2015/04/20

『ウィンズロウ・ボーイ』(新国立劇場、2015.4.19)

『ウィンズロウ・ボーイ』 
新国立劇場公演
観劇日: 2015.4.19   13:00-16:15(休憩1回)
劇場: 新国立劇場 小劇場

演出: 鈴木裕美
脚本: テレンス・ラティガン
翻訳: 小川絵梨子
美術: 松岡泉

出演:
小林隆 (アーサー・ウィンズロウ)
竹下景子 (グレイス・ウィンズロウ、アーサーの妻)
森川由樹 (キャサリン・ウィンズロウ、娘)
山本悠生 (ディッキー・ウィンズロウ、長男、オックスフォード大学の学生)
近藤礼貴 (ロニー・ウィンズロウ、ウィンズロウ家の次男、海軍管轄の幼年学校の生徒)
チョウ・ヨンホ (デズモンド・カリー、事務弁護士)
川口高志 (ジョン・ウェザストーン、軍人、キャサリンの婚約者)
中村まこと (サー・ロバート・モートン、法廷弁護士)
渡辺樹里 (ヴァイオレット、ウィンズロウ家のメイド)
デシルバ安奈 (ミス・バーンズ、記者)

☆☆☆☆ / 5

ルネサンスの古典的作家を除けば、おそらく私が最も好きなイギリスの劇作家、テレンス・ラティガンの代表作の上演。こちらの期待も大きいので、翻訳上演という大きな制約があるのにもかかわらず、つい大きな期待をする。公演自体は、私の好まない点が目についたが、脚本が素晴らしいので、とても楽しめた。

演出の鈴木裕美はラティガンが大好きなようで、2005年にラティガンの3作品を連続上演する企画をしたのは彼女だったそうだ。その3作には『ウィンズロウ・ボーイ』も含まれていたが、私は残念ながら見ていない。しかし残りの2作、『ブラウニング・バージョン』と『セパレート・テーブルズ』は見て、それ以来、ラティガンがとても好きになったので、鈴木さんには感謝しなければ。

ストーリーは、海軍幼年学校に行っていたウィンズロウ家の次男ロニーが、友人のロッカーから郵便為替を盗んだという疑いをかけられ、本人は否定するが一方的に退学処分を宣言される。これを不服として、ウィンズロウ家の人々は全力を傾けて戦い、法廷闘争に至る、というもの。詳しくは映画版を見た時の粗筋を参照して下さい。

非常に目障り耳障りだったのは、ディッキー、デズモンド、メイドのヴァイオレットや新聞記者の役の、時として寄席芸人のような、笑いを取ろうと言わんばかりの大げさにコミカルな演技。段々慣れてきたが、最初の方は、腹立たしくて苛々し、集中出来なかった。その他の配役も、全体にコミカルにしようとし過ぎていないか。また演技全体が大げさで、所謂「赤毛もの」的なあざとさ、人工的すぎるドラマチックさを感じた。西洋人らしく殊更に大げさなジェスチャーや映画の吹き替えのような大げさな台詞回しをしていないだろうか。また、過剰に説明的な演技になっていないか。笑いを自然と引き起こすような台詞はあるので、それはそれで自然に笑いが生まれるのに任せれば良いと思う。ラティガンの素晴らしさは抑制の美だ。表面にはわずかしか表れないが、水面下に大きな情念が隠れているのが観客に伝わることが大切だ。その点で言うと、小津安二郎の映画に似ている。日本人の多くが備えている謙遜とか抑制の態度を自然に使って欲しい。隠されている感情を、開けっぴろげに外に出してしまったら台無しになると思うが・・・。この作品の時代は20世紀初期。まだビクトリア朝の雰囲気が残っている頃だ。イングランドのミドル・クラスの、今は失われつつある(?)自己抑制が色濃い作品のはず。

以前に見たマメットの映画版(1999)と比べて見ると、娘のキャサリンのフェミニストぶりがはっきり表現されているように思ったが、これはむしろマメット版ではその点では抑えられているのではないか(マメットはミソジニスト的傾向があると言われる)。逆に、マメット版であった、最後のキャサリンとサー・ロバート・モートンとの今後のロマンチックな展開を予想させる終わり方は、この舞台ではほとんどない。これも映画版ではアメリカの観客に媚びたのかもしれない味付けか。こうした点では、今回の舞台のほうがずっと良かった。

