2017/06/27

7月の「100分de名著」はジェイン・オースティン『高慢と偏見』

7月のETV「100分de名著」はジェイン・オースティンの『高慢と偏見』です。私はこのシリーズ、昔は時々見ていたのですが、最近は全く見てません。というのはずっとレギュラーで出ている所謂テレビ・タレント、伊集院光さんの、いささか押しつけがましい主観的な感想が鼻について嫌になったからです。でも7月のジェイン・オースティンの『高慢と偏見』は英文学の古典ですし、見たい気がするので、テキストだけは買ってきました。このシリーズ、テキストがとても良いです。適当な分量で古典の概要と主要な論点がわかりやすく解説してあり、いわば雑誌形式の岩波新書。普通の雑誌と異なり、NHKの案内以外には余計な広告もなく、かさばりません。値段も500円ちょっとで、気軽に買えます。今回の解説者は近代小説の権威、京都大学の廣瀬由美子先生です。テキストは、廣瀬先生だけが執筆していて、他の余計な文章はありません。

私は英文学関係で、河合祥一郎先生の『ハムレット』、そして同じく廣瀬先生の『フランケンシュタイン』のテキストを買いました。

それにしても、昨今のNHKの教育や報道番組は、どれもこれも民放のように素人の芸人や俳優を出すのは困ったものです。別に、伊集院さんが嫌いというわけではありません。ただ、文化や教育、報道などの番組には、その番組の内容に適した人材を出してくれるだけで十分なんだけど。俳優さんなどでも、例えばシェイクスピアの回にハムレットを演じた役者が出演するなど、番組の主題に詳しい人なら意味があるとは思いますが。テーマは面白くても、見るのが本当に嫌になります。

番組のホームページ:
http://www.nhk.or.jp/meicho/

2017/05/21

【英語の小説】Teju Cole, "Open City" (faber and faber, 2011)

Teju Cole, “Open City“

(London: faber and faber, 2011)  259 pages.

☆☆ / 5

留学から日本に戻って以来、英語の小説を読むことが少なくなってしまった。元々大した読解力はないのだが、歳を取って英語を読むのが一層遅くなりつつある気がする。また、暇な時間がありそうで、何かしら細々した用事が気になって、まとまった時間をかけてフィクションに向き合うことが少なくなったのかもしれない。それよりも、買い物に行ったり、掃除したり、もちろん勉強したり、などを優先してしまう。

さて、それでもこの250ページ強の小説を読み始め、終わりまでたどり着いたのは、幾つかの魅力があったからだ。そもそも読むきっかけになったのは、SNSであるアメリカの大学の先生が、この小説は中世英文学の最高傑作のひとつ、ウィリアム・ラングランド作『農夫ピアズ』(Piers Plowman)に影響を受けている、と書いていたからだ。確かに、そういう先入観念で読み始めると、『農夫ピアズ』の夢物語としての構造をある程度踏襲しているようだ。更に具体的には178ページに、語り手で主人公のJuliusが午前1時、『農夫ピアズ』のプロローグを読んでいてそのまま眠ってしまい、ラングランドが人類の様々の行いに思いを馳せつつ世界をさまよい歩く様子や作品が始まるイングランド中部のモルバーン丘陵(Malvern Hills)などが夢の中に現れることなどが少しだけ出てくる。作品全体との特徴として、『農夫ピアズ』も”Open City”も、主人公の精神的、そして空間的な彷徨を描いている点で大変類似している。

”Open City”の語り手Juliusはニューヨークの病院に勤める精神科の若い研修医で研究者。彼はナイジェリア出身で、大学から米国にやって来た。父親は亡くなっており、母とは疎遠で行き来がない。可愛がられた記憶があるヨーロッパ系の祖母とも音信不通だが、ベルギーのブリュッセルに住んでいるらしい。彼はニューヨークという多国籍、多文化の街をひたすら1人でさまよい歩き、見聞きしたものを頭の中で反芻する。さらに自分のナイジェリアでの生い立ち、特に軍隊の幼年学校でのいじめの記憶を詳細に物語る。また彼は祖母の痕跡を捜してブリュッセルに旅をし、そこでもニューヨークにいるとき同様に彷徨い歩く。カフェの店員をしているモロッコ出身の若いインテリと親しくなり、延々と政治談義を聞かされる。文化や宗教、政治の対立がこれらの若者の心中を常に寄せては返す波のようにかき乱している。

