7月20日、ケント大学のPh.D(博士号)の学位授与式に出席しました。その後、大学院生として所属してきた中世・近代初期研究センター(Centre for Medieval and Early Modern Studies)の指導教授、学科のセクレタリー、励ましていただいた元の勤務先の同僚など、ここ数年間にお世話になった方々にご報告とお礼のメールを書いてきました。私が仕事を辞めてイギリスに渡って博士課程を始めたのは2008年の9月です。2011年の夏には日本に帰国し、非常勤講師などしつつ勉強を続けてきました。この夏で最初に始めてから10年間経ちました。私もすっかり歳を取り、元々虚弱体質でもあるので、心身共に元気が無くなりました。本当に長い年月が過ぎたと思います。それだけに、何とか重い重い肩の荷を下ろせて、安堵しています。式から1ヶ月以上経ち、少しずつ記憶が薄れてきました。元々忘れっぽい上に、老人の私ですから、何もかも忘れてしまう前に、卒業式のことを書いておきたいと思います。
論文そのものを提出したのは去年の4月始めなので、その時点での感慨のほうがずっと大きくて、今回は観光旅行に行ったような気分でした。でも両親や妻、妹が喜んでくれたのが、とても嬉しかったです。またメインのスーパーバイザー(論文指導教授)も大変喜んでくれました。論文を書き終えられたのは本当に彼のおかげ。感謝しきれません。メインのスーパーバイザー(G先生)も、セカンド・スーパーバイザー(B先生)も、2001ー02年にMAを取った時にもお世話になった先生達。特にG先生は、私よりも5才ほど年上ですが、私が始めてから2年くらいで大学を退職されたのに、その後もずっと私の指導だけは公式に引き受けて下さいました。手当は僅かでしょうけど、一種の非常勤講師のような扱いだったようです。彼は、引退後はアカデミズムから離れて世界中を旅しておられ、趣味も沢山で引退生活を大いに楽しんでおられるようですが、律儀に私の草稿を読んでコメントを下さいました。私が既に教員としてのキャリアが長いことを考慮されたのか、指導学生と言うより友人として遇していただいたと思います。それで、私がマイペースになりすぎ、なかなか書き進めなかったかもしれません。でも、もし彼が私を叱咤激励し、時には鞭打つような事を言って急き立てていたら、きっと私は最後までやりおおせなかったでしょう。それでなくても、後半は自分の力に余る事をやっていると思って、いつ辞めるべきか、とずっと考えていたのですから。
セカンド・スーパーバイザーのB先生は、既に大学を引退したG先生に代わって、学科との連絡をし、事務的なアドバイスをしていただきました。また、論文が一応出来上がった時点で、論文全体の構成についての的確なアドバイスには助けられました。彼は私が最初にケント大学に見学に来た2000年の夏休みに、自らキャンパスを案内して下さり、更に2001年4月から翌年3月まで日本の学年暦に沿って研修期間が取れると言うと、その期間に合わせてMAを取れるようにしてあげようと言ってくださったのでした。おかげでケント大学でMAが取れることになり、その後にはPh.Dをやりたいという気持ちも芽生えました。この二人のおかげで学位が取れた、とつくづく思います。
Ph.D 論文に取り組んでいる間、色々な方にお世話になったのですが、中でも一番親切に励まして下さり、最もこの報告をしたかった関西にお住まいのM先生が音信不通になって居るのが辛いです。家族を除くと、私の論文の完成を最も望んで下さった方と思います。私は、一度だけ学会のシンポジウムに参加させてもらったことがあって、その時に私を誘って下さったのがM先生でした。論文執筆中、度々直筆の手紙や葉書、更に電話も頂いたのですが、昨年の初め、重病にかかっていてもう長くは生きられないとの知らせがあり、その後、昨年5月21日消印の葉書が最後になりました。その葉書は、4月に提出した論文を製本してお送りしたことへのお礼が書かれていました。その後は、9月に口頭試問が終わった直後や、10月の最終的な合格通知を受け取った後、ご報告の手紙を出したのですがお返事はありませんでした。M先生と連絡があるかもしれないと思った先生方に消息を聞いてみたのですが、ご存じありませんでした。正直言って、恐らく既にお亡くなりになっているだろうと思います。その事を考えると、2年早く提出しておれば間に合ったのに、と大変申し訳なく思います。
さて、式は7月20日の午前中だったのですが、私は海外旅行をすると、そして特に時差の大きな国に行くと、しばらくは腹痛などかなり体調を壊すので、用心して14日にロンドンに到着し、20日の卒業式に備えました。着いてから20日までに劇を2本見たり、ロンドンに住むメイン・スーパーバイザーに挨拶をしに行ったりしていました。式は午前10時30分から、そしてレンタルのガウンを受け取る時間は8時半からでしたので、19日の午後にカンタベリーに行き、B&Bに一泊しました。
