組む。このシーンでは煙が漂うが、地獄の煙が地上に達したのだろう。この時点でサタンは地獄に戻る。イブ(アダムより年長でより大きな女の子が演じる)が、小さなアダムに実を食べさせる(上級生のお姉さんに命じられたことをした下級生、という感じ)。その途端に2人はステージ下に消え失せ、代わりに大人の若人のアダムとイブが登場。つまり、性欲とか思春期というものは堕罪の結果として生まれると言う事か。アダムとイブは、子供も大人もずっと着衣している。但、この時点で、大人のアダムとイブは、裸身を恥じるかのように台詞に合わせてコートを着用。
神の命を受けた天使により、2人は地上(the middle earth)に追われる。その時、失望に沈んだ神は2人に背を向けて廃墟の壁に寄りかかっている。動物の形をした果樹が次々と運び出される(エデンの園の喪失)。9組の男女のカップルと1人の子供が登場して神の声を聞き、ひざまずく。アダムとイブの子孫だろう。その後、何十人もの人々がステージを埋め尽くす。人類が増えて地上を埋めたのだろう。この上演ではアベルの殺害のエピソードは含まれない。しかし、この時銃声が響き、1人が殺される。これはアベルの殺害を意味しているのか?
「ノアの方舟と洪水」
ノアを含めて7人の家族の登場。雨音がして、彼らはレインコートを着る。様々の形をしたかなり大きな木の箱(滑車つき)が幾つか運び込まれ、それらを組み合わせることによって方舟が出来ていく。続いて、その方舟に様々の荷物が運び込まれる。その後、お馴染みのノアの妻のエピソードがある。つまり妻が方舟に乗るのを嫌がり、ノアと喧嘩した後、息子にたずさわれて何とか方舟に乗せられる。神が船に寄りかかって、そうした様子をずっと見守っている。
洪水が来て、逃げ遅れた数十人の人々が方舟を取り囲み傘を差す。その傘が波のようになって(上手い使い方!)、傘の海の中を方舟は流されていく。方舟が流されていく様子を、神と天使達はステージの上段でじっと見守る。やがてノア達は長い棒の先にカラスを付けて(黒い洋凧のようだ)放つが戻ってこない。次に同様に棒の先につけた白い鳩を放すと、オリーブの枝を加えて戻ってくる。
水が引き、ノアの一家が方舟から下りる。溺死した子供が地面に横たわっており、ノアの息子達がその子達を抱えて出て行くのは、原作にない面白い工夫。神がステージ横に座り、一家の様子を凝視している。七色の服を纏った天使達が、洪水の後の虹のようだ。その後、楽隊と一緒に沢山の人々が出て来て、方舟の部品となっていた箱を運び出す。その群衆の中には、杖をついた(演技ではない)身体障害者も混じっている。
兵隊の姿をした人々が銃を構え戦争を始める。サタンが兵隊に何かささやいている。死体が横たわる。銃火を逃れた難民がステージを右往左往する。その中で、男達が女達と、兵隊によって分けられて連れ去られる。その後、銃声が鳴り響く。そうした兵隊の背後にサタンがじっと立って見つめている。このあたりは、人々のやや古めかしい(1930-50年代頃)衣装から、明らかに第2次世界大戦を観客に思い起こさせる。民間人の移送や殺害を見ると、ユダヤ人の迫害と強制収容所への移送を思い起こさざるを得ない。
「受胎告知(The Annunciation)」
ステージの一部が開き、その下が水槽になっていて水が溜められており、13人の女性が横一列に並んで、血に汚れた布の洗濯をしている。そのうちの一人がマリアであることが分かる。女性達の洗濯していた布がやがて真っ白になっている。
神が出て来て息子を地上へ送ると言い、天使がマリアに神の子を宿ると告げる。
歳を取ったヨセフが登場。何故自分の妻が妊娠したのかと、疑い怒るヨセフ。背景に天使達がずっと立っていて、物言わぬコーラスのよう。ヨセフはマリアを荷車に乗せてベツレヘムへ向かう。子供を含む2,30人の人々が出て来て、マリア夫婦を囲む。ベツレヘムは賑わっていて、宿が見つからない。
「キリストの誕生」
キリストの出産は、マリアがお腹のまわりに巻いた布をほどき、赤子の人形を取り出すことで示す。その頃、ヨセフは薪を取りに出かけている。
1人の天使が竿の先につけた星を運んでいき、マリアと赤子のキリストの直ぐそばに立つ
3人の羊飼いが登場。二人は女優が演じている。彼らの背後には8人の天使。羊飼いを囲んで踊り、歌う。
「ヘロデ大王と東方の三博士の来訪」
東方の三博士が登場。先端に星をつけた長い棒を持った天使が出て来て、それが博士達を導くことになっている。赤い帯状の絨毯が敷かれ、その上をヘロデ大王が歩いて登場し、スピーチ。ヘロデの側には妃がいて、台詞もある。博士達のうち2人は女優が演じている。博士とヘロデが会見。こうしたことが行われている間も、ステージの真ん中には常に赤子イエスを抱いたマリアと彼女に寄り添うヨセフが座っている。ヘロデの廷臣の一人はサタン。星を持つ天使に導かれて三博士はマリアとキリストのところへおもむく(背景にはずっと一団の天使達がいる)。
ヘロデは使者にとても厳しく当たり、ほとんど殺しそうになる。サタンはヘロデの妻を通して、大王に邪悪な入れ知恵をしているように見える。ヘロデは兵士達に嬰児虐殺の命令を下す。
天使に促されて、ヨセフとマリアはエジプトに逃れる。入れ違いにたいまつを持ち、黒いマントを着た男達が登場して赤子殺しを行う。サタンがその男達の中に立っている。赤子を抱いた16人の女性達が嘆き悲しんでいる。女性達がステージの下に(トラップドアーを通って)消えていく。しかし、ステージのトラップ・ドアーが何度も開き、赤子を抱いた女性達が泣きながら顔を出す。女達の間をヨセフの引く荷車に乗ったマリアがステージを横切る。ステージ上段では天使達が見守っている。
(ここでインターバル、夜の部の場合、インターバルの頃には、暗くなっていて、背景に照らされる聖マリア修道院の壁が美しい。)
第2幕(Act 2)
「イエスの説教と洗礼」
数十人の人々がステージを埋め尽くす。背景には依然天使達。12歳ののイエスを演じるのは中学生くらいの少年。彼が人々に話しかける。サタンがイエスの死を予言。
洗礼者ヨハネが人々を洗礼している。そこに集まった人々の中にもサタンの姿。マリアもいるが、この時点では、前半とは違う年長の女優が演じている。また、大人になったイエスが出て来てヨハネの洗礼を受ける。俳優は子供でなく、旧約聖書の部分で出て来た神を演じる俳優に代わっている。
「荒野でのイエスの試練」
サタンがスピーチ。イエスを背後から蹴飛ばす。イエスとサタンの行き詰まる対決。イエスが再びサタンを地獄に追いやる(ステージが開き、サタンが下に降りていく。)
「姦淫で捕まった女」(A Woman Taken in Adultery)
数十人の男女がひとりの女性を民衆裁判のようにして裁く。しかし、イエスの言葉で彼らはたちまち敵意を失い、退場していく。背景には天使達。
イエスを12人の使徒が囲む。イエスや他の使徒達から少し離れてユダらしき人物がいる。
「エルサレム入場」
数十人の人々が出て来てイエスを歓迎。盲目の人の目が開かれ、人々が歓声を上げる。次に足の立たなかった人が歩き始める。(群衆から少し離れて、サタンと彼の手下達が立っている。これらの手下達も悪魔か?、ダークスーツを着た女性達が演じる。)キリストの起こす奇跡をカヤパ、アンナス、彼らの兵隊達、サタンと彼の部下達が見つめる。ユダもじっと不満げに見ている。