この作品にはJuliusと様々な人々との出会いと対話はあるが、特に一貫したプロットらしきものはなく、主人公の心象風景を軸として、印象的なスキットを並べた変奏曲のように続いていく。20世紀後半から21世紀にかけての欧米の知識人を捉えた様々のトピックや芸術作品が、そうした対話や主人公のモノローグで触れられていて、それだけでも知的な面白さを感じる人もあるだろう。ブリュッセルでの出会いや、ナイジェリアの学校での苦労話は、個々の話としてはとても生き生きとして説得力があったが、それらが更に作品全体としてのまとまりに繋がって、納得できる結末に達するわけではない。エピソードとエピソードの間の文章は、ニューヨークやブリュッセルの街角を延々と歩くJuliusのモノローグで、私はかなり退屈した。全体としては、伝統的な小説のまとまりを期待したい私にはあまり説得力はなかったし、思想家や芸術家の名前が散りばめられた知的議論を消化するには私は無知過ぎる読者だった。

最初に戻って、『農夫ピアズ』との関係を考えると、ラングランド作品では、圧倒的な倫理的で宗教的な関心が作品全体を貫いているが、この作品では、そういう面はあっても、それほど強くはなく、若い知識人の知的漂泊を物語形式で綴った作品と言えるだろう。現代思想などに関心がなく、知的議論が特に好きなわけでもない私個人としては、分かる人には分かれば良い、と言う感じのする気取った作品に感じられ、満足のいく読後感は残らなかった。

2017/04/23

『エレクトラ』(世田谷パブリック・シアター、2017.4.22)

リュートピア公演
観劇日: 2017.4.22   14:00-17:00(休憩含む)
劇場:世田谷パブリック・シアター 

演出:鵜山仁
公演台本:笹部博司

出演:
高畑充希(エレクトラ)
麿赤兒(アガメムノン、アポロン、トアス王、他)
中嶋朋子(イピゲネイア)
村上虹郎(オレステス)
仁村紗和(クリュテミソス)
横田栄司(アイギストス)
白石加代子(クリュタイメストラ)

☆☆☆/5

ギリシャ悲劇を組み合わせて3時間弱のの分かりやすい劇にしている。ギリシャ悲劇だけあって、筋書きは波瀾万丈で非常に面白い。

夫アガメムノンが長女イピゲネイアを人質として殺したと思い込んだ妻クリュタイメストラは愛人アイギストスとたくらんで夫を殺す。しかし、父を殺された娘エレクトラは、実の母に対して、いつか父の仇を打つべく憎悪の塊となってしまった。母とアイギストスの宮殿に留まるエレクトラは憎しみに気も狂わんばかりで夜叉のような様。アガメムノンを殺した当時の状況を言い立てて自己弁護をするクリュタイメストラと、そんな言い訳を聞かないエレクトラという母娘の複雑な関係がこの劇の見どころ。そして、そこへやはり憎しみに燃えるオレステスが到着し、ふたりは復讐を実行に移すが・・・。

上演台本は、ギリシャ悲劇を見たり読んだりしたことがない観客にもとても分かりやすい。台詞は極めて日常的な現代日本語で、また主な俳優の台詞の中に物語の歴史的背景の説明がやや退屈するくらい組み込まれている(原作では、観客は既に物語の大枠は知っていることとして省かれ、また一部はコロスが触れる)。但、このような分かりやすい台詞のために失われたものも大きい。古典劇の儀式的な雰囲気はほとんど感じられず、やや誇張した言い方をすれば、ギリシャ劇をベースにした大衆演劇。古めかしい擬古文的台詞をろうろうと言う、というスタイルで退屈させられるのもどうかとは思うが、これではギリシャ悲劇の素晴らしさを消してしまっていないだろうか。また、費用の問題はあると思うが、コロスというギリシャ劇ならではの素晴らしい仕掛けを使わないのも勿体ない。多くの俳優を使わなくても、劇の引き回し役という形で、語り部ひとりとして使うことも出来ると思う。