ケント大学カンタベリー校(メイン・キャンパス)の卒業式(学位授与式)はカンタベリー大聖堂で開かれます。私の所属する中世・近代初期研究センターは学科横断の学際研究センターで、学生は大学院生だけで学部生はいません。従って私の所属するセンターから卒業式に出るのは僅かです。卒業式は年に2回あります。学部生のほとんどは7月に卒業式を迎えますが、これが日本の3月の卒業式に当たります。従って、広大なカンタベリー大聖堂の建物でも、到底一度には出席者を収容できません。今年は7月16日から20日まで5日間、それも月曜から木曜までは毎日3回、卒業式が行われました。学長は全部の式に出席し、祝辞を述べるのだろうと思いますが、そうだとすると大変ですね。私の所属するセンターでは、11月の卒業式に8月末に修士論文を提出した修士(MA)の学生のほとんどが卒業するので、10名以上の出席があると思うのですが、7月の卒業式は、論文提出の期日が規則で決まっていない博士課程の学生が2,3名というところでしょう。今回も2名でした。そばに並んでいた同じセンター所属の一人とは少し言葉を交わしましたが、私が日本に帰国した後に入学した学生なので、会ったことのない人でした。その他大聖堂は学生と家族や友人などで一杯でしたが、この回の学生の専攻分野は、歴史や文学、哲学、映画研究など人文科学の分野のようでしたが、とにかく知り合いはいませんでした。元々、カンタベリーに住んでいる間も全く友人は出来なかったので、それは気になりませんでした。但、写真を撮ってくれる人が居ないのには困りました。幸い、立派なガウン姿の写真を撮ってくれるプロの写真屋さんが出店していて、ほとんどの人がそこで写真を撮ってもらうので、私もそうしました(もちろん、結構なお値段ですけど)。後は適当に暇そうな学生さんを捜して、2,3枚撮って貰いました。
式は午前10時30分に始まりましたが、卒業生はまず決められたガウンを取りに行き(もちろん有料)、大聖堂の決められた場所で受付(registration)を済ませて式の入場券を貰い、そして式の始まる30分くらい前に大聖堂を囲む回廊の所定の場所に整列します。私は大聖堂から10分程度のところのB&Bに泊まっていたのですが、8時には宿舎を出て、決められた作業を済ませました。ちょっと早すぎて時間がかなり余りました。
式が始まる前には保護者など、学生や大学関係者以外の人達は既に着席しています。その上で、まず、私も含め、卒業生が生演奏の吹奏楽団の演奏と共に行列して(procession)入場します。大学院生は、学部生の後を歩きます。その後に教授達、そして名誉博士号を授与される方が入場します。そしてここで出席者全員が起立した後、最後に学長や副学長など、大学首脳部が入場します。またこの行列の一部として、mace(職杖[しよくじよう])と呼ばれる儀礼の杖が運び込まれます。この杖は、大学が、王室から大学としての認可(Royal Charter)を受けたことを示す具体的な印だそうです。こういう具合に、行列を中心として儀式が組み立てられる点は、非常にヨーロッパ的で、古代や中世以来の伝統を感じます。
式が始まると、イギリスの大学では名誉職である学長(Chancellor)や日本の学長にあたる副学長の挨拶、名誉博士号の授与と授与された方の挨拶などがあります。式が11回もあるので、毎回名誉博士号を授与される出席者は一人のようです。私の出た式では、Philip Howardさんという有名な料理家でした。ケント大学の卒業生で、大学では微生物学を専攻されたそうです。大学時代の自由な興味の広がりを、その後の人生においても生かす事が大切、というようなお話でした。 その後、式の主体である学位授与に入ります。日本の大学で普通する様に、まとめてひとりの代表が学位記を受け取るというのではありません。卒業する学部生と大学院生がひとりひとり名前を呼ばれて学長の前に進み出て、学位記(卒業証書)を受け取ります。これに1時間くらいかかります。この卒業する学生の事を英語で 'graduand(s)' というそうですが、今回初めて知りました。Ph.D の学生の場合、学位記を受け取る時に学長がガウンの襟に当たる部分を付けてくれることになっていますので、その折には、一言二言言葉をかけてくれます。
現在のケント大学の学長は、元のBBCジャーナリストで現在は作家のガヴィン・エスラー(Gavin Esler)さんです。彼はスコットランド出身ですが、大学の学部はケント大学の 英文科(School of English)卒 で、英米文学を専攻し、卒業後は、同じく文学で、リーズ大学大学院のMAを取っています。私は、彼がBBCに居た頃出演していたNewsnight や Hard Talk などの討論番組をしばしば見ていました。そうした番組に相応しい、大変舌鋒鋭いジャーナリストでしたが、現在は作家としての仕事に集中しているようです。そのエスラーさんが私のガウンの襟を付けて下さる時、「私の娘は今日本に居るよ」とおっしゃいました。後でネットで検索して見たのですが、長女はロンドン大学アジア・アフリカ研究所を出た後、日系企業に勤めておられるようです。私は、「長らくあなたのファンなんです」と言いましたら、笑っていました。まあ、実際ファンですから(^_^)。
式が終了した後は、入場したのとは逆の順番で出席者が退場しました。私はレンタルしていたガウンを返却し、B&Bに戻って預けていた荷物を受け取って、駅に行き、ロンドンの宿舎に向かいました。