今日本でこの舞台を見て特に感じたのは、国家権力に対して、慎ましいミドルクラスの家族が必死で、様々な犠牲を払っても個人の自由と正義のために戦う、という点。米国的な勇ましいヒロイズムではなく、イギリスらしい、地味な粘り強さが称えられた作品。日本人なら、こんな事やっても仕方ない、時代の流れに逆らってもどうしようもない、ということになるだろう。そもそも、世界大戦前夜の日本には、海軍の意図に反して個人の権利を主張できるような環境はなかっただろう。この作品は、やはり軍の学校で窃盗の罪で退学させられた少年、ジョージ・アーチャーーシーとその家族が、権力に対して抵抗し、ついに濡れ衣を晴らすという、1908年に実際にあった事件をモデルにしている。戦争の近づく時代に、個人の正統な権利を主張した家族に対し、様々の圧力がかかる点は、今の日本において、国家、経済や公共の福利のためと言われて、沈黙を強いられる多くの人々を思いださせる。

モデルとなったアーチャー-シー一家は、ウィンズロウ家よりも大分豊かだったようだ。大学を中退して銀行に勤めたディッキーのモデルとなっているマーティン・アーチャー-シーは、保守党の国会議員になった。また、女性参政権論者のフェミニスト、キャサリンは実在せず、ラティガンが作り出したキャラクター。そう見ると、ラティガンは、ウィンズロウ家の国家への抵抗の姿勢を、アーチャー-シー一家の事件よりも意図的に際立たせているように思える。そうしてその点で、アーサーの同志であるキャサリンへの作者の思い入れは深いと感じた。

劇の内容は国や文化を越えた普遍性を持ってはいるが、一方でイングランドのミドルクラスの抑制された言葉や態度の雰囲気がもの凄く大切な劇だと思うので、翻訳で演じるのは難しいと思う。その上で、上記にあるように分かり易すぎ、オーバー・アクティングであると感じる。しかし、俳優は破綻無く、良く演じていたのも確か。特に小林隆のアーサー、竹下景子のグレイスは良かった。森川由樹は台詞がまるで宝塚の男役みたいな、「芝居がかった」台詞の言い方で、私はかなり違和感を感じた。ディッキー、ヴァイオレット、ミス・バーンズ、デズモンドの役では、寄席のような、笑わせようとする大げさな演技をやめて欲しい。それだけでも随分全体の印象が良くなると思う。特に、デズモンドは、胸の想いを押し殺して密かに苦しむ役。彼が結婚を求めるシーンは、観客に静かな悲しみを与えるシーンであったら、と思う(ラティガンの言葉は含むところが色々あり、応用もたくさん出来て、ああも出来る、こうもやれると、盛りだくさんの演技にしたい気持ちは理解出来る)。

2015/04/16

【英・伊映画】 『おみおくりの作法』(Still Life)2013年

『おみおくりの作法』(Still Life)  
 2013年制作 2015年日本公開 約90分

映画館:新所沢シネパーク
鑑賞した日:2015.4.16

監督・脚本:ウンベルト・バゾリーニ
出演:
エディー・マーサン (ジョン・メイ、市の民生係)
ジョアンヌ・フロガット(ケリー・ストーク )
カレン・ドルーリー(マリー)
アンドリュー・バカン(ミスター・プラチェット )

☆☆☆☆ / 5

この前映画に行ったのは、確か舞台のライブ映像を記録した映画だったと思う。本当に、滅多に映画館で映画を見なくなったが、学生時代は、週に3回くらい映画に行った年もあった。やはり大きなスクリーンで見ると、集中出来て良い。

さてこのイギリス映画、小品ながら結構ヒットしているらしい。2月初旬に公開されたようだが、まだあちこちで上映しているのだから。SNSや口コミ等で評判が伝わったのだろう。特に私のようなシニアにとっては、心を打つ内容だ。