最後は神様が出て来て、人間達に対し、「色々と辛酸をなめてもらったが、これを糧に未来に向けて生きていきましょうね」という何とも不思議なポジティブ・メッセージで終わっていて、ずっこけた。これが古典劇のカタルシス?確かに、シェイクスピアの悲劇でも、最後は「残された我らが、苦しんだ人の分まで生きていこう」みたいなことはあるんだが、この台本はあまりに取って付けた強引な終わり方で、カタルシスにならず、拍子抜けした。

と、不満な点も大きいが、素晴らしい点もある。高畑充希は若いにも関わらず台詞は上手いし、声も通り、テレビで知られた人とは思えない実力を感じさせた。何しろギリシャ劇はステージ・プレゼンスが重要で、元宝塚とか、歌舞伎など伝統芸能の人には適している一方、テレビで主な仕事をしてきた人にはなかなか大変だと思うが、立派だ。彼女は体も小さく、押し出しは良くないが、それを精一杯の動きと声で補った。こういう題材では特に白石加代子が素晴らしいのは言うまでもないが、白石と高畑のやりとりがアンバランスに見えなかったことは、高畑の力を証明しているだろう。オレステスの村上虹郎も達者な演技だった。

若い2人を脇で支えたベテラン達は存分に個性を発揮。白石はもちろん、魔赤児、中嶋朋子、横田栄司、それぞれに個性豊かで、楽しめた。

世田谷パブリック・シアターでの上演を見たのだが、元来制作は新潟の公共劇場、りゅーとぴあなので、予算はそれほど多くないと思う。コロスも使わず、俳優が少ないのもそれが一因かとは思うので、蜷川のギリシャ劇のような豪華さを期待してはいけない。予算さえあれば、宮廷や神殿の雰囲気などを多数の役者と豪華なセットで産み出すことはできるだろうが、それは無いものねだりだろう。しかし、脚本がこれで良いのかは、はなはだ疑問だ。本当に新しさを狙うアダプテーションなら、もっと思い切ったことをやるべきだし、そうでなければ、出来るだけ古典らしさから生まれる儀式性を大切にして欲しかった気がする。

2016/12/17

アランデル大司教の法令の影響:ジェイムズ・H・モーリー教授の発表を聞いて

12月10日、11日、関西大学で開かれた日本中世英語英文学会に行った。今回はそこで聞いたエモリー大学のジェイムズ・H・モーリー教授の発表についての感想。専門外の方には関心を持てない内容だが、お許し下さい。

今回の学会で私が特に関心を持っていたのは、10日の Sermons and Biblical Narrative Pre- and Post-Arundel というシンポジウム。特に、エモリー大学のジェイムズ・H・モーリー教授(Professor James H. Morey)の講演に期待していた。実際に出席してみて、期待していた通りモーリー教授の講演は大変刺激的だった。彼の主な主張は、今までニコラス・ワトソンなどが提唱してきたアランデル大司教の1409年の教会法令(Constitutions)の影響が、それ程大きくなかったのではないかという点。そして、15世紀にも多くの宗教的文書が書かれ、特に詩ではなく、散文作品が書かれたこと、更に14世紀に書かれた多くの重要で論争を呼ぶような宗教的作品の写本が15世紀になって数多く写されて現在に到っているので、少なくとも当局の検閲がそれほど広く徹底していたとは考えられない、ということだった。モーリー教授も、全体としてはニコラス・ワトソンの論文の主旨に賛成だが、ワトソンはConstitutions の影響を過大評価しすぎている、という論旨だったと思う。

特に彼は、ウィクリフの英訳聖書に象徴される散文による宗教作品が、それまでの韻文による聖書のパラフレーズ作品(所謂「ゴスペル・ハーモニー」など)を駆逐したのではないか、と言う。その点で、ウィクリフ派の散文訳聖書が広まったことの影響は甚大だった、と考えるそうだ。異端の書とは言え、大変に人気があったわけである。このように、詩文から散文へ、という流れを、宗教作品の変化、異端弾圧と検閲などと関連づけて論じてくれたことは大変新鮮だった。

私も、モーリー先生の結論にはうなずける。ワトソンの論文は素晴らしいが、14世紀末から15世紀始めにかけての政府と教会の異端に対する諸政策の全体として英語の宗教作品が作られにくい状況が生まれたのであって、Constitutions はその重要な一部に過ぎない、とは思う。Constitutions が文化史上非常に注目されてきたのは、この法令が聖書の英語訳を明確に禁じたからであり、それは言い替えれば、近現代人にとって、ルターやティンダル等の宗教改革本流における俗語訳聖書に先行した、ウィクリフ派の英訳聖書の歴史的重要性を示していると言える。