博士論文の口頭試問は昨年2018年9月11日にあり、その時に既に小さな間違いの訂正を済ませれば合格(pass with minor corrections)と言われていました。そして、多分9月中には修正版の論文を提出し、10月末(10月27日)には、試験官の再チェックも終わって、最終的に合格したとの連絡がセクレタリーからありましたので、その時点で卒業できることは分かっていました。形式としての卒業式のためだけに、沢山の費用を使って出かけるのは贅沢すぎると思って、当初は行かないつもりでした。でも、高齢の両親が学位取得をとても喜んでくれたので、彼らに写真を見せるだけでも行く甲斐はあると思い、出かけることにしました。こうして出席してみると、やはり行って良かったとつくづく思います。両親や妻、妹に喜んで貰えたし、更にG先生に直接お礼を言えたのも大変良かったです。式には妻も一緒に来たいと言っていたのですが、どうしても仕事が休めずにそれは叶わず、結局、誰も知り合いのいない式になり、いささか寂しい想いはありました。式の後、G先生に送った報告メールで、知り合いがいなくて写真を撮ってくれる人を捜すのに困った、と書いたら、「自分が行けば良かった、でも式に同行できる人数は限られているので、当然家族が行くのだろうと思っていた」と返事がありました。しかし、彼はロンドンに住んでいるし、式に出るためには朝非常に早くお家を出なければならないから、とても出席をお願いできません。いずれにせよ、ヘスラー学長と短くても言葉を交わせたのはとても良い思い出だし、ロンドンへ戻る電車の中では、何とも言えない満足感に包まれました。早い人は3年で終わるところを、何しろ10年もかかってしまったことは研究者としては大変恥ずかしいのですが、しかし、自分の人生で最大と言って良いプロジェクトをやり遂げたことは、他の学生と比べて見劣りがしても、とても満足です。更に、イングランドの大学で英米人の学生に混じって英文学、それも中世英文学という分野で博士号を取得出来たのは、どんなに長い時間がかかっても、もともとこんな大それた事をやるほどには頭の良くない私にとって、出来すぎと言えるでしょう。
さて、長文になったので、今回はここで一旦終わります。でも、口頭試問の事や論文の提出前後の事など、色々、自分のための備忘録として書いておきたいことはあるので、後日、ここに書こうと思っています。また、私が論文で悪戦苦闘している間、博士論文に取り組んでおられる方々のブログが参考になりました。特に、当時はブラッドフォード大学におられ、今は日本で国際協力が専門の大学教員をされているTakaoさんのブログや、イギリスの日本語教師、デコボコ・ミチさんのブログなどは大いに参考にし、また、元気づけられました。そういう意味で、もしかしたら、私のブログも反面教師みたいな意味で、どなたかの役に立つかも知れませんね。
関連した投稿:執筆が暗礁に乗り上げて、諦めそうな状況だった頃のこと。
2018/08/22
チョーサーとガワーが出てくる中世ミステリ、Bruce Holsinger, "The Invention of Fire" (Harper, 2015)
Bruce Holsinger, "The Invention of Fire"
(Harper, 2015) 480 pages.
☆☆☆☆ / 5
作者のBruce Holsingerはアメリカのバージニア大学の中世英文学の先生。既に数冊の研究書を出版しており、専門家としてもかなり知られている方のようだ。一方で、近年は中世イングランドを舞台にしたミステリを書き始め、これが2冊目。最初の作品は "A Burnable Book" (2014)でかなり好評を博したようで、今回の本が2冊目。私は、ブログに感想を書きそびれたが、最初の本も去年読んでいて、結構面白かった。私の様に中世英文学に関心のある読者にとっては、彼の本は特に面白い。というのも、主人公が、チョーサーの友人で、今も読み継がれている詩人、ジョン・ガワーに設定されているからだ。そして、チョーサー自身もガワーの友人として出てくるし、14世紀末の世相も色々と細かく反映されていて、日頃勉強してきたことが頻出し、かつ知らない事も多々学べるので楽しい。巻末には筆者が参考にした書籍も書かれている。
さて、小説の場面設定は、1380年代、リチャード2世の治世におけるイングランド、特にほとんどはロンドン市中とその近郊で起きる事件を扱う。ワット・タイラーの乱の後、イングランドの政局は極めて不安定で、若い王の治世の存続が危うくなりつつある。エドワード王時代の終わりには最有力者であったジョン・オブ・ゴーントは、イベリア半島に遠征したまま。権力の空隙を縫って、グロースター公トマス・オブ・ウッドストックが王室を牛耳りつつある。そうした中、糞尿も流れるロンドンの下水用の溝で16人の死体が一気に発見される。ガワーは彼の友人で、ロンドンの治安を預かる司法官の、Common Serjeant of Londonである、ラルフ・ストロード(この人は現実に存在した人で、やはりチョーサーの友人)、及び、王の側近の貴族で大法官(The Lord Chancellor)のサフォーク伯、マイケル・ド・ラ・ポールから、この殺人事件の捜査を依頼される。
何故詩人ガワーがそんな捜査を依頼される設定になっているかというと、当時は文筆で生計を立てることは出来なかったので、公務員であったチョーサーみたいに、ガワーは何らかの生計の手段を持っていたと思われるが、それがはっきり分かってないからだ。但、ガワーがイングランドの法や政治に関心が深かったことが作品からうかがえるので、彼は法律に密接な関係がある職を持っており、ロンドンにかなり存在した法律家のひとりではないかという推測もある。Holsinger先生は、そこで、ガワーが一種の私立探偵として活動し、ロンドンの様々な情報源を操りつつ、事件を解決していくという設定にしているわけ。Holsinger版ガワーは、現存する作品から受ける印象よりもかなりいかがわしい人物で、有力者の弱みを握って情報や譲歩を引き出したり、コインをばらまいて情報を買うと言った、公の司法官ではやりづらい手段を使って活動する。でも当時の役人にとっては、賄賂と正当な収入の差は紙一重だったから、これが実情かも知れない。とにかく、興味深い人物設定だ。