「陰謀」
このシーンは、原作の劇と比較するととても短い。
「最後の晩餐」
イエスが13人の使徒達の足を洗っている(ユダも居る)。その後、最後の晩餐。そしてユダがサタンに導かれて退場。ここにもマリアが居る。
「イエスの逮捕」
このシーンでは何十人もの人々が後ろで見守っている。更にサタンがその後ろで見守る。
「ピラトと彼の妻、イエスの裁判」
法廷の役人(beadle)は女優。ピラトの宮廷の衛兵は紫のベレー帽。一方アンナスの手下と、カヤパの手下は、グレーか黒のベレー、と言う風に衣装で区別している(私には、どちらが、アンナスでカヤパかが分からない)。原作のヨーク劇では、兵隊の人数は4人程度で、誰の所属なのか良く分からないが、この劇では、沢山のキャストを使っているので、このような所属の区別が可能になったのだろう。
ピラトの妻にサタンが現れる。
イエスがピラトの前に連れてこられる。カヤパとアンナスがイエスを告発(この二人の区別がつかない)。サタンは兵隊の間で裁判の様子を見守っている。ユダがやって来て、貰った金を突き返す。彼はイエスに声をかけて出ていく。
イエスの拷問は、鞭で地面を叩き、その間に側に座っているイエスがうめく、と言うスタイルで、リアリティーに乏しい。子供も含む広い観客に、あまり強い刺激を与えないようにと言う配慮か。初期のミステリー・プレイの上演(1950年代)では、同様に、暴力描写を排除する配慮がされていた。
イエスを連行するのは紫色のベレーを被った男女であり、つまりピラト配下の兵士である。しかし、十字架を運び込む時の兵隊は、紫、黒、グレーの帽子を被っていて、ピラト、アンナス、カヤパの兵みなが協力して磔刑を行うことを示唆しているようだ。
多くの人々がステージを埋め尽くし、人民裁判の様相を呈す。人々が大声でイエスの処刑を要求。カヤパとアンナスが人々を先導して「処刑せよ」("Crucify")と叫ばせ、ピラトに圧力をかける。ピラトの直ぐそばにはずっとサタンが立っている。
「イエスの磔刑」
キリストの手足に釘を打ち込むシーンは子供にはかなり刺激が強かったようで、私の席のまわりにも、叫び声を上げたり、耳を押さえたりする子がいた。
ステージの左右に2本の十字架。それとは別に、イエスの十字架が客席に近い位置に立てられる。キリストは、"King of the Jews"という札を首にかけられている。彼は正面の客席に背を向けるような位置で十字架につけられる。従って、磔刑の観客に与える衝撃は席によって大きく違うと思う。私の場合、2日目に見た時にはキリストの顔が見える位置で、より大きな説得力を感じた。4人の兵士がキリストのマントを籤で取り合う。これらの兵隊は紫のベレーを被っている(ピラトの兵)。キリストは泣きながら十字架の上にいる。マリアが十字架のキリストに向き合って立ち、息子に語りかける(以前に出て来た、イエスを生んだ頃のマリアとは別の女優。もっと年齢が上)。マリアを多くの観客に見て欲しいという意図がうかがえる演出。キリストの最後の叫びは、全力の叫びで、とても感情的なキリストの死の描き方だ。
2人の兵隊がペンキの入ったバケツと刷毛の付いた長い棒を持ってキリストに近づき、屍の手首と脇腹に赤い印(つまり傷)をつける。兵隊が2人の泥棒の遺骸を降ろす。一方、8人ぐらいの信奉者が(ニコデモやアリマタヤのヨセフなどであろう)、梯子や脚立を十字架に立てかけてイエスの遺骸を降ろす。
ステージ上方の階段部分の一部が開き、彼の墓所となる。そこに遺骸が入れられる。
「地獄の解放」
このシーンはとてもドラマチックだ。数十人の人々がステージに現れ、長い鉄棒を持って地獄の牢獄に閉じ込められた人間の魂を表現する。イエスがやってきて、サタンと対話。天使が降りてきて悪魔達を捕まえると、人間の魂は解放される。牢獄の格子を表していた鉄の棒が大きな音を立てて一気に地面に倒される。悪魔は地下へ降りていく。魂達は階段ステージを上っていって、背景の後ろに消える。その後イエスは墓所に戻る。
百人隊長(the Centurion)がピラトの前に現れて、彼は間違ったことをしたと言う(夜の部では、このあたりでかなり雨が降り始めた)。この場面では、ピラト、ピラトの妻、カヤパ、アンナス、そしてそれぞれの部下である大勢の兵士達が出ている。
「キリストの昇天」
キリストはステージ上方の段を上がって行く。ここで、左側に立っている円形の塔に火がともる。キリストが上段に登り詰めたところで最後の審判の場面に変わる。
「最後の審判」
ここでは多くの人々が出るのではなく、善人1人、悪人1人で人類を代表させ、神が彼ら2人に話しかける。しかしその後、ステージ全体を人々が埋め尽くす。そしてフィナーレ、カーテンコールへと移る。このシーンでは、人類全てが裁判にかけられ、その多くは地獄に堕ちて2度と上がってこられないという元来の厳しいメッセージは薄められてしまい、何だがハッピーエンドになってしまっており、物足りない。
(全体を通しての感想)
ミステリー・プレイの上演が多くなった。私も、近年では、去年の8月にロンドンのグローブ座でミステリー・プレイを、そして一昨年2010年にはヨークの街頭で行われたワゴン形式の劇を見ている。グローブ座のミステリーは、良く知られたTony Harrisonの台本を元に、今回の上演のように全体を一本の劇にまとめたものだったが、今回のものよりももう少し短く、ダイジェスト版という印象をぬぐえなかった。今回のものも、物足りないエピソードもあるが、全体がスムーズに一本の作品に纏められていて、駆け足すぎて物足りないという印象はほとんどない。全体が、神(キリスト)とサタン、善と悪、の二極のせめぎ合いという、一貫したメッセージで統一されており、この2人のキャラクターが常にステージのどこかに居たと言っても良く、そうしたドラマとしての統一性が、散漫になるのを防いでいた。
もちろん、十字架状のキリストなど、モノローグで観客を引きつける聴かせどころもあるが、主としては群像劇。数十人のアンサンブルを自在に操り、視覚と聴覚(歌と音楽)に訴える手法が効果的であり、コミュニティー・ドラマとしての長所を充分に発揮した。可愛らしい小学生達、お年寄り達、杖をついた障害者、演劇好きの若者達、そうした色々な老若男女を巻き込んで、ヨーク市の市民達が手作りしたという感覚が自然に伝わってきた。素人の役者の一生懸命さ、素直な表情が、この劇に限っては、グローブ座で見たようなプロの役者の演技を凌駕した。1951年以降ヨーク市で繰り返し上演されてきたこのヨーク・ミステリー・プレイは、時として、殊更に民衆的にすること、ワーキング・クラスの演劇であることが強調されることもあったようだ。しかし、今回はそのようなことはなく、市民を多く巻き込んで、ごく自然に市民の劇となっている。
コスチュームは現代服だが、1930〜50年代の服であり、また、ナチスを思わせる軍服など、20世紀中頃の、この世界の動乱の跡を色濃く映し出している。戦場を逃げ惑う難民、子供や市民の虐殺、そして勇気ある指導者キリストの裁判と処刑、こうした事件は特定の歴史的事件に機械的に当てはめることは出来ないが、大きくは最近の歴史において我々がたどってきた道を追っていると言えるだろう。