私の感想としては、15世紀における識字率の向上により、韻文を耳で聞くよりも、散文を本で読むことが多くなり、それが散文の宗教作品の執筆を後押しした面もあるのではないか、と思った。また、モーリー教授の示した資料によっても、15世紀には韻文・散文を問わず新しい宗教作品が明らかにに減少しているのは確かであり、やはり政府と教会の異端弾圧とそれに伴う自主的な検閲、宗教作品への警戒感の影響が原因となっているのではないだろうか。

モーリー先生の発表を聞いて特に感じたのは、英米の立派な研究者は、大きなスケールで、文学史、文化史的な視点を交えながら話すので、そこで論じられている作品について知らない者でも、大変面白く聞けるということ。色々な意味で、刺激的で、勉強になる発表だった。

2016/11/13

『かもめ』(2016.11.11、東京芸術劇場)

☆/5

11月11日土曜日の夜、池袋の東京芸術劇場でアントン・チェーホフ原作の『かもめ』の公演を見た。

私は作品を見たことがないが、最近注目を集めているらしい熊林弘高という演出家による作品らしい。日本で伝統的なチェーホフ演出というと、黄昏の帝政ロシアを舞台に、時代に取り残されていく中流以上の人々の哀しみをしっとりとした情感を込めて演ずる、という、まあ一種のステレオタイプというか、観客も公演をする方もそういう思い込みがあるかもしれない。しかし、昨今は、イギリスでも日本でも、シェイクスピア同様、そういう伝統的な殻を壊し、情感を破壊し、高々と笑えるようなスラップスティック風のチェーホフ演出の方が、むしろ当たり前になりつつあるのだろうか。元来ロシアでやるチェーホフは大いに笑えるシーンが多いという話もある。ナショナル・シアターやヤング・ヴィックで見た公演もそういう感じだった。これもそういう趣向の公演。

何だか、昨今の日本の演劇界では、西洋古典というと、そもそもオーソドックスな演出や演技をやった経験もないのに、頭の中のオーソドックスな演出をぶち壊すところから始める人達が多い気がする。この公演も作者や作品に関する愛が全く感じられず、実につまらない。俳優は実力のある人を揃えているのだが、それぞれの強みを引き出しているとは思えず、空回りとしか思えないドタバタが延々と3時間近く続きうんざりした。

チェーホフ作品は、広い意味でのコメディーだと思うし、自然に笑いをかもし出す人物や台詞もかなりある。でも大げさでわざとらしい尾ひれをつけて、スラップステックにして何の意味があるんだろう。「オレの公演、どうだ新しいだろう!」という演出家のエゴばかりが目立って不快だった。また、女性の人物描写で、脚本にあるとは思えない肉感的な表現を俳優にさせているのは、ステレオタイプ的なミソジニーの気配もして、私には見ておれない印象を与えた。

トレープレフ(坂口健太郎)とトリゴーリン(田中圭)の年齢が近く、後者がとても若いので、ニーナ(満島ひかり)を挟むライバル関係が明確になり、完全に若者の三角関係のドラマになったのは面白い試みだが、その一方で、元来戯曲では中心的人物のアルカージナ(佐藤オリエ)がすっかり霞んでしまい、まるでトリゴーリンの母親、トレープレフのお婆ちゃん、にでもなったかのようだ。佐藤オリエ、中嶋朋子、あめくみちこ、の3人の、技術と経験を持っているはずのベテランに、それぞれ哀しみに満ちた役が振られているのに、その哀しみがまったく感じられない。中島の演じるのは特に感動を誘う役柄なのだがが、まるで薹が立ったオールドミスというだけになっていて、良い俳優なのにかわいそう。

昨今の私にとってはかなり高額なチケット代だったけど、まったく楽しめず不満に満ちて劇場を後にした。

これを見ると、蜷川幸雄が演出した『かもめ』が如何に良かったか、記憶力の乏しい私でもその時の感動が思い出される。原田美枝子のアルカージナ、高橋洋のトレープレフ、そして宮本裕子のニーナ、素晴らしかったなあ!懐かしい。 但、トリゴーリンを作家の筒井康隆が演じたが、あまりに素人臭くてひどかったな。