さて、タイトルになっている"The Invention of Fire"だが、この時代、それ以前から戦争で使われてきた火薬を使った砲(canon) が小型化し、近代初期になって戦争の主な武器となっていく火縄銃へと開発が進んでいく時代。14世紀後半から15世紀にかけて使われたのは、hand canon (当時の綴りで、handgonne)と呼ばれ、個々人が携帯可能だったが、いちいち着火しなくてはならず、非常に手間のかかる「銃」で、着火を担当する助手が必要だった。それが助手なしでも操作でき、連続して発射できる火縄銃タイプへと変わっていく時代を背景に、王を脅かす陰謀と、その陰謀で使われる小型の銃器の開発を組み合わせて、ミステリに仕上げているわけである。
チョーサー自身も、ケント州の治安判事(Justice of Peace)という名誉職をやっており、その資格でガワーと共に捜査に加わる時もある。ガワーは使用人はいても一人暮らしの孤独な男で、フィリップ・マーローみたいな一匹狼なんだが、チョーサーは公務員で、形ばかりとは言え家族持ち。ガワーが事件にどんどんのめり込んでいくのに対して、チョーサーにとって人生の主な関心は詩作にあるようだ。こうしたHolsingerの描く二人のキャラクターの違いも面白い。
私にとって特に印象に残ったのは、登場人物のひとりで重要な目撃者、ロバート・フォークがかってケントの海辺の町New Romneyの聖史劇で役者を務めた、というような記述があったこと(Haper社版167頁)。New Romneyの聖史劇の脚本は残っていないが、上演史料が発掘されてはいて、それについて論文がいくつか書かれている。こういうことを書くあたり、さすが専門家、と感心。
色々と興味深い作品だが、ストーリー展開の面白さでは、同じ歴史ミステリでも、C. J. Sansomのマシュー・シャードレイク・シリーズや、エリス・ピーターズの修道士カドフェル・シリーズ等と比べ、いまひとつという印象。スピード感があって息を飲む、という様なところはない。しかし、それを埋め合わせるだけの情報豊かで濃密な雰囲気作りがあり、特に中世ヨーロッパ好きにとっては大変楽しめる作品だ。
(Harper, 2015) 480 pages.
☆☆☆☆ / 5
作者のBruce Holsingerはアメリカのバージニア大学の中世英文学の先生。既に数冊の研究書を出版しており、専門家としてもかなり知られている方のようだ。一方で、近年は中世イングランドを舞台にしたミステリを書き始め、これが2冊目。最初の作品は "A Burnable Book" (2014)でかなり好評を博したようで、今回の本が2冊目。私は、ブログに感想を書きそびれたが、最初の本も去年読んでいて、結構面白かった。私の様に中世英文学に関心のある読者にとっては、彼の本は特に面白い。というのも、主人公が、チョーサーの友人で、今も読み継がれている詩人、ジョン・ガワーに設定されているからだ。そして、チョーサー自身もガワーの友人として出てくるし、14世紀末の世相も色々と細かく反映されていて、日頃勉強してきたことが頻出し、かつ知らない事も多々学べるので楽しい。巻末には筆者が参考にした書籍も書かれている。
さて、小説の場面設定は、1380年代、リチャード2世の治世におけるイングランド、特にほとんどはロンドン市中とその近郊で起きる事件を扱う。ワット・タイラーの乱の後、イングランドの政局は極めて不安定で、若い王の治世の存続が危うくなりつつある。エドワード王時代の終わりには最有力者であったジョン・オブ・ゴーントは、イベリア半島に遠征したまま。権力の空隙を縫って、グロースター公トマス・オブ・ウッドストックが王室を牛耳りつつある。そうした中、糞尿も流れるロンドンの下水用の溝で16人の死体が一気に発見される。ガワーは彼の友人で、ロンドンの治安を預かる司法官の、Common Serjeant of Londonである、ラルフ・ストロード(この人は現実に存在した人で、やはりチョーサーの友人)、及び、王の側近の貴族で大法官(The Lord Chancellor)のサフォーク伯、マイケル・ド・ラ・ポールから、この殺人事件の捜査を依頼される。
何故詩人ガワーがそんな捜査を依頼される設定になっているかというと、当時は文筆で生計を立てることは出来なかったので、公務員であったチョーサーみたいに、ガワーは何らかの生計の手段を持っていたと思われるが、それがはっきり分かってないからだ。但、ガワーがイングランドの法や政治に関心が深かったことが作品からうかがえるので、彼は法律に密接な関係がある職を持っており、ロンドンにかなり存在した法律家のひとりではないかという推測もある。Holsinger先生は、そこで、ガワーが一種の私立探偵として活動し、ロンドンの様々な情報源を操りつつ、事件を解決していくという設定にしているわけ。Holsinger版ガワーは、現存する作品から受ける印象よりもかなりいかがわしい人物で、有力者の弱みを握って情報や譲歩を引き出したり、コインをばらまいて情報を買うと言った、公の司法官ではやりづらい手段を使って活動する。でも当時の役人にとっては、賄賂と正当な収入の差は紙一重だったから、これが実情かも知れない。とにかく、興味深い人物設定だ。