主人公のジョン・メイはロンドンのケニントン地区の公務員。身寄りがなく、孤独死をした人のために葬儀をあげ埋葬をする係。たいていは近親者などが分からず、メイが調べて連絡しても、家族なのに「もう縁を切っているので私には関係ない」と言われたりして、葬儀も埋葬も彼一人が立ち会う。どうせ誰も気にしないし、死者も見ているわけではないから、形式だけ簡単に済ませることも可能だ。そしてそういうビジネスライクなやり方を、上役で、鼻持ちならないエリート風のミスター・プラチェットは望んでいる。しかし、彼はひとりひとりの死者を自分の家族のように扱う。近親者に連絡を取り、片身となるものを捜し、生前の写真をアルバムに貼って残す。葬儀ではその人の宗派を尊重し、その人にふさわしい音楽を選んで流し、そして牧師が読む弔辞の原稿さえ、遺品を手がかりにして代筆する。そのように手厚く死者を遇するメイだが、彼自身も質素な公営住宅で、きちんと暮らしてはいるが、天涯孤独な暮らし。妻や子供はおらず、尋ねて来たり、一緒にパブでおしゃべりする友もおらず、親しい同僚もいない。社会の片隅で、極めて真面目に、しかし透明人間のようにひっそりと暮らしている。

そんな真面目な公務員の彼だが、市当局は経費削減のために人員整理の対象とする。メイは、あと3日でやりかけの仕事を終えて辞めてくれ、とブラチェットに申し渡される。最後の仕事は、彼と同じ団地に住んでいて、孤独死した老人ビリー・ストークの葬儀と埋葬だった。都会の公営団地らしく、メイは生前のビリーとは全く面識がなかった。これが最後の仕事となったためだろうか、メイはビリーの件については、特別の思い入れを込めて、家族や友人を捜し、遠い北部の町ウィットビーなど、あちこち旅をする・・・。

最後はちょっと驚かされるが、それがこの映画をびりっと締めている。

エディー・マーサンという地味な俳優の魅力が映画全体に染み渡る。彼は主役をすることはまずないが、テレビの色々なシリーズもので脇役としてお馴染みの俳優。ほとんど表情を変えず、淡々と仕事をこなすが、心の中には、とても暖かい、しかし複雑な感情がいっぱいに詰まっていることを感じさせる。彼のオフィスの机まわりも、住んでいる質素な公営アパートの中も、驚くほどきれいに片づいているし、いつも同じ黒いスーツと白いシャツをきちっと着ていて、もの凄く几帳面な人であると分かる。と言うか、今時こんな人いるのかな、と思う。『名探偵モンク』という病的潔癖症の探偵を主人公にした人気ドラマ・シリーズがあるが、ずっと質素だけど、あのモンクの暮らしぶりを思い出した。

でもこれほど真面目で親切な人に、妻やパートナーも友人も仲の良い同僚もいないなんて、あり得ない。つまりかなりリアリティーに乏しい人物設定。そう考えると、彼は居そうで居ない、一種の寓意的人物と思えてきた。死者を弔うために神からこの世に派遣された天使であり使者みたいな存在だ。彼は神の使者として「あなたの家族のAさん(この場合、ビリー・ストーク)が亡くなりましたよ」と知らせを運んでくる。メイという使者により、故人との絆を取り戻し、自分の生を振りかえる人が現れる。ある意味、神のもとへと帰って行った人々から、生きている家族や友人への最後の贈り物を運んでくれる人、と見えた。でも彼は天使だから、この世にはルーツも家族もなくて当然・・・。この仕事がなくなったら、彼の役割も終わりか。再就職なんてする意味ない。

映画を見終わってしばらくしてからジョン・メイを思い出すと、テレンス・ラティガンの描く人物に似ている気がした。非常に堅苦しく、ルールどおり生真面目に生きるが、心の中には滅多に見られないような優しさやナイーブさを秘めている。『ブラウニング・ヴァージョン』のアンドリュー・クロッカー=ハリス先生とか、『ウィンズローボーイ』のウィンズロー家の人々や事務弁護士カリー、法廷弁護士モートンなど、ジョン・メイと共通するストイックさ、不器用さ、そして世間的な計算を度外視した優しさを見せる。古き良きイングリッシュ・ミドルクラスの理想像がうかがえる。ただし、あくまで理想だが。