コーラスと生演奏、そして特に夜の公演において廃墟の壁を照らす印象的な照明、天使の七色の衣装、等々、目と耳に訴える点で素晴らしい。台詞はマイクを通じてであるが、これは大きな野外劇場なので仕方ないだろう。更に背景にそびえ立つ巨大な聖マリア修道院の廃墟の壁がどんな立派なセットよりも印象的だった。音楽や視覚効果の重視、群衆劇であり、最近の歴史を踏まえた分かりやすいスペクタクルというような点で、『レ・ミゼラブル』のような大衆的ミュージカルとの共通性が大きいと感じた。
こうして書いてきたように、私はこの上演に何も文句を付けることはない。しかしその上で、私としてはなおも2010年に見たようなワゴン形式の上演のほうが、原作のテキストの特徴を良く伝えていて、好みではある。また、今回の上演のように、どのエピソードでも神とサタン、善と悪の争いを強調するのは、ヨーク・サイクルの原作からは大分外れていると言えないだろうか。中世のヨーク劇上演同様に、色々な団体がそれぞれのパジェントを独立して上演する場合、バラエティーがあって飽きない。その一方で、統一性に欠けるために起こる弊害も幾つかある。特に、キリストやピラト、マリアなど、複数のパジェントで繰り返し登場する重要なキャラクターを別々の俳優がやるとかなり違和感がある。同じ受難シーンの間にキリストが若返ったり年とったり、ひげがあったり無かったりすることになる。今回の上演では、一本の劇に書き直すことで、パジェントのバラエティーの面白さが無くなる代わりに、そうしたばらつきから生じる違和感は解消された。更にそれだけでなく、創世記やノアの洪水における旧約聖書の父なる神と、受難劇のキリストをFerdiand Kingsley(1988年生まれ)という24歳くらいの比較的若い同一の俳優が演じることで、「人間でもある神」のイメージが全体を通して一貫して感じられたのは大きな特徴だろう。(なお、この俳優は名優Ben Kingsleyの息子である。)この統一感は、サタンについても顕著。ワゴン形式で見ると、色々なところで見る悪魔は、ひとつの存在とは意識しにくいし、そもそも、ひとつの悪魔であるか疑問でもある。創世記で他の堕天使を率いて地獄に堕ちるのはヨーク劇の原作ではルシファーであるが、ピラトの妻の夢に現れるのはそうか?テキストでは"Diabolus" としか指定されていないようだ。「地獄の解放」の原作テキストではサタンとかベルゼブブといった悪魔が出てくるが、ルシファーは指定されていない。そして「最後の審判」では、再び"Diabolus I, II, III"と指定されるのみ。これら、統一のない悪魔のリーダーを、一貫してサタンとし、Graeme Hawleyという同じ俳優が演じることで、悪の根源としてのサタン、人でもある神の対立者として人間を誘惑し続けるサタンとしてのキャラクターがはっきりしている。このようにテキストを離れて単純化する事の是非には議論があろうが、分かりやすく、印象的な悪の具体化となっている。
ともあれ、満ち足りた気持ちで劇場を後にした2日間だった。一緒に見た他の観客達の表情も満足感に満ちていたと思う。
2012/09/11
York Mystery Plays 2012:野外劇場の様子
今年8月17〜18日にヨークで見てきたミステリー・プレイの劇場の写真です。今回は街頭での上演ではありませんので、上映中の撮影は当然ながら出来ません。劇の始まる前とインターミッションの間に撮影しました。ほとんどは説明不要の写真です。最初の日、17日は夜の部でした。開演前の様子:
舞台の両袖には合唱隊と楽士達が陣取ります。彼らも俳優に合わせたコスチュームを着けています:
この金属の塔のようなものが天地創造の場面で舞台の左に出て来ます。先端は球の形で、そこから炎の出ることがあり、太陽を表すのかなと思います:
次はインターミッションの間に取った写真。 背景の廃墟の壁が美しい。
これ以降は18日の昼間の写真。18日はマチネを見ました。この葉っぱで出来た動物のような人形が沢山エデンの園に置かれます:
建物はヨーク博物館です。手前のテントが劇場の入り口:
2012/08/19
ヨーク・ミステリー・プレイ:全体の印象(2012.8.17 & 18)
"York Mystery Plays 2012"
2012. 8. 17 19:30-23:00 (including a 25 min interval)
2012. 8. 18 14:30-18:00 (including a 25 min interval)
York Museum Gardens
8月17日の夜の部と、18日のマチネのヨーク・ミステリー・プレイを見に、1泊でヨークに出かけた。沢山ノートを取ったので、時間があればまた詳しく書きたいと思うが、とりあえずは全体の印象をメモしておきたい。
2010年夏にもヨーク・ミステリー・プレイをヨークの街頭で見ているが(そのときの記録はこちら)、その時はワゴン上の上演。今回はヨーク・ミュージアムの庭に設けられた特設の野外ステージでの上演。多くの細かな劇を約3時間強のひとつの劇にまとめた脚本による上演。したがって、テキストへの忠実さには欠けるが、一貫性があり、非常にドラマチックな作品に仕上がっていた。観客席は1000席くらいあっただろうか。背景は聖マリア修道院の廃墟の壁であり、非常に美しい。特に夜の部では、廃墟の壁がライトに照らし出されて、実に壮麗な雰囲気をかもし出した。野外で、しかもステージも大きいので、声はマイクで拾っていた。
コスチュームは現代服(但し、Tシャツとかジーンズなどポップなものは無くて、やや古めかしく、戦前の庶民のスタンダードな服と言う印象を受けた)。善と悪、キリストとルシファーの対立を、劇の全体を通じて強調した上演だった。台詞のないシーンでも、この2人を演じる俳優がほとんど背景に居て、演技する人々を見守ったり、誰かにこっそりと耳打ちをしていて、人類の様々な善悪の行為の背後には、常に神かルシファーが居ることを観客に知らせていた。ワゴン形式での上演がそれぞれの短い劇のバラエティーで楽しませてくれるのに対し、こちらは統一された人類史のビジョンを示した。
磔刑のシーンは比較的短く、また原作に比べてそれほど残酷さを強調していなかったが、それでも子供達の中には、悲鳴を上げたり、耳をふさいだりする子もいた。キリストの演技は、非常に感情に訴える、エモーショナルなもので、観客の感動をかきたてた。こういう劇のインパクトはテキストではなかなか想像できず、見てみないと分からないと実感。
30人くらいの人がステージを埋め尽くすような群集シーンがとても多い。キリストの裁判のシーンも、一種の民衆裁判であり、キリストを死に追いやるのは民衆の声だということがはっきり分かる。最後の審判の後は、すべての演技者(50人くらいか)がステージを埋め尽くして神の声を聞き、そして、翻って観客に向き合って私たちを見つめて、全体の劇が終わる。キリストを死に追いやり、そして彼の再生に立会い、更にやがて最後の審判を受けるのも、私たち観客自身である、と言うかのようだ。オーバーマガウの受難劇もそうらしいが、コミュニティーの老若男女の人々が沢山参加していることが実感された。観客と劇を演じるコミュニティーの人々が一体となり、今の我々の生き方を直接問いかける、普遍的な広がりのあるドラマとなったと思う。