さて、タイトルになっている"The Invention of Fire"だが、この時代、それ以前から戦争で使われてきた火薬を使った砲(canon) が小型化し、近代初期になって戦争の主な武器となっていく火縄銃へと開発が進んでいく時代。14世紀後半から15世紀にかけて使われたのは、hand canon (当時の綴りで、handgonne)と呼ばれ、個々人が携帯可能だったが、いちいち着火しなくてはならず、非常に手間のかかる「銃」で、着火を担当する助手が必要だった。それが助手なしでも操作でき、連続して発射できる火縄銃タイプへと変わっていく時代を背景に、王を脅かす陰謀と、その陰謀で使われる小型の銃器の開発を組み合わせて、ミステリに仕上げているわけである。
チョーサー自身も、ケント州の治安判事(Justice of Peace)という名誉職をやっており、その資格でガワーと共に捜査に加わる時もある。ガワーは使用人はいても一人暮らしの孤独な男で、フィリップ・マーローみたいな一匹狼なんだが、チョーサーは公務員で、形ばかりとは言え家族持ち。ガワーが事件にどんどんのめり込んでいくのに対して、チョーサーにとって人生の主な関心は詩作にあるようだ。こうしたHolsingerの描く二人のキャラクターの違いも面白い。
私にとって特に印象に残ったのは、登場人物のひとりで重要な目撃者、ロバート・フォークがかってケントの海辺の町New Romneyの聖史劇で役者を務めた、というような記述があったこと(Haper社版167頁)。New Romneyの聖史劇の脚本は残っていないが、上演史料が発掘されてはいて、それについて論文がいくつか書かれている。こういうことを書くあたり、さすが専門家、と感心。
色々と興味深い作品だが、ストーリー展開の面白さでは、同じ歴史ミステリでも、C. J. Sansomのマシュー・シャードレイク・シリーズや、エリス・ピーターズの修道士カドフェル・シリーズ等と比べ、いまひとつという印象。スピード感があって息を飲む、という様なところはない。しかし、それを埋め合わせるだけの情報豊かで濃密な雰囲気作りがあり、特に中世ヨーロッパ好きにとっては大変楽しめる作品だ。
2018/08/12
Kenneth Ives(演出)"The Caretaker" (BBCのドラマ, 1981)
Kenneth Ives(演出)"The Caretaker" (BBC1, 1981)
鑑賞した日:2018.7.22
劇場:British Film Institute, Southbank, London
上映時間:2時間
演出:Kenneth Ives
脚本(原作):Harold Pinter
デザイン:Barry Newbery
照明:John Treays
音響:Richard Chubb
出演:
Warren Mitchell (Davis, a tramp)
Jonathan Pryce (Mick)
Kenneth Cranham (Aston)
☆☆☆☆ / 5
Harold Pinterの現代古典、"The Caretaker"を1981年にBBCがテレビドラマにして放送した。私が渡英中、そのドラマがサウスバンクにあるBritish Film Instituteで上映されたので、見に行った。
この劇には非常に単純なストーリーしかない。Davisというホームレスの男を哀れんで、Astonが彼を自分のアパートに住まわせようとする。そこにAstonの兄弟のMickがやって来て、このアパートは自分のものでもある、と絡んできて色々と難癖を付け、Davisを追い出そうとする。しかし、MickはAstonにも大分遠慮があり、ごり押しは出来ず、兄弟の間に一種独特の緊張感が漂う。Davisは2人の間のそうした遠慮のある関係を利用し、「管理人」(The Caretaker)気取りになって何とかアパートに居座ろうとする・・・というような話。
3人の名優の緊迫感溢れる演技が凄い。元々同じ俳優やスタッフでナショナル・シアターで上演された公演を、ステージをスタジオ・セットに移しただけで、そのままやっているようなので、NT Liveを見ているような感じだった。若い頃のJonathan Pryce、「カミソリのような」とでも言いたい演技にすっかり魅せられて、2時間、飽きずに鑑賞した。
Astonの役柄は慈愛溢れるが謎めいていて、やや人間離れしたキリストのような人物。一方Mickはずる賢く、Davisに色々な悪知恵をささやきかけるイアゴーのような役柄。Davisはこの2人の兄弟に振り回され、迷ったり、強気になったり、自分も色々と知恵を巡らしてサバイバルを計る。こうしてみると、善と悪、そしてその2つの要素の間で揺れ動く哀れな「万人」という道徳劇的な構造を持っていることが分かる。但、中世劇ではないので、どの人物もそれ程単純ではなく、キリストのようなAstonも時には暴君になったりもする。それどころか、慈悲深い神、誘惑する悪魔、悩み迷える人間、という3つの極(役柄)をAston、Mick、Davisの3人が交替して演じているようにも見える。
今回の上映の思わぬボーナスは、Astonを演じたKenneth Cranhamが劇場にやって来ており、簡単な挨拶をしてくれたこと。気さくなおじいさんだった。その後、私と同じ列に座って上映を見ていたようだ。
良い作品なのに、イギリスでもDVDなど出ていないのが大変残念。