2016/09/19

『クレシダ』(2016.9.18、シアター・トラム)

観劇日: 2016.9.18   13:00-15:30 (休憩1回)
劇場: シアター・トラム

演出: 森新太郎
原作: ニコラス・ライト
翻訳: 芦沢みどり
美術: 堀尾幸男
衣装: 四方修平
照明: 原田保
音響: 高橋巖

出演:
平幹二朗 (ジョン・シャンク)
浅利陽介 (スティーブン・ハマートン)
橋本淳 (ジョン・ハニマン、通称ハニー)
碓井将大 (少年俳優)
藤木修 (少年俳優)
花王おさむ (ジョン、衣装係)
高橋洋 (ディッキー、経理係)

☆☆☆ / 5

現代イギリスの劇作家、ニコラス・ライトによる2000年初演の新しい劇。初演はアルメイダ劇場。但、ウエストエンドの商業劇場を使ったようだ。その時の主演は、マイケル・ガンボン、演出はニコラス・ハイトナーという豪華版。私は勿論見てない。ルネサンス期イングランドの劇場を舞台とした時代劇なので背景にも興味が持て、また、平幹二朗、高橋洋という芸達者が出ているので、まあそれ程外れることはないだろうと思って出かけた。結果として、かなり楽しめ、充分行った価値はあった。しかし、脚本そのものはいまひとつ弱い感じがした。もう少し面白く出来そうだ。また、俳優の人選や演技にも不満は残る。平幹二朗、台詞は分かりやすく、サービス精神たっぷりで、かならず一定のレベルの演技を見せてくれるが、彼の独特の型みたいなもの、ほとんど歌舞伎に近いというか、それが劇のキャラクターを圧倒してしまい、登場人物シャンクよりも、役者平幹二朗を見る劇となってしまうのが残念。

舞台は1630年のグローブ座。となると劇団は国王一座(King’s Men)。バーベッジ親子やシェイクスピアはとっくの昔に他界している。シェイクスピアの人気は死後も衰えず、伝説上の人物となっているのは、台詞の中でも言及される。マーローやウェブスターの劇も上演され続けている。座長的な地位にあり、若い俳優の教育係をしているシャンクは女性役をやる少年俳優の手配に手こずっていて、田舎の俳優養成所に、数名の少年を送ってくれるように頼んである(そんな組織、あったのかね?)。それでやって来たのが、スティーブン。必死で台詞を覚えてきたが、どうしようもない素人臭さに加え、ひどいお国訛りもある。シャンクは、とりあえず、彼の教育を先輩俳優で、花形女役のハニーに頼む。また彼自身もスティーブンに手厚い演技指導を施し、そのおかげか、スティーブンは短い間に一座の看板女形役者に成長する。しかし、こうした10代の少年達の女形としての寿命は短い。衣装係のジョンも、経理をやっているディッキーも、かっては人気女形だったのだが、今は裏方だ。

平幹二朗、素晴らしい俳優と思うが、どうも彼自身の人間的魅力がにじみ出過ぎるというか・・・。このシャンクという人物、使ってもいない俳優養成費を劇団に請求して私腹を肥やしたことがばれて、今や巨額の借金を負っており、その負債を人気少年俳優を他の劇団に売りつけて返そうと考えたりするけしからんところのある奴。犯罪者とは言えないが、子供を搾取して利益を上げるという点で、『オリヴァー・ツイスト』のフェイギンのようなところもある。でも平がやると、何だか好々爺の教育係になってしまい、全体的に毒が抜けてしまう。しかし、彼の傷が破れて出血し、息絶え絶えの時のディッキーとのやりとりは感動的だ。二人の芸達者の台詞の息がぴったりと合った。そのディッキーの高橋洋、比較的小さな役だが、彼が出て来たシーンは面白い。地味な印象だが、台詞の緩急のつけ方、タイミングの取り方と言い、上手い俳優。