ビリーの娘ケリーを演じたジョアンヌ・フロガットも大変印象に残る。彼女はテレビ・シリーズ『ダウントン・アビー』でメイドのアンナを演じている。執事のベイツに恋してついに結婚する役。派手さのない、さっぱりした顔つきの人で、庶民を演じるのにぴったりだ。プラチェットを演じたアンドリュー・バカンのドライで気取った役作りも上手いと思った。この俳優は、ドラマ『ブロードチャーチ』の第一シリーズで被害者の子供の父親を演じた人だが、あの演技も、人物の裏表が上手く表現されていて、良かった。

現題の"Still Life"が良い。普通、「静物画」を意味する英語。直訳すれば、「静かな暮らし/命」。ジョン・メイの暮らしも、映画の多くの場面も静物画のように静かだった。でも、静物画には、作者の深い思いが隠されているんだよね。ふと、学部生時代に良く読んだ作家アイザック・シンガーの短編、「短い金曜日」を思い出した。ジョン・メイは幸せな人だろう。

映画は、シニア料金でとても安く鑑賞できるから助かる。私のような人達がかなり見ているだろう。我々年寄りにとっては、「こりゃ、他人事じゃないね」という、大変身につまされる内容だった。私自身、フルタイムの勤めを辞めて以来、妻や郷里の母と話す以外、全く人と話すこともなく毎日が過ぎているからなあ。

ケニントンは、ロンドンの南部にあり、貧しい人の多い地域だと思う。地下鉄のケニントン駅は、ノーザン・ラインがキングス・クロス方面とチャリング・グロス方面に別れる駅で、時々列車を乗り換えたものだが、駅改札の外に出たことはほとんどない。しかし、一度、この街にあるパブ・シアターのWhite Bear Theatreで上演されたジョン・オズボーンの劇 "Personal Enemy" を見に行っていた。お店などもほとんどなく、とても飾り気のない、ジョン・メイにぴったりの地味な街並みだった気がする。う〜ん、ロンドンがなつかしい。

予告編はこちら。

2015/04/14

【イギリス映画】『あなたを抱きしめる日まで』 (Philomena)

『あなたを抱きしめる日まで』 (Philomena) 
  2013年イギリス映画(日本公開、2014年)

監督:スティーブン・フリアーズ
脚本:スティーブ・クーガン、ジェフ・ホープ
原作:マーティン・シックススミス

出演:
フィロミナ・リー:ジュディ・デンチ
マーティン・シックススミス:スティーヴ・クーガン
若い頃のフィロミナ :ソフィ・ケネディ・クラーク
メアリー :メア・ウィニンガム
シスター・ヒルデガード :バーバラ・ジェフォード
マザー・バーバラ :ルース・マッケイブ
ピート・オルソン :ピーター・ハーマン
マイケル(フィロミナの息子) :ショーン・マーホン
ジェーン(フィロミナの娘) :アンナ・マックスウェル・マーティン

☆☆☆☆ / 5

昨年の日本公開時、結構話題になったと思う。私は先日WOWOWで放送されて、見た。主役のフィロミナを演じるジュディ・デンチとマーティン・シックススミスのスティーブ・クーガンが素晴らしい。

BBCのジャーナリスト、労働党政権のメディア担当官(所謂”spin doctor”)、そして作家で現代ロシア史の専門家という多彩な才能と経歴を持つマーティン・シックススミスが書いた原作を基にしており、実話である。主人公のフィロミナはイングランドに住む老人の女性だが、アイルランドの出身。セックスや避妊の知識も全く教えられない時代、十代で祭りで出会った若者とセックスして妊娠し、女子修道院に預けられて出産した。カトリックの戒律がアイルランド社会の隅々を支配していた頃、修道院の中は「罪」を犯した未婚の若い母親たちにとっては事実上の監獄だった。自分の赤ん坊には1日に1時間しか面会が許されず、あとは週7日間、強制労働の日々を過ごす。更に、知らない間に彼女たちの子供は大金を払ったアメリカ人の養父母に売り飛ばされてしまっていた。こうしてフィロメナの息子、マイケル、もアメリカに送られた。その後、大人になったフィロメナは息子の行く方を探し続ける。勿論かって収容されていた修道院にも足を運ぶが、門前払いを食う。