鑑賞した日:2018.7.22
劇場:British Film Institute, Southbank, London
上映時間:2時間
演出:Kenneth Ives
脚本(原作):Harold Pinter
デザイン:Barry Newbery
照明:John Treays
音響:Richard Chubb
出演:
Warren Mitchell (Davis, a tramp)
Jonathan Pryce (Mick)
Kenneth Cranham (Aston)
☆☆☆☆ / 5
Harold Pinterの現代古典、"The Caretaker"を1981年にBBCがテレビドラマにして放送した。私が渡英中、そのドラマがサウスバンクにあるBritish Film Instituteで上映されたので、見に行った。
この劇には非常に単純なストーリーしかない。Davisというホームレスの男を哀れんで、Astonが彼を自分のアパートに住まわせようとする。そこにAstonの兄弟のMickがやって来て、このアパートは自分のものでもある、と絡んできて色々と難癖を付け、Davisを追い出そうとする。しかし、MickはAstonにも大分遠慮があり、ごり押しは出来ず、兄弟の間に一種独特の緊張感が漂う。Davisは2人の間のそうした遠慮のある関係を利用し、「管理人」(The Caretaker)気取りになって何とかアパートに居座ろうとする・・・というような話。
3人の名優の緊迫感溢れる演技が凄い。元々同じ俳優やスタッフでナショナル・シアターで上演された公演を、ステージをスタジオ・セットに移しただけで、そのままやっているようなので、NT Liveを見ているような感じだった。若い頃のJonathan Pryce、「カミソリのような」とでも言いたい演技にすっかり魅せられて、2時間、飽きずに鑑賞した。
Astonの役柄は慈愛溢れるが謎めいていて、やや人間離れしたキリストのような人物。一方Mickはずる賢く、Davisに色々な悪知恵をささやきかけるイアゴーのような役柄。Davisはこの2人の兄弟に振り回され、迷ったり、強気になったり、自分も色々と知恵を巡らしてサバイバルを計る。こうしてみると、善と悪、そしてその2つの要素の間で揺れ動く哀れな「万人」という道徳劇的な構造を持っていることが分かる。但、中世劇ではないので、どの人物もそれ程単純ではなく、キリストのようなAstonも時には暴君になったりもする。それどころか、慈悲深い神、誘惑する悪魔、悩み迷える人間、という3つの極(役柄)をAston、Mick、Davisの3人が交替して演じているようにも見える。
今回の上映の思わぬボーナスは、Astonを演じたKenneth Cranhamが劇場にやって来ており、簡単な挨拶をしてくれたこと。気さくなおじいさんだった。その後、私と同じ列に座って上映を見ていたようだ。
良い作品なのに、イギリスでもDVDなど出ていないのが大変残念。
"Julie" (Lyttelton, National Theatre, 2018.7.22)
"Julie" (Lyttelton, National Theatre, 2018.7.22)
National Theatre 公演
観劇日:2018.7.22 7:30-8:45
劇場:Lyttelton, National Theatre
演出:Carrie Cracknell
脚本:Polly Stenham, based on "Miss Julie" by August Strindberg
デザイン:Tom Scutt
照明:Guy Hoare
音響:Christopher Shutt
音楽:Stuart Earl
出演:
Vanessa Kirby (Julie)
Eric Kofi Abrefa (Jean)
Thalissa Teixeira (Kristina)
☆☆☆ / 5
スウェーデンの劇作家August Strindberg (1849-1912)による1888年の古典、"Miss Julie"、をベースにして、現代イギリスの劇作家Polly Stenhamが舞台を今のロンドンに置き換えた新作。主人公のJulieは金持ちの娘で30歳位。親の立派な屋敷に住み、親の金で養われており、執事のJeanやメイドのKristinaなどの使用人を使っている。Jeanは黒人俳優、Kristinaはアジア系俳優が演じることにより、自然とStrindbergの原作にはないひねりが入った。Julieは特に目的も野心もなく、酒と麻薬と空疎なパーティーに溺れて暮らしている。一方、使用人2人はそれぞれ地道な努力を重ね、今の仕事を踏み台にして、新しい仕事、新しい人生見つけようと夢見ている。原作には元々進化論の影響が濃いそうで、労働者階級が、退廃した暮らしに溺れるブルジョアを乗り越えていく様子を描いているのだが、それは19世紀末だけでなく、現代にも上手く当てはめられている。
但、何だかそれだけの劇で、それ以上の政治的なメッセージなどは窺えず、物足りなかった。時間も1時間15分程度で短すぎる。Strindbergの原作は、北欧の短い夏を楽しむ享楽的な感覚と傾きつつあるブルジョアの退廃が、独特の雰囲気をかもし出し、チェーホフ的な味わいが魅力だと思ったのだが、このバージョンはそれに代わる魅力を付け加えることが出来てない。一方で良かったのは、2人の主演者、Vanessa KirbyとEric Kofi Abrefaの演技。彼らの説得力あるやり取りを見るだけで、あっという間に短すぎる上演時間が過ぎた。