イギリスに来ると、ニュースを見ても、新聞を読んでも、人権とか、広い意味でのモラルに関することが日本よりずっと多いと感じる。ナショナル・シアターなどでの現代劇で取り上げられるテーマも同様だ。ヨーク・ミステリー・プレイで表現された善と悪、神とルシファーの対立は、キリスト教徒であるかないかに関わらず、多くのイギリス人の心理の琴線に触れるものかもしれないと思いつつ見た。
ヨーク・ミステリー・プレイのテキストを読み、学んでいる者として、強いて言えば、原作に忠実なワゴン・プレイ方式のほうが好みではあるが、今回のような上演も是非見たいと思っていたので、この夏見られて大変幸せだったし、素晴らしい上演だったと思う。
2012. 8. 17 19:30-23:00 (including a 25 min interval)
2012. 8. 18 14:30-18:00 (including a 25 min interval)
York Museum Gardens
8月17日の夜の部と、18日のマチネのヨーク・ミステリー・プレイを見に、1泊でヨークに出かけた。沢山ノートを取ったので、時間があればまた詳しく書きたいと思うが、とりあえずは全体の印象をメモしておきたい。
2010年夏にもヨーク・ミステリー・プレイをヨークの街頭で見ているが(そのときの記録はこちら)、その時はワゴン上の上演。今回はヨーク・ミュージアムの庭に設けられた特設の野外ステージでの上演。多くの細かな劇を約3時間強のひとつの劇にまとめた脚本による上演。したがって、テキストへの忠実さには欠けるが、一貫性があり、非常にドラマチックな作品に仕上がっていた。観客席は1000席くらいあっただろうか。背景は聖マリア修道院の廃墟の壁であり、非常に美しい。特に夜の部では、廃墟の壁がライトに照らし出されて、実に壮麗な雰囲気をかもし出した。野外で、しかもステージも大きいので、声はマイクで拾っていた。
コスチュームは現代服(但し、Tシャツとかジーンズなどポップなものは無くて、やや古めかしく、戦前の庶民のスタンダードな服と言う印象を受けた)。善と悪、キリストとルシファーの対立を、劇の全体を通じて強調した上演だった。台詞のないシーンでも、この2人を演じる俳優がほとんど背景に居て、演技する人々を見守ったり、誰かにこっそりと耳打ちをしていて、人類の様々な善悪の行為の背後には、常に神かルシファーが居ることを観客に知らせていた。ワゴン形式での上演がそれぞれの短い劇のバラエティーで楽しませてくれるのに対し、こちらは統一された人類史のビジョンを示した。
磔刑のシーンは比較的短く、また原作に比べてそれほど残酷さを強調していなかったが、それでも子供達の中には、悲鳴を上げたり、耳をふさいだりする子もいた。キリストの演技は、非常に感情に訴える、エモーショナルなもので、観客の感動をかきたてた。こういう劇のインパクトはテキストではなかなか想像できず、見てみないと分からないと実感。
30人くらいの人がステージを埋め尽くすような群集シーンがとても多い。キリストの裁判のシーンも、一種の民衆裁判であり、キリストを死に追いやるのは民衆の声だということがはっきり分かる。最後の審判の後は、すべての演技者(50人くらいか)がステージを埋め尽くして神の声を聞き、そして、翻って観客に向き合って私たちを見つめて、全体の劇が終わる。キリストを死に追いやり、そして彼の再生に立会い、更にやがて最後の審判を受けるのも、私たち観客自身である、と言うかのようだ。オーバーマガウの受難劇もそうらしいが、コミュニティーの老若男女の人々が沢山参加していることが実感された。観客と劇を演じるコミュニティーの人々が一体となり、今の我々の生き方を直接問いかける、普遍的な広がりのあるドラマとなったと思う。
イギリスに来ると、ニュースを見ても、新聞を読んでも、人権とか、広い意味でのモラルに関することが日本よりずっと多いと感じる。ナショナル・シアターなどでの現代劇で取り上げられるテーマも同様だ。ヨーク・ミステリー・プレイで表現された善と悪、神とルシファーの対立は、キリスト教徒であるかないかに関わらず、多くのイギリス人の心理の琴線に触れるものかもしれないと思いつつ見た。
ヨーク・ミステリー・プレイのテキストを読み、学んでいる者として、強いて言えば、原作に忠実なワゴン・プレイ方式のほうが好みではあるが、今回のような上演も是非見たいと思っていたので、この夏見られて大変幸せだったし、素晴らしい上演だったと思う。
2012/07/20
学部の指導教授を思い出す季節
この季節になると学部時代の卒論の指導教授で、亡くなられたN先生を思い出す。卒業後はいつも真夏に会いに行っていたから、夏が来ると先生を思い出すようになった。暑い日は日に何度も行水します、と言われていた。E M フォースターとアイルランドの小説家ジョージ・ムーアの専門家だった。とても心優しい先生だったが、コミュニケーションが下手で、学内でも変わり者と言う事になっていたと思う。授業は、失礼ながら退屈だった気がする。小説も書き、退職されてからもずっと創作を続けて、同人誌になどに発表されていたようだ。
先生は数年会わないうちに施設に入られ、亡くなられていた。成年後見人に指定された弁護士さんが私の年賀状を見て知らせて下さった。私がもの凄く忙しかった頃とは言え、申し訳なく、大変後悔が残る。自宅に度々お邪魔しただけでなく、チケットの高価な演劇に招待して下さるなど、ご夫婦でとても親切にしていただいたのに。
学問上は大学院やイギリスで教わった先生方の影響が大きいが、学部の先生方に受けた影響は、知識では測れない大きさ。N先生は、真面目で、内向的で、人付き会いが下手。二人で座っていても、話題を見つけるのに一苦労だった。大学では変人扱いされていたようで、同僚だった先生から、「変わった方」という評をうかがったが、私には本当に親切な先生で、話は面白くないけど、内面の優しさが自然とにじみ出る方だった。考えてみると、恩師でも同僚でも、N先生のような極めて不器用な方には一度も裏切られたという記憶がない。N先生はいつも驚くほど変わらなかった。今考えると私は不器用なところだけは先生にかなり似ている。学会ではおそらくほとんど無名だったと思うが、それでも、ちゃんと単著で研究書を2冊書かれているところは、私よりずっと偉い。
奥様に先立たれ、お子さんも早く亡くされたので、今は彼の事を思い出す人は少ないかも知れない。でも私にとっては大変大きな想い出を残して下さった。夏が来ると、しきりに汗を拭いていた彼の姿がなつかしい。
先生は数年会わないうちに施設に入られ、亡くなられていた。成年後見人に指定された弁護士さんが私の年賀状を見て知らせて下さった。私がもの凄く忙しかった頃とは言え、申し訳なく、大変後悔が残る。自宅に度々お邪魔しただけでなく、チケットの高価な演劇に招待して下さるなど、ご夫婦でとても親切にしていただいたのに。