労働党政府のメディア担当官としての職をスキャンダルで失って困っていたジャーナリストのマーティン・シックススミスは、たまたまパーティでフィロメナの娘と知り合い、彼女の運命に興味を持つ。彼は新聞社と話をつけて、フィロメナの息子捜しを手伝う代わりに、それを記事にさせて貰うことにした。こうして、オックスフォード大学出身のエリート・ジャーナリストと、敬虔なカトリック教徒で、ワーキング・クラスの素朴な老女との、失われた息子を捜す旅が始まる。二人は、まずアイルランドの修道院へ行くが、以前フィロメナがひとりで行った時同様に何も教えてもらえず、直接、アメリカに息子マイケルを捜しに行くことになった・・・。

失われた子供を捜す旅ということで、いささかセンチメンタルな作品かな、と思い、あまり期待せずに見たが、完全にそんな予想をくつがえされた。勿論、全体としては大変感動的な作品だ。しかし、センチメンタルには陥っていない。主役の2人のキャラクターと監督の描き方が、物語をあまりシリアスにし過ぎず、適度の距離感が生まれている。デンチ演ずるフィロメナが実に愉快。素朴で何事にもナイーブに驚く。アメリカで泊まったホテルの立派さ、部屋に色々とお菓子が供えてあったり、バスローブが2枚あったり、朝食のメニューが豪華だったりするのにいちいちびっくりして、シックススミスに報告する。その一方で、しっかりした世間知を備えていて、色々と変わっていく状況に対し、柔軟で的確な判断をし、理性を失わない。カトリック教会に裏切られても、彼女の神への信仰は揺るがず、ホテルの従業員のような行きずりの人々にも、そして例え自分を騙したり虐待した人々に対しても、他人には礼儀正しく、優しい。スティーブ・クーガン演ずるマーティン・シックススミスは、この時丁度自分としては極めて不本意に職を失っており、屈折した感情を持ちつつ、際物的なジャーナリズムのネタとしてこの取材を始めた。無神論者のインテレクチュアルである彼は、フィロメナのナイーブさをおもしろがりもするが、苛々する時もある。しかし、徐々に彼女の誠実さ、息子への愛の深さに引き込まれ、また修道院の不誠実さに怒って、当面の日銭稼ぎの仕事を越えて、フィロメナの息子捜しに精力を傾注するようになる。ナイーブなワーキング・クラスのおかみさんと、世間を斜から眺めるジャーナリストの珍道中ー2人のちょっとずれた会話がしばしば漫才コンビのように響いて愉快だ。演劇では特に重要なんだが、この映画でも、台詞の「間の取り方」が絶妙だ。

ジュディ・デンチの演技力がいつもながら凄い。彼女は「普通」の大スターと違い、デンチというスターの幻影をを観客に押しつけない。しかし、それでいてどこまでもジュディ・デンチであり、計算して作り上げたものでなく、自分の内面から出てくる演技であると印象づける。それとも、これも彼女の技術であり計算か・・・。スティーブ・クーガンという俳優は、コメディアンとしても活躍している人のようだ。シニカルで屈折した表情が上手く出ていて、なかなかクレバーな役者と感じた。

児童や若者の虐待など、カトリック教会が犯してきた罪は数多いことはしばしば報道されてきた。21世紀になって、やっと本格的な反省と謝罪が始まっているようだ。最後に登場する老いた修道女が口にする「罪」という言葉を聞いて、教会の罪深さを強く感じさせられた。

(追記)以上を書いてから思い出したが、 中世のカトリック教会が行っていた、道徳や信仰に関わる問題を裁く宗教裁判においては、禁固刑を科された者の多くは、少なくともイングランドでは、修道院に閉じ込められることがほとんどだったようだ。20世紀まで延々とその伝統が続いていたとも言える。

2015/04/09

【英・米映画】『クレアモント・ホテル』 ”Mrs Palfrey at the Claremont”

『クレアモント・ホテル』 ”Mrs Palfrey at the Claremont” (英・米映画 2005年)

監督:ダン・アイアランド
脚本:ルース・サックス

出演:
ポールフリ夫人:ジョーン・プラウライト   
ルードヴィック・メイヤー:ルパート・フレンド   
アーバスノット夫人:アンナ・マッセイ   
オズボーン氏;ロバート・ラング   
グェンドリン:ゾーイ・タッパー   
ルードヴィックの母:クレア・ヒギンズ   