こうしてみると、今回のロンドン滞在中3本の劇を見たけど、私の劇の内容に関する好みもあるが、3本とも女性演出家による。演出家に女性が増えている事は、イギリスの演劇界において女性の地位が高まっていることを示しているのではないだろうか。
National Theatre 公演
観劇日:2018.7.22 7:30-8:45
劇場:Lyttelton, National Theatre
演出:Carrie Cracknell
脚本:Polly Stenham, based on "Miss Julie" by August Strindberg
デザイン:Tom Scutt
照明:Guy Hoare
音響:Christopher Shutt
音楽:Stuart Earl
出演:
Vanessa Kirby (Julie)
Eric Kofi Abrefa (Jean)
Thalissa Teixeira (Kristina)
☆☆☆ / 5
スウェーデンの劇作家August Strindberg (1849-1912)による1888年の古典、"Miss Julie"、をベースにして、現代イギリスの劇作家Polly Stenhamが舞台を今のロンドンに置き換えた新作。主人公のJulieは金持ちの娘で30歳位。親の立派な屋敷に住み、親の金で養われており、執事のJeanやメイドのKristinaなどの使用人を使っている。Jeanは黒人俳優、Kristinaはアジア系俳優が演じることにより、自然とStrindbergの原作にはないひねりが入った。Julieは特に目的も野心もなく、酒と麻薬と空疎なパーティーに溺れて暮らしている。一方、使用人2人はそれぞれ地道な努力を重ね、今の仕事を踏み台にして、新しい仕事、新しい人生見つけようと夢見ている。原作には元々進化論の影響が濃いそうで、労働者階級が、退廃した暮らしに溺れるブルジョアを乗り越えていく様子を描いているのだが、それは19世紀末だけでなく、現代にも上手く当てはめられている。
但、何だかそれだけの劇で、それ以上の政治的なメッセージなどは窺えず、物足りなかった。時間も1時間15分程度で短すぎる。Strindbergの原作は、北欧の短い夏を楽しむ享楽的な感覚と傾きつつあるブルジョアの退廃が、独特の雰囲気をかもし出し、チェーホフ的な味わいが魅力だと思ったのだが、このバージョンはそれに代わる魅力を付け加えることが出来てない。一方で良かったのは、2人の主演者、Vanessa KirbyとEric Kofi Abrefaの演技。彼らの説得力あるやり取りを見るだけで、あっという間に短すぎる上演時間が過ぎた。
こうしてみると、今回のロンドン滞在中3本の劇を見たけど、私の劇の内容に関する好みもあるが、3本とも女性演出家による。演出家に女性が増えている事は、イギリスの演劇界において女性の地位が高まっていることを示しているのではないだろうか。
Robert Graves, "But It Still Goes On" (Finborough Theatre, 2018.7.19)
Robert Graves, "But It Still Goes On" (Finborough Theatre, 2018.7.19)
公演 Finborough Theatre: London
観劇日:2018.7.19 7:30-9:30
劇場:Finborough Theatre
演出:Fidelis Morgan
脚本:Robert Graves (但、Fidelis Morganにより大分改変されているとのこと)
デザイン:Doug Mackie
照明:Matthew Cater
音響:Benjamin Winter
衣装:Lindsay Hill
出演:
Alan Cox (Dick Tompion, a poet)
Jack Klaff (Dick's father, a writer)
Sophie Ward (Charlotte Tompion)
Victor Gardener (David Casselis)
Rachel Pickup (Dorothy Tompion)
☆☆☆ / 5
Robert Graves 1895-1985) は小説、伝記、劇作、詩作など、様々のジャンルで活躍した大変多作な作家だった。アラビアのローレンスの伝記("Laurence of Arabia" [1927])や、BBCがテレビドラマにした歴史小説 "I Caludius" (1934), "Claudius the God" (1934)などで今も知られている。この劇は、第一次世界大戦の戦場を描いて大ヒットした劇、R. C. Sherriff, "Journey's End" の続編のような位置づけの作品としてGravesに執筆依頼された劇らしいが、出来上がった作品はプロデューサーのお気に召さず、結局お蔵入りになってしまい、今回の上演が初演とのことだ。