最も残念に感じたのは、田舎臭い少年俳優から一座の花形へ成長するスティーブン役の浅利陽介の演技。設定では、声変わりする前の10代前半の少年。そのためか、子供らしさを出そうとドタバタした演技ばかり目立ち、若者の成長、スター性の獲得、と言ったプロセスが感じられないまま、ある日、大きな役を射止めることになり、解せない。先輩俳優への想いを吐露するところも、叙情を醸し出せない。脚本の問題か、演出の問題か、それとも私の目が節穴? 華が感じられないし、スターになった最後のところでも、美しいとは言いがたい。一方、そのスティーブンにスターの座から追われるハニーをやった橋本淳は良かった。最初に女役の姿で舞台化粧とコスチュームをつけて出て来た時は、はっとする美しさを感じた。彼の場合、もう大人になって、女役がやれなくなる年齢を演じるのだから、俳優の実年齢や実際の姿と近いのでやりやすい。こうした女役の子供をやる俳優の難しい点は、20代前半の大人が5〜10歳以上、浅利の場合は29歳だそうだから、何と15歳程度実年齢より下の子供を演じるのである。しかも、場面によっては、大人の俳優が女性を演じる子供を演じる、という2重の演技をしなければならない。彼らの演技が非常にわざとらしく見えるのも仕方ない。アルメイダの初演では、これらの役は20〜21歳の若者がやったそうだ。身長が低く、顔の表情が年齢を感じさせず、しかも演技の技術がかなりあるということで浅利が選ばれたのだと思うが、成功しているとは思えない。もっとずっと年下の若者を使うべきではなかっただろうか。

というわけで幾つかの不満はあるが、平幹二朗、高橋洋の名演技もあり、楽しい観劇が出来た。

2016/09/11

Kawai Project 公演 『間違いの喜劇』(2016.9.10、あうるずすぽっと)

『間違いの喜劇』
Kawai Project 公演
観劇日: 2016.9.10   14:00-16:00
劇場: あうるずすぽっと

演出: 河合祥一郎
原作: ウィリアム・シェイクスピア
美術: 平山正太郎
衣装: 月岡彩
照明: 富山貴之
音楽: 後藤浩明

出演:
高橋洋介 (アンティフォラス、兄と弟の二役)
梶原航  (ドローミオ、兄)
寺内淳志 (ドローミオ、弟)
原康義 (イジーオン、シラクサの老商人)
岩崎加根子 (エミリア、エフェソスの女子修道院長)
チョウヨンホ (エフェソスの公爵)
多田慶子 (エイドリアーナ)
沖田愛 (ルシアーナ)
中山真一(ヴィオラ・ダ・ガンバ演奏)

☆☆☆ ☆/ 5

今日は東大のシェイクスピアの権威、河合祥一郎先生の主宰する劇団 Kawai Project の『間違いの喜劇』をマチネで見てきた。最近私は観劇から遠ざかっていて、この劇も行く予定は無かったのだが、行かれるはずだった知人が風邪を引いて熱を出し寝込んでしまい、急遽当日になってピンチヒッターで行くことになった。おかげさまで、良い上演でかなり楽しめた。その知人に大いに感謝したいが、早い快復を祈ります。

さて『間違いの喜劇』はシェイクスピアの初期の劇のひとつと考えられていて(1590年前後)、原作は古代ローマの喜劇作家のプラウトゥスの作品『メナイクムス兄弟』。古典劇の形式に則り、劇の時間と実際の時間が同時進行という形式を取っている点も興味深い。主人2人と彼らの召使い2人という二組の双子が、幼い頃に航海中の嵐で生き別れ、互いを知らぬままそれぞれエフェソスとシラクサという遠く離れた異国で育ち成人するが、ある時偶然にエフェソスで出くわす。しかし本人達も、周囲の人々も、更に偶然再会することになる彼らの両親(イジーオンとエミリア)さえ、お互いを知らない、ということから、見分けの付かない双子を取り違える人々が続出し、様々の「間違いの喜劇」が起こる、という案配。

シラクサはイタリア南部のシチリア島の古代都市、エフェソスは現トルコ共和国、小アジアの西にある古代都市。古代地中海文明と、大航海時代のヨーロッパが劇の中でぴったり重なる。都市の為政者たる公爵による謂わば即決裁判(summary justice)、修道院への避難(asylum)、商業、貿易、金融などのモチーフが顔を出すのも時代を映して興味深い。そして、嵐による離散と再会、死んだと思っていた人の再生、双子が原因のひと違い、嫉妬からの怒り、その他、考えて見ると、その後のシェイクスピアの名作の種が一杯に詰まった作品。