☆☆☆ / 5

2005年に英米合作で製作されたようだが、日本では2010年に岩波ホールで公開。私は先日WOWOWで放映されたので見た。地味で慎ましい佳作、というタイプの作品。主演は、最近はお目にかからないが往年の大女優で、ローレンス・オリヴィエの最後の奥様だったジョーン・プラウライト。

ロンドンの小さな、古めかしい長期滞在者用宿、クレアモント・ホテルにプラウライト演じるポールフリ夫人がやってくるところから映画は始まる。彼女は70歳弱くらいか。かっては愛する夫アーサーのために、そしてその後は娘のために生きてきたが、今やっと自分一人、気ままな生活を楽しもうとロンドンにやって来た。しかし、やって来るはずの孫デズモンドからは何週間経っても連絡がなく、他に尋ねて来る人も知り合いもおらず、ぽつんとホテルの食堂で一人きりの食事をするのみ。しかし、同宿の他の客とは言葉を交わすようになる。彼らもポールフリー夫人同様、年配の孤独な老人たち。ある時、彼女は道で転んで膝を打つが、その時に駆けつけて助けてくれた26歳の青年ルードヴィックと親しくなる。貧しい小説家志望のルードヴィックも、母とは疎遠になっており、他に家族はおろか、ガールフレンドもおらず、街角で弾き語りをしては日銭を稼ぐ根無し草の毎日。ポールフリ夫人はそのルードヴィックをホテルの夕食に招くが、同じホテルに住んでいる人々が彼の事をポールフリ夫人の自慢の孫、エドモンド、と勘違いしたからややこしいことに。ルードヴィックはそれから他人の前では彼女の孫を演じ続けることになるが、やがて本当の祖母と孫の間にあるような愛情がふたりの間に生まれていく。

というような、いかにも心温まる、寂しい老人と社会の主流から落ちこぼれた若者の交流の話。よくありそうな話で、かなり陳腐と言えるかも知れないが、それでも充分楽しめた。私のような、すっかりくたびれ、知人・友人も少ない老人には、共感してほろりとくるところもあるし、クスッと笑えるところも結構あった。テンポがゆっくりで、大して大きな事件も起こらず、退屈する場面もあるが、その古風なのんびりしたところが魅力でもある。2005年制作なのに、随分昔のイギリス映画を見ているような錯覚に陥るが、原作が1971年出版なので、恐らくそのくらいの年代の出来事のように作ってあるのかな。

原作はエリザベス・テイラーの小説だそうだが(俳優ではありません)、こういう長期滞在ホテルを舞台にしたお話、イギリスの映画、演劇、小説などでは良くあるのではないだろうか。すぐ思い出したのが、テレンス・ラティガンの作品、『それぞれのテーブル』(Separate Tables)や、『炎の道』(Flare Path)など。特に『それぞれのテーブル』はこの映画に似た雰囲気を持っている。ホテルという、人々が次々と訪れては去って行く場所、そして食堂に集まっての交流、しかし、個室に入ってしまえば、何をする人か分からない。更に、ホテルで他の客に見せている顔は、本当は仮面にしか過ぎなかったりと、ホテル、特に長期滞在型ホテルは、人生の変転を映し、ドラマを生む場所だ。

プラウライトも良いが、まわりの脇役が光る。特に、ポールフリ夫人同様ホテルに長く住んでいる他の女性たちが実に個性的で人間味溢れた造形で、見応えがある。ルードヴィックを演じるルパート・フレンドと、後に出来る彼のガールフレンド、グウェンドリン役のゾーイ・タッパーも好感が持てる演技。

しかし、世界中からおびただしい観光客が集まるロンドンに、今でもこんなのんびりしたホテルがあるか疑問。あっても、うらぶれたホテルの冴えない部屋でも宿賃が途方もなく高価で、とてもポールフリ夫人には手が届かないと思うけど。

DVDも出ています。

2015/03/30

ウィリアム・シェイクスピア『十二夜』(青年団リンクRoMT)

ウィリアム・シェイクスピア『十二夜』

観劇日:2015年3月29日(日)14:00-16:45

青年団リンクRoMT公演
翻訳:河合祥一郎
演出:田野邦彦
劇場:アトリエ春風舎

出演:
ヴァイオラ:李そじん
セバスチャン:磯谷雪裕
オーシーノ:佐藤誠
マルヴォーリオ:太田宏
サー・トービー:永井秀樹
マライア:荻野友里
フェステ:菊池佳南
サー・アンドリュー:亀山浩史
フェイビアン:伊藤毅