主人公のAlanは詩人で、第一次世界大戦中陸軍将校として出征し、熾烈な塹壕戦を経験し、大きなトラウマを背負っている。一見お調子者のような軽い態度を取っているが、内心は非常に複雑のようだ。また、豊かな有名作家の父親に養われており、その負い目もある。一家の友人のCharlotteとDavidはどちらも当時は法律の上で違法な存在だった同性愛者で、それを隠して生きている。豊かなミドルクラスの文化人達の、古き良き時代の面影がまだ残る両大戦感のサロンを描いた「客間喜劇」(a drawing room comedy)。但、Alanの抱えた戦争のトラウマに加え、二人の同性愛者を取り上げたところがこの時代としては画期的だ。特に、レズビアンを扱った劇はおそらく皆無ではなかろうか。結局この劇を上演できなかったのもそれが主な理由かも知れない。
ただし、私には台詞を聞き取るのが難しすぎ、あまり良く理解したとは言えないのが大変残念。
公演 Finborough Theatre: London
観劇日:2018.7.19 7:30-9:30
劇場:Finborough Theatre
演出:Fidelis Morgan
脚本:Robert Graves (但、Fidelis Morganにより大分改変されているとのこと)
デザイン:Doug Mackie
照明:Matthew Cater
音響:Benjamin Winter
衣装:Lindsay Hill
出演:
Alan Cox (Dick Tompion, a poet)
Jack Klaff (Dick's father, a writer)
Sophie Ward (Charlotte Tompion)
Victor Gardener (David Casselis)
Rachel Pickup (Dorothy Tompion)
☆☆☆ / 5
Robert Graves 1895-1985) は小説、伝記、劇作、詩作など、様々のジャンルで活躍した大変多作な作家だった。アラビアのローレンスの伝記("Laurence of Arabia" [1927])や、BBCがテレビドラマにした歴史小説 "I Caludius" (1934), "Claudius the God" (1934)などで今も知られている。この劇は、第一次世界大戦の戦場を描いて大ヒットした劇、R. C. Sherriff, "Journey's End" の続編のような位置づけの作品としてGravesに執筆依頼された劇らしいが、出来上がった作品はプロデューサーのお気に召さず、結局お蔵入りになってしまい、今回の上演が初演とのことだ。
主人公のAlanは詩人で、第一次世界大戦中陸軍将校として出征し、熾烈な塹壕戦を経験し、大きなトラウマを背負っている。一見お調子者のような軽い態度を取っているが、内心は非常に複雑のようだ。また、豊かな有名作家の父親に養われており、その負い目もある。一家の友人のCharlotteとDavidはどちらも当時は法律の上で違法な存在だった同性愛者で、それを隠して生きている。豊かなミドルクラスの文化人達の、古き良き時代の面影がまだ残る両大戦感のサロンを描いた「客間喜劇」(a drawing room comedy)。但、Alanの抱えた戦争のトラウマに加え、二人の同性愛者を取り上げたところがこの時代としては画期的だ。特に、レズビアンを扱った劇はおそらく皆無ではなかろうか。結局この劇を上演できなかったのもそれが主な理由かも知れない。
ただし、私には台詞を聞き取るのが難しすぎ、あまり良く理解したとは言えないのが大変残念。
Sophie Treadwell, "Machinal" (Almeida Theatre, London, 2018.7.17)
Sophie Treadwell, "Machinal" (Almeida Theatre)
公演: Almeida Theatre, London
観劇日:2018.7.17 7:00-8:30
劇場:Almeida Theatre
演出:Natalie Abrahami
脚本:Sophie Treadwell
デザイン:Miriam Buether
照明:Jack Knowles
音響・音楽:Ben and max Ringham
振付:Arthur Pita
衣装:Alex Lowde
出演:
Emily Berrington (Helen, a young woman)
Jonathan Livingstone (Jones, Helen's husband)
Dowane Walcott (Helen's lover)
Denise Black (Helen's Mother)
☆☆☆☆ / 5
先月、用があって9日間ほどロンドンに行っていた。その間、3本劇を見た。もうそれから一月近く経ち、記憶力に乏しい私は殆ど何もかも忘れかけているが、記録を取っておかないと見たかどうかさえ直ぐに忘れてしまうので、ここに簡単に記録しておく。この劇はロンドンに着いた翌々日に見た作品で、短い劇(約1時間半)なのに最初の方は時差ボケでしばらくうとうとしてしまったが、それでもかなり面白かった。
この劇は1928年に書かれ、滅多に上演される事のない作品のようだ。内容は、広い意味で、フェミニスト劇と言えそうだ。近代的なオフィスで働く若い女性ヘレンが、仕事場と家庭で個性と自立への願望を圧殺される。主人公の女性は機械的な仕事をこなす事務職だが、職場では上役の(今で言えば)セクハラ・パワハラに晒され、家では女性の古い生き方の枠組に娘を押し込めようとする母親に抑圧される。彼女は愛人を作り、夫を殺し、裁判にかけられ、死刑になる。そういうストーリーを、10位の細かなエピソードに区切って、まるで映画のニューズ・フラッシュのように表現する。リアリズムではなく、特に前半、誇張した台詞や演技が多用される。所謂表現主義の作品とのこと