学問上は大学院やイギリスで教わった先生方の影響が大きいが、学部の先生方に受けた影響は、知識では測れない大きさ。N先生は、真面目で、内向的で、人付き会いが下手。二人で座っていても、話題を見つけるのに一苦労だった。大学では変人扱いされていたようで、同僚だった先生から、「変わった方」という評をうかがったが、私には本当に親切な先生で、話は面白くないけど、内面の優しさが自然とにじみ出る方だった。考えてみると、恩師でも同僚でも、N先生のような極めて不器用な方には一度も裏切られたという記憶がない。N先生はいつも驚くほど変わらなかった。今考えると私は不器用なところだけは先生にかなり似ている。学会ではおそらくほとんど無名だったと思うが、それでも、ちゃんと単著で研究書を2冊書かれているところは、私よりずっと偉い。
奥様に先立たれ、お子さんも早く亡くされたので、今は彼の事を思い出す人は少ないかも知れない。でも私にとっては大変大きな想い出を残して下さった。夏が来ると、しきりに汗を拭いていた彼の姿がなつかしい。
2012/07/16
ハロルド・ピンター『温室』(新国立劇場、2012.7.15)
『温室』(The Hothouse)
新国立劇場公演
観劇日: 2012.7.15 13:00-14:50 (no interval)
劇場: 新国立劇場小劇場(The Pit)
演出: 深津篤史
原作: ハロルド・ピンター (Harold Pinter)
美術: 池田ともゆき
衣装: 半田悦子
照明: 小笠原純
音響: 上田好生
出演:
ルート(所長):段田安則
ギブズ(専門職員):高橋一生
ラム(職員):橋本淳
ミス・カッツ(職員):小島聖
ラッシュ(職員):山中崇
タブ: 原金太郎
ロブ(前所長):半海一晃
☆☆☆☆/ 5
チラシやパンフレットにある紹介文から:
「病院と思われる国営収容施設。クリスマス。患者「6457号」が死に、「6459号」が出産したという、部下ギブスからの報告に、驚き怒る施設の最高責任者のルートは、秩序が何よりも重要だと主張し、妊娠させた犯人を捜し出せと命令するが、事態は奇妙な方向へと動き出していく・・・・。」
ハロルド・ピンター、有名な作家でありながら、私はDonmarで一度だけ見たのみ。それも"Moonlight"というそれ程有名ではない作品。"Homecoming"とか、"Birthday Party"という様な文学史の本に載るような作品は読んだことはあっても見ていない(中味は忘れた・・・)。それで今回これを見られたのは幸運だった。とは言ってもお金の無い私は、最近劇の切符は諦めているので、自分で買った切符ではない。この切符は妻が使うはずだったのであるが、彼女が急な日曜出勤で行けなくなり、私がピンチヒッターで譲り受けたのでした!ありがとう、と言うべきか、お気の毒、というべきか・・・。
パンフレットの大笹吉雄さんの解説によると、ピンターがこの劇を書き終えたのは1958年。但その時は彼自身、気に入らず、初演は1980年になってからとのことだ。オズボーンの『怒りを込めてふり返れ』が1956年。ウェスカーの『大麦入りのチキンスープ』が1958年。そういうイギリス演劇が地殻変動した時代に書かれた作品。また1956年にはハンガリー動乱が起こり、西欧知識人にとって、ソビエト連邦の非人間的な全体主義体制が明白になっていたはず。(一時代前の?)精神病院の恐ろしさも感じさせる。Ken Keseyの'One Flew Over the Cuckoo's Nest' (1962)とこの作品は直接関係は無いだろうが、思い出させた。しかし、私にはそうした作品以上に、オーウェルの『1984』(1949)と、カフカの『審判』を連想させた。
舞台は、小劇場の真ん中にステージを置き、両側から観客席で挟むようなデザイン。ステージは回り舞台となっていて、時にはゆっくりと、しかし時には急速に、常時回転し続けている。劇場中ほとんど黒一色で、ただ机、椅子、ソファーなどが真っ赤。印象的な舞台ではある。しかし、常時動き続ける舞台のおかげで台詞への集中を妨げられたという人もいるだろう。どういう意図なのか、私には分からない。但、回っている部分は、縁取りはないが円形なので、観客がぐるっと舞台を囲んではいないが、半ば円形劇場とも言える。黒と赤の2色にそぎ落とされた抽象的なステージと相まって、中世劇的な雰囲気が自然と浮き上がった。
イギリス演劇は、作者が意図するしないに関わらず、近現代演劇でも、中世の寓意的なモラリティー・プレイの世界を感じさせる作品が多い。前述の、ピンターの"Moonlight"もかなりそうだった。中世劇風に、ルートは暴君 (Tyrant)、ミス・カッツは色欲、ラッシュは道化、ギブスは廷臣、と、適当に当てはめられるかもしれない。もちろん、そう簡単にぴったりした寓意とか役割が当てはめられる訳はない。むしろ、寓意が良く分からず、キャラクターの意味がスライドしていき、はっきりしないところが、高度に中世的と言えるかも知れない。丁度、『農夫ビアズ』のように。
最初、所長のルートが物忘れがひどく、おかしな事を言う一方で、ギブスがしつこい程もっともらしく丁寧なので、これはてっきりルートが狂人で、ギブスは助手を演じてはいるが実はルートの主治医だろうと思ったが、その後の展開はそうでもなかった・・・・。なるほど!と思わせてくれるほど分かりやすい劇ではなかった。
ラムに与えられる電気ショック。当時の(そして今も?)精神医療の暗黒部分を表していて恐ろしい。『1984』もそうだし、『時計仕掛けのオレンジ』、『カッコーの巣の上で』など、戦後、60年代初めくらいまで、外科的な精神医療に関連した文学作品、かなりありそうだ。テネシー・ウィリアムズの姉もこうした治療で廃人同然にされたと言われている。
ただ、ルートは勿論だが、登場する誰もかれも矮小で、小人物で、自己中心的で、事なかれ主義のようではある。そうした小さな人々が集まると、保身や組織防衛(秩序優先)の為に、とんでもない冷酷な結果を生むような状況を作り上げる。今大変な事件になっている大津の虐めや恐喝による中学生の自殺とか、フクシマ原発に関する電力会社や日本の政界のこととか、この劇を見ながら思わずにいられなかった。今の日本は、かなり『1984』だ。この作品の中世劇的な面は、即ち、時空を超える点でもあり、従って、日本人としての私は今の日本の事がつい思い出されるのも自然なんだろう。
ピンターは、ウエストエンドの劇場にハロルド・ピンター劇場という名前の劇場まで出来、取っつきにくい内容にも関わらず、イギリスではかなり人気がある。抑えた表現の裏に潜む暴力と極度の緊張感、そしてそれらの合間に顔を出す絶妙のユーモアがイギリスのインテリを引きつけるようだ。ただ彼は一方ではっきりした左翼で、保守党政権やアメリカのイラク、アフガニスタン侵攻を繰り返し厳しく非難していて、ピンター作品の好きな人でも彼の政治的主張に賛成できない人は多かっただろう。今回見た『温室』は彼のそうした政治的な面がかなりはっきり感じられる作品だと思った。政治を抜きにしてピンターは理解出来ないんだろうね。