久しぶりに観劇をし、楽しい休日を過ごした。見たのは若い俳優がほとんどの劇団。私は初めて見た。SNSで評判が良いようなので、行ってみた。若い人たちの意欲が感じられる元気いっぱいの公演だった。台詞もしっかり入っていて破綻がなく、奇をてらわないオーソドックスな舞台だった。特に後半、マルヴォーリオ役の俳優の名演があり、楽しめた。彼の役どころは誰がやってもある程度面白い筋書きではあるが、彼は間の取り方が抜群。

小規模劇団の公演であるので、やはりセットや衣装は非常に簡単で、この劇の祝祭的な雰囲気を醸し出すのは難しかったのは仕方ないだろう。クリスマスの祝祭喜劇であるから、なんとかそのあたりのざわめいた雰囲気と、宴の後のメランコリックな気怠さなどが欲しいところだが、セットも音楽も衣装も大した費用がかけられない以上、ちょっと難しい要求かな。

ステージの向こう側を映画館の座席のようにしつらえて、そこでフェステがスナック菓子を食べながら手前のステージの役者を見たりするところは目立つ工夫だった。ただ、その工夫に明確なメッセージとして訴えるものがあったかのか、私には理解できなかった。むしろ向こうにも客を入れて、ステージを観客で両側から囲んではどうか、と思いつつ見ていた。

台詞はほぼ間違いなく言えているんだが、何だか、味わいがない、と思ったら、多分言いにくいところ、観客がわかりにくいところを、大幅カットしてしまったのではないだろうか。そのせいだと思うのだが、イングランドのルネサンス劇特有の華やかで装飾的なイメージの世界が広がらない。まあ、親しみやすいシェイクスピア、というところか。こういうグループに求めても仕方ないだろうけれど、シェイクスピアって、日本で言えば歌舞伎みたいなもの。イングランド文化と上演の伝統、そしてなんと言ってもその豊穣な詩的言語によって、つづれ織りのような美しさが醸し出される。そういうものに敬意を払った上で、よく考えて新しいことを盛り込んで欲しいなあ、と思った(日本で見ると、いつも思うんだけどな)。

ヴァイオラをやった女優さんは台詞がややたどたどしかった。主人公だけに残念。オーシーノは、何だか柄が悪くて、公爵という感じがしないが、これは河合訳のせいもあるかもしれない(?)。貴族階級と使用人との超えがたい壁が態度と言葉使いで表現できないと・・・。サー・トービーとフェステは深いニュアンスを込めた演技を要求される役柄だと思うが、十分役を消化できず、台詞をなぞるので精一杯という感じがした。フェステ、味わい深い役柄なんだけど、今回私には魅力感じなかったな。

この小さな劇に入った途端、ロンドンのフィンバラとか、ゲイトのような小劇場を思い出して、懐かしい気持ちとともに期待が膨らんだ。しかし、公演自体はそうしたロンドンの小劇場の演目のクオリティーとは、今回はとても比べられない。この違い、どこから来るのかしら。

しかし、蜷川の舞台じゃないんだから、うるさいことは言うべきじゃないだろう。大劇場の客寄せアイドル俳優ならいざしらず、別に仕事を持って生活している若い方達が、頑張ってここまで作り上げたことに大きな拍手をしたい。また、日本で良くある、シェイクスピアの権威に挑戦するとか言って何か突拍子もないことをやったりせず、作品の基本的なストーリーを生かしたのも良かった。高校生や大学生など、若い人たちに気軽に見て欲しい公演だった。 

2015/03/27

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜『この軒の下で』」:東八幡教会牧師 奥田知志さん


少し前になってしまったが、3月14日土曜日の午後1時過ぎ、お昼を食べながらテレビをつけたら、つまらない番組が並ぶ中で、NHKの宗教の時間「こころの時代」が放送中で、福岡県の東八幡キリスト教会の牧師、奥田知志さんが出られていた。