シェイクスピア学者らしい、奇をてらわぬ、大変オーソドックスな演出だった。スターのいない俳優陣、限られた費用を使っての衣装やセットなど、制限は多かったと思うが、シェイクスピアの楽しさ、奥深さを知り尽くした演出家と、ベテランの名演や懸命の若手に支えられ、シェイクスピア作品の中では凡作とも言える劇が充分楽しい上演に仕上がったと思う。双子故の人違いによって起こるドタバタ喜劇なんだから、結構笑いが欲しいところなんだが、何しろ観客が私みたいな、河合先生の高名に引かれてやってきた年配の英語教員なんかも多いと思うので、今ひとつ反応が悪いのは気の毒だった。若い人たち中心の観客だったら、もう少し盛り上がっただろう。

アンティフォラスの二役をこなした高橋洋介、なかなかの熱演。二人の人物を良く演じ分けていたが、惜しむらくは、ちょっとやり過ぎという印象。エフェソスのアンティフォラスのほうは、台詞からして、プライドが高く、家父長的で、いかにも町の有力者然とした押し出しというのは分かるが、台詞に凄みをつけるあまり、ヤクザの親分みたいに聞こえるときもあった。ドローミオのふたりは、双子を別々の俳優がやるので、主人達とは逆に、むしろ二人が同じように見えるよう腐心していたようだ。だとしたら、それは成功していたと思う。演技という点では、私には誰よりも印象的だったのは、最初に出て来たイジーオンのこれまでの家族離散の悲しみを述べる独白。文学座の原康義、圧倒的な説得力を持つ台詞回し。上手いの一言で、聞き惚れて、一気に劇に引きずり込まれた。あのモノローグがあるだけで、私にはもの凄く印象が違った。一言一言、はっきり分かるが、適度に緩急と強弱をつけ、台詞の意味を最大限に引き出していた。上手な新劇俳優の良いところを見せつけられた。一方で、対照的に、締めくくりのエミリアの台詞は、ゆっくりすぎる。勿体付けた感じで、俳優が名台詞に酔っているという印象を与えるような表現。最後の場面だけに大変残念。その他の俳優では、エイドリアーナを演じた多田慶子は大変上手だった。沖田愛は可愛い妹役にぴったりだし、チョウヨンホの公爵もその身分らしい雰囲気を出していた。

常にステージの左に座って、台詞に合わせた絶妙な演奏をするヴィオラ・ダ・ガンバ演奏の中山真一が、素晴らしい効果を上げていた。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの公演みたいだった。

全体を明るいベージュ系でまとめた色彩、キャスターのついたパネルを壁に使って自在に動かして見せたり、大小のドアをアクセントにしたりと、工夫の感じられるセットも良かった。

蜷川幸雄が2005年にこの劇を埼玉芸術劇場でやったようで、私も見た記憶がある。私がブログを書き始める前なのでメモもなく、細かい事はすっかり忘れてしまったが、オール・メール・シェイクスピア・シリーズの1本で、小栗旬がアンティフォラスを二役、高橋洋がドローミオの二役をこなしたようだ。私がはっきり覚えているのは、下がるズボンを何度も何度も引き上げながら台詞を言う高橋洋のドローミオの「くさい」演技。ああいった泥臭さが蜷川演出らしい、と思った。私は、ネクスト・シアターからのたたき上げの高橋に好感を持っていたので、その後、蜷川と軋轢があったのだろうか、彼の作品に全く出して貰えなくなったのは大変残念。でもテレビや映画の脇役で、俳優として仕事を続けているようだ。良い俳優さんなので、テレビだけでは勿体ない。小栗旬のアンティフォラスの記憶はないんだけど、どうだったんだろう。若いアイドルとしては、上手な人だとは思うけど、アイドルが出る舞台は、劇場がその俳優を見るために来ている若い女性達で一杯になり、シェイクスピアの劇だというので期待して来ている私にとっては、何故か劇場を満たす熱い期待感がかえって異化作用を産んで、えらく白けるんだなあ(というのはアイドル嫌いの私の愚痴)。でもそうした観客が集まってくださるおかげで、シェイクスピア作品の大きな上演が可能になるのだから、文句を言ってはいけない。ともあれ、今回の公演はそういう点でもじっくり見られて良かった。