俳優さん達は皆上手で申し分ない。特に高橋一生のいやらしいギブズが強い印象を残した。出ている俳優さん達、こういう劇をやれて幸せだな。役者が自分で色々と考えないと演じられない劇だ。きっと俳優として成長するに違いない。段田さんは、今以上成長しようがないかもしれないけど(^_^)。
National Theatre でもIan Rickson演出で2007年に公演したらしい。その時の予告編が今でもYou-tubeで見られる。
新国立劇場公演
観劇日: 2012.7.15 13:00-14:50 (no interval)
劇場: 新国立劇場小劇場(The Pit)
演出: 深津篤史
原作: ハロルド・ピンター (Harold Pinter)
美術: 池田ともゆき
衣装: 半田悦子
照明: 小笠原純
音響: 上田好生
出演:
ルート(所長):段田安則
ギブズ(専門職員):高橋一生
ラム(職員):橋本淳
ミス・カッツ(職員):小島聖
ラッシュ(職員):山中崇
タブ: 原金太郎
ロブ(前所長):半海一晃
☆☆☆☆/ 5
チラシやパンフレットにある紹介文から:
「病院と思われる国営収容施設。クリスマス。患者「6457号」が死に、「6459号」が出産したという、部下ギブスからの報告に、驚き怒る施設の最高責任者のルートは、秩序が何よりも重要だと主張し、妊娠させた犯人を捜し出せと命令するが、事態は奇妙な方向へと動き出していく・・・・。」
ハロルド・ピンター、有名な作家でありながら、私はDonmarで一度だけ見たのみ。それも"Moonlight"というそれ程有名ではない作品。"Homecoming"とか、"Birthday Party"という様な文学史の本に載るような作品は読んだことはあっても見ていない(中味は忘れた・・・)。それで今回これを見られたのは幸運だった。とは言ってもお金の無い私は、最近劇の切符は諦めているので、自分で買った切符ではない。この切符は妻が使うはずだったのであるが、彼女が急な日曜出勤で行けなくなり、私がピンチヒッターで譲り受けたのでした!ありがとう、と言うべきか、お気の毒、というべきか・・・。
パンフレットの大笹吉雄さんの解説によると、ピンターがこの劇を書き終えたのは1958年。但その時は彼自身、気に入らず、初演は1980年になってからとのことだ。オズボーンの『怒りを込めてふり返れ』が1956年。ウェスカーの『大麦入りのチキンスープ』が1958年。そういうイギリス演劇が地殻変動した時代に書かれた作品。また1956年にはハンガリー動乱が起こり、西欧知識人にとって、ソビエト連邦の非人間的な全体主義体制が明白になっていたはず。(一時代前の?)精神病院の恐ろしさも感じさせる。Ken Keseyの'One Flew Over the Cuckoo's Nest' (1962)とこの作品は直接関係は無いだろうが、思い出させた。しかし、私にはそうした作品以上に、オーウェルの『1984』(1949)と、カフカの『審判』を連想させた。
舞台は、小劇場の真ん中にステージを置き、両側から観客席で挟むようなデザイン。ステージは回り舞台となっていて、時にはゆっくりと、しかし時には急速に、常時回転し続けている。劇場中ほとんど黒一色で、ただ机、椅子、ソファーなどが真っ赤。印象的な舞台ではある。しかし、常時動き続ける舞台のおかげで台詞への集中を妨げられたという人もいるだろう。どういう意図なのか、私には分からない。但、回っている部分は、縁取りはないが円形なので、観客がぐるっと舞台を囲んではいないが、半ば円形劇場とも言える。黒と赤の2色にそぎ落とされた抽象的なステージと相まって、中世劇的な雰囲気が自然と浮き上がった。
イギリス演劇は、作者が意図するしないに関わらず、近現代演劇でも、中世の寓意的なモラリティー・プレイの世界を感じさせる作品が多い。前述の、ピンターの"Moonlight"もかなりそうだった。中世劇風に、ルートは暴君 (Tyrant)、ミス・カッツは色欲、ラッシュは道化、ギブスは廷臣、と、適当に当てはめられるかもしれない。もちろん、そう簡単にぴったりした寓意とか役割が当てはめられる訳はない。むしろ、寓意が良く分からず、キャラクターの意味がスライドしていき、はっきりしないところが、高度に中世的と言えるかも知れない。丁度、『農夫ビアズ』のように。
最初、所長のルートが物忘れがひどく、おかしな事を言う一方で、ギブスがしつこい程もっともらしく丁寧なので、これはてっきりルートが狂人で、ギブスは助手を演じてはいるが実はルートの主治医だろうと思ったが、その後の展開はそうでもなかった・・・・。なるほど!と思わせてくれるほど分かりやすい劇ではなかった。
ラムに与えられる電気ショック。当時の(そして今も?)精神医療の暗黒部分を表していて恐ろしい。『1984』もそうだし、『時計仕掛けのオレンジ』、『カッコーの巣の上で』など、戦後、60年代初めくらいまで、外科的な精神医療に関連した文学作品、かなりありそうだ。テネシー・ウィリアムズの姉もこうした治療で廃人同然にされたと言われている。
ただ、ルートは勿論だが、登場する誰もかれも矮小で、小人物で、自己中心的で、事なかれ主義のようではある。そうした小さな人々が集まると、保身や組織防衛(秩序優先)の為に、とんでもない冷酷な結果を生むような状況を作り上げる。今大変な事件になっている大津の虐めや恐喝による中学生の自殺とか、フクシマ原発に関する電力会社や日本の政界のこととか、この劇を見ながら思わずにいられなかった。今の日本は、かなり『1984』だ。この作品の中世劇的な面は、即ち、時空を超える点でもあり、従って、日本人としての私は今の日本の事がつい思い出されるのも自然なんだろう。
ピンターは、ウエストエンドの劇場にハロルド・ピンター劇場という名前の劇場まで出来、取っつきにくい内容にも関わらず、イギリスではかなり人気がある。抑えた表現の裏に潜む暴力と極度の緊張感、そしてそれらの合間に顔を出す絶妙のユーモアがイギリスのインテリを引きつけるようだ。ただ彼は一方ではっきりした左翼で、保守党政権やアメリカのイラク、アフガニスタン侵攻を繰り返し厳しく非難していて、ピンター作品の好きな人でも彼の政治的主張に賛成できない人は多かっただろう。今回見た『温室』は彼のそうした政治的な面がかなりはっきり感じられる作品だと思った。政治を抜きにしてピンターは理解出来ないんだろうね。
俳優さん達は皆上手で申し分ない。特に高橋一生のいやらしいギブズが強い印象を残した。出ている俳優さん達、こういう劇をやれて幸せだな。役者が自分で色々と考えないと演じられない劇だ。きっと俳優として成長するに違いない。段田さんは、今以上成長しようがないかもしれないけど(^_^)。
National Theatre でもIan Rickson演出で2007年に公演したらしい。その時の予告編が今でもYou-tubeで見られる。
2012/07/11
Inspector Rebusシリーズのクライム・ノベル、Ian Rankin, "The Falls"
Ian Rankin, "The Falls"
(2000; Minotaur Books, 2010) 467 pages.