奥田先生はNHKの「プロフェッショナル」などでも取り上げられた、カリスマのある、行動力に溢れた社会運動家でもあり、今は随分有名な方。北九州市を日本でホームレス支援では最も進んだ自治体のひとつにした功労者。しかし、ここまで来るには、市当局の無理解、いや市との争い、教会をおろそかにしているという信徒からの非難、助けられず死んで行ったホームレスの人への罪の意識、等々、様々な公的、私的葛藤を乗り越えてこられた。地べたを這うような活動の中で宗教者としての理想を追い続け、しかも街の一教会の牧師としての義務も果たされてきた方。昔からの信者の中には、とてもついて行けないと教会に来なくなった方もおられるそうだが、そういうことも悩みつつ、何とか色んな人を弱者を助ける運動に巻き込んで、その活動を通してキリスト教徒としての生き方を信徒と共に求めようとしておられる。ホームレス支援の話をしつつ、自然と聖書の言葉、キリストの行いへの言及を口にされるという、信仰と行動がひとつになった人。

彼が言っていることや書いたものを読むと、相当にリベラルな人で、今の政府の政策もはっきり批判している。というか、彼の様な弱者の立場に立ったら、格差を拡大している今の政治には批判的にならざるを得ないだろう。でも日本中から講演の依頼があり、自治体からも研修の講師として招かれ、NHKでもこのように取り上げられる。福祉への取り組み方において考えの違う人でも、彼の信仰に基づいた無私の活動には人間として尊敬せざるを得ないからだろう。

奥田先生が始めたNPO法人、「抱撲」(ほうぼく)のホームページはこちら。

NHK ハートネットTV、シリーズ「20代の自殺」 「生きるためのテレビ2」(全2夜)

NHK ETV、3月24日、25日の午後8時から放送された標記の番組を見た。

 日本では、若者の死因の第一位は自殺だそうである。去年からETVの福祉番組、ハートネットTVでは何度か若者の自殺の問題を取り上げている。番組には1000通も反響のメールが寄せられているそうで、その中には、自分も自殺をしようとしたという人からのものも多いようだ。今回は2夜にわたり、自殺を考えたり、自傷行為を繰り返したりした若者自身が登場して、自分の経験を語った。日本の社会の息苦しさが良く分かる番組だった。番組での証言や紹介された例から、同性愛や性同一性障害、学習障害などを持つ子供・若者への差別が特に若者を苦しめていると感じられた。

自殺を考える多くの人が、自分は社会にとって「迷惑」なんだ、と思い込んでいた。つまり、話し相手や相談できる人がいない、共感を寄せてくれる人がいないのである。迷惑をかけてもいないのに、自分は社会に要らない人間と思い込み、自傷行為や自殺に至る。集団生活になじめず、暗い子だったりすると、子供の時は酷くいじめられる。大人になると、まったく友人、知人がいなくて孤立する。就職も難しく、就職してもまわりに溶け込めないうちに、つまはじきにされ、鬱病になったり、仕事に出られなくなったりする。それで思ったのだが、この国は、若者に「若者」らしさを期待しすぎるのではないか。明るさ、ポジティブ、生命力、若々しさ、等々を持った若者でないと、「若者」と認めてくれない。農業や職人の仕事、単純労働などが大変少なくなり、大多数が高学歴にもなって、オフィスで事務職をしたり、色々な営業活動に従事したりする今、ほとんどの人に、現在の高度企業社会に適した積極性、明るさ、自己表現能力、知的な器用さや俊敏さなどが求められる。これが内向的だったり、不器用だったり、多少の学習障害を背負い、急速な環境の変化についていけない人達を追い詰めている。逆に、不器用で地味な人柄だが、真面目にコツコツ努力するような人は評価されづらい世の中になってきたと思う。自殺や若者の悩みを越えて、今の日本の姿を考えさせる番組だった。

最近私はNHKのニュースがとても信用できず、ほとんど見なくなった。しかし、ウィークディ午後8時のこの福祉の時間だけは、ある意味、ニュース番組としても関心を持って視聴できる。貧困の問題、ジェンダーや性的少数者の差別の問題、孤独死など東北の被災地の問題、ギャンブル依存の問題など、日本社会の色々な問題が政治性を越えて、人間的な視点で取り上げられているから。

番組のウェッブ・ページ。

2013年のものだが、ハートネットTVプロデューサーが語る番組の意義と気をつけていること。