☆☆☆ / 5
毎日寝る前、眠くなるまで数ページ、いや2、3ページの夜も多かったか、その位ゆっくり読んでいたので、もういつ読み始めたのかも思い出せないくらいだが、最後は結構息詰まる展開もあり、読み終わってみるとかなり面白かった。但、途中はかなりスローな展開というか、停滞した感じというか、読むのがとても遅い私には細かい字で467ページというミステリは長すぎ。
Rankinの刑事、John Rebusは、連合王国の刑事物の主人公としては、Ruth RendellのInspector Wexford、P. D. JamesのChief Inspector Adam Dalglieshと並ぶ、最も有名な刑事のひとりではないだろうか。この小説も、いつもながらの手練れの技で、Rankinを幾つか読んでいる人を失望させない。今回の事件は、金持ちの銀行家の一家、Balfour家の娘、Philippaの失踪で始まる。手がかりは乏しく、唯一奇妙な遺留品としては、小さなミニチュアの棺が現場近くで発見されたこと。ところが過去の未解決失踪事件や殺人事件でも同様の玩具のような棺が発見されていたことが分かり、Rebusは連続殺人事件ではないかとの疑いを抱く。もうひとつの手がかりは、Philippaのパソコンに送られていたQuizmasterという匿名の人物からのメール。このメールを追っていくとPhilippaは失踪する前にこのQuizmasterが作り上げたゲームに参加していたことが分かる。棺はRebusが、そしてQuizmasterのゲームはJohnの変わらぬ相棒、Siobhan Clarke刑事が追いかける。QuizmasterはPhilippaの失踪後も謎のメールを送り続け、ゲームのキーを与えて警察を挑発する。Siobhanは段々このゲームに深入りしていき、寝ても覚めてもゲームのことが頭から離れなくなってしまう。一方、Rebusは棺の由来を調べるためにスコットランド博物館の学芸員のJean Burchill博士の意見を聞くが、その縁で彼女と親しくなる。
この小説、警察関係者以外にあまり印象的な人物がいないのがやや不満と言えば言えるだろうか。Balfour家やその周辺の人々に、仮に悪役であってもあまり深みある個性が感じられない。しかし、警察内部の人間関係がかなり良く書き込まれていて、その点には興味を引かれた。特に上役のGill Templer、キャリア指向の強いEllen Wylie、そしてRebus的な一匹狼の生き方と、警察内での出世を目ざすTemplerやWylieのような生き方の間で迷うSiobhanの姿が面白い。
後に余韻が残る小説ではないが、読んでいる間はかなり楽しんだ。色々とエジンバラの地名が出て来るが、John Rebusシリーズを読んでからエジンバラを旅すると楽しいだろうな。
(2000; Minotaur Books, 2010) 467 pages.
☆☆☆ / 5
毎日寝る前、眠くなるまで数ページ、いや2、3ページの夜も多かったか、その位ゆっくり読んでいたので、もういつ読み始めたのかも思い出せないくらいだが、最後は結構息詰まる展開もあり、読み終わってみるとかなり面白かった。但、途中はかなりスローな展開というか、停滞した感じというか、読むのがとても遅い私には細かい字で467ページというミステリは長すぎ。
Rankinの刑事、John Rebusは、連合王国の刑事物の主人公としては、Ruth RendellのInspector Wexford、P. D. JamesのChief Inspector Adam Dalglieshと並ぶ、最も有名な刑事のひとりではないだろうか。この小説も、いつもながらの手練れの技で、Rankinを幾つか読んでいる人を失望させない。今回の事件は、金持ちの銀行家の一家、Balfour家の娘、Philippaの失踪で始まる。手がかりは乏しく、唯一奇妙な遺留品としては、小さなミニチュアの棺が現場近くで発見されたこと。ところが過去の未解決失踪事件や殺人事件でも同様の玩具のような棺が発見されていたことが分かり、Rebusは連続殺人事件ではないかとの疑いを抱く。もうひとつの手がかりは、Philippaのパソコンに送られていたQuizmasterという匿名の人物からのメール。このメールを追っていくとPhilippaは失踪する前にこのQuizmasterが作り上げたゲームに参加していたことが分かる。棺はRebusが、そしてQuizmasterのゲームはJohnの変わらぬ相棒、Siobhan Clarke刑事が追いかける。QuizmasterはPhilippaの失踪後も謎のメールを送り続け、ゲームのキーを与えて警察を挑発する。Siobhanは段々このゲームに深入りしていき、寝ても覚めてもゲームのことが頭から離れなくなってしまう。一方、Rebusは棺の由来を調べるためにスコットランド博物館の学芸員のJean Burchill博士の意見を聞くが、その縁で彼女と親しくなる。
この小説、警察関係者以外にあまり印象的な人物がいないのがやや不満と言えば言えるだろうか。Balfour家やその周辺の人々に、仮に悪役であってもあまり深みある個性が感じられない。しかし、警察内部の人間関係がかなり良く書き込まれていて、その点には興味を引かれた。特に上役のGill Templer、キャリア指向の強いEllen Wylie、そしてRebus的な一匹狼の生き方と、警察内での出世を目ざすTemplerやWylieのような生き方の間で迷うSiobhanの姿が面白い。
後に余韻が残る小説ではないが、読んでいる間はかなり楽しんだ。色々とエジンバラの地名が出て来るが、John Rebusシリーズを読んでからエジンバラを旅すると楽しいだろうな。
2012/07/06
近代初期イングランドの貧しい学生:リンカンシャーのウィリアム・グリーンの場合
中世末期の聖職者以外の人々の識字について幾らか調べていて、Jo Ann Hoeppner Moranの労作、The Growth of English Schooling 1340-1548: Learning, Literacy, and Laicization in Pre-Reformation York Diocese (Princeton UP, 1985)の第4章、"Literacy and Laicization of Education"を図書館で複写してきて、読んでいる。興味深い資料やエピソード満載で、大変参考になる。その中でも特に印象に残ったエピソードとして、リンカンシャーのウィリアム・グリーンという貧乏な学生に関する記述がある (p. 176)。
このウィリアムは1521年のノリッジ市の記録に登場する。彼はイングランド東部リンカンシャーのWantletという村(?検索しても出てこない地名)の出身。父親は労働者 ("a labouring man"とある)。村の学校で2年間 "grammar"、つまりラテン語を学んだ後、父と5, 6年働く。"sometyme in husbondry and other wiles [while] with longe sawe"(時には農業、他の時には長いのこぎりを使って)とあるので、農業、そして大工か林業などに従事していたのだろう。仕事がひとつではない事から見て、土地持ちの小農民ではなく、農業労働者だろう。その後彼は、リンカンシャーの古い町ボストン(注1)の叔母 (aunt) のところに住んで、働きながら学校に通う。ボストンで彼は聖アウグスティヌス修道会のひとりの会士から"benet and accolet"を授与されたとある(注2)。これは下級聖職者の位であり、おそらくチョーサーの「粉屋の話」に出てくるアブサロンのような仕事だろう。これ以上、何も書かれていないが、それで安定して生活出来るようなものではなかったのだろう。教会の雑用をやるアルバイト僧のような生活ではなかったのかと想像する。その後彼はボストンの商人の家に6ヶ月住む。おそらく、住み込みの事務職員として商用文書等の作成をやったのではないだろうか。しかし彼は勉学への欲求を諦めきれないタイプの人だったのであろう。その後、彼はついに大学進学の為にケンブリッジに移住する。そこで彼はエール(ビールの一種)を運んだり、サフロンを摘んだりといった肉体労働をしつつ大学に通う。食事は学寮で他人の慈善 ("of alms") に頼っていたらしい。その後、彼は教会の定職を求めてローマにはるばる出かけているが、彼の願いは叶わなかったようだ。ケンブリッジに戻った後は、彼の教育を修了する為に(おそらく学士号を得るためか)1年間の学資(注3)の寄付を集める為の許可書を与えられた。しかし実際に集まったのは8ヶ月分の学資だけだった。
他の学資寄付者も見つからず、しかし父親のような肉体労働に戻ることも望まず、万策尽きた彼は更に学費出資者を募集する為の新たな許可書や叙階(聖職就任)に必要な書類を偽造 (counterfeit) したようで、それ故、冒頭に記した様にノリッジ市の記録に名前が残ることになった。市の裁判所 (a borough court) などで告発されたのであろうか。
様々の手段を模索し、奨学金を捜し、不安定な仕事を転々としながら学問を続けようと努力し続けたウィリアム—現代の多くの若き研究者、特に人文科学研究者、と重なるところもある。大変勉強熱心だが就職先が決まってないチョーサー描くオックスフォードの神学生も思い出させる。一方、中世が終わり近代に移り変わる頃、下層階級の農民の息子が学校教育を受け、やがてケンブリッジ大学にまで進学した事にこの時代の変化を感じさせる。
(注1) 中世のボストンは所謂"city"として王室から特許状を与えられた町ではないが、中世後半には貿易港としてかなり栄えた町だった。ここには現在Boston Grammar Schoolという歴史ある中等学校があるが、これは16世紀のカトリック女王メアリー1世が設立したそうである。しかし、その前身となる学校は既に14世紀からあったらしいので、ウィリアムはそうした学校で学んだのだろう。
(注2) "benet" をOxford English Dictionaryで引いてみると、"The third of the four lesser orders in the Roman Catholic Church, one of whose functions was the exorcizing of evil spirits"と定義されているので、"exorcist"の別名で、祓魔師(ふつまし)を指すと思われる。これは下級聖職者 (minor orders / lesser orders) の位のひとつ。"accolet"は古い綴りで、"acolyte"(侍祭)というやはり下級聖職者の位のひとつ。後者は時々目にする語で、司祭の助手としてミサの手助けをしたり、その他教会の色々な雑事を受け持つ。前者は洗礼を受ける者のために、洗礼の前に悪魔払いをしてあげる仕事のようだが、その他には何をしたのか、私はよく分かっていない。フルタイムで働き、生計を立てられるような仕事なんだろうか。そもそもminor ordersの人達の仕事や生活の実態など、まったく分かっていない。詳しい方がいらしたら、コメント欄で教えて下さい。その他、私の間違いの訂正などありましたら、是非お知らせ下さい。
(注3) Moranが書いているのは、"he obtained a license to collect subscriptions for one year towards completing his education"。自分の教育の出資者を求めて寄付を募ったのではないかと想像しているが具体的には良く分からない。
なお、Moranはこの情報を次の学術誌から取ったそうである:Norfolk Archaeology 4 (1885): appendix, pp. 342-44.
このウィリアムは1521年のノリッジ市の記録に登場する。彼はイングランド東部リンカンシャーのWantletという村(?検索しても出てこない地名)の出身。父親は労働者 ("a labouring man"とある)。村の学校で2年間 "grammar"、つまりラテン語を学んだ後、父と5, 6年働く。"sometyme in husbondry and other wiles [while] with longe sawe"(時には農業、他の時には長いのこぎりを使って)とあるので、農業、そして大工か林業などに従事していたのだろう。仕事がひとつではない事から見て、土地持ちの小農民ではなく、農業労働者だろう。その後彼は、リンカンシャーの古い町ボストン(注1)の叔母 (aunt) のところに住んで、働きながら学校に通う。ボストンで彼は聖アウグスティヌス修道会のひとりの会士から"benet and accolet"を授与されたとある(注2)。これは下級聖職者の位であり、おそらくチョーサーの「粉屋の話」に出てくるアブサロンのような仕事だろう。これ以上、何も書かれていないが、それで安定して生活出来るようなものではなかったのだろう。教会の雑用をやるアルバイト僧のような生活ではなかったのかと想像する。その後彼はボストンの商人の家に6ヶ月住む。おそらく、住み込みの事務職員として商用文書等の作成をやったのではないだろうか。しかし彼は勉学への欲求を諦めきれないタイプの人だったのであろう。その後、彼はついに大学進学の為にケンブリッジに移住する。そこで彼はエール(ビールの一種)を運んだり、サフロンを摘んだりといった肉体労働をしつつ大学に通う。食事は学寮で他人の慈善 ("of alms") に頼っていたらしい。その後、彼は教会の定職を求めてローマにはるばる出かけているが、彼の願いは叶わなかったようだ。ケンブリッジに戻った後は、彼の教育を修了する為に(おそらく学士号を得るためか)1年間の学資(注3)の寄付を集める為の許可書を与えられた。しかし実際に集まったのは8ヶ月分の学資だけだった。
他の学資寄付者も見つからず、しかし父親のような肉体労働に戻ることも望まず、万策尽きた彼は更に学費出資者を募集する為の新たな許可書や叙階(聖職就任)に必要な書類を偽造 (counterfeit) したようで、それ故、冒頭に記した様にノリッジ市の記録に名前が残ることになった。市の裁判所 (a borough court) などで告発されたのであろうか。
様々の手段を模索し、奨学金を捜し、不安定な仕事を転々としながら学問を続けようと努力し続けたウィリアム—現代の多くの若き研究者、特に人文科学研究者、と重なるところもある。大変勉強熱心だが就職先が決まってないチョーサー描くオックスフォードの神学生も思い出させる。一方、中世が終わり近代に移り変わる頃、下層階級の農民の息子が学校教育を受け、やがてケンブリッジ大学にまで進学した事にこの時代の変化を感じさせる。
(注1) 中世のボストンは所謂"city"として王室から特許状を与えられた町ではないが、中世後半には貿易港としてかなり栄えた町だった。ここには現在Boston Grammar Schoolという歴史ある中等学校があるが、これは16世紀のカトリック女王メアリー1世が設立したそうである。しかし、その前身となる学校は既に14世紀からあったらしいので、ウィリアムはそうした学校で学んだのだろう。
(注2) "benet" をOxford English Dictionaryで引いてみると、"The third of the four lesser orders in the Roman Catholic Church, one of whose functions was the exorcizing of evil spirits"と定義されているので、"exorcist"の別名で、祓魔師(ふつまし)を指すと思われる。これは下級聖職者 (minor orders / lesser orders) の位のひとつ。"accolet"は古い綴りで、"acolyte"(侍祭)というやはり下級聖職者の位のひとつ。後者は時々目にする語で、司祭の助手としてミサの手助けをしたり、その他教会の色々な雑事を受け持つ。前者は洗礼を受ける者のために、洗礼の前に悪魔払いをしてあげる仕事のようだが、その他には何をしたのか、私はよく分かっていない。フルタイムで働き、生計を立てられるような仕事なんだろうか。そもそもminor ordersの人達の仕事や生活の実態など、まったく分かっていない。詳しい方がいらしたら、コメント欄で教えて下さい。その他、私の間違いの訂正などありましたら、是非お知らせ下さい。
(注3) Moranが書いているのは、"he obtained a license to collect subscriptions for one year towards completing his education"。自分の教育の出資者を求めて寄付を募ったのではないかと想像しているが具体的には良く分からない。
なお、Moranはこの情報を次の学術誌から取ったそうである:Norfolk Archaeology 4 (1885): appendix, pp. 342-44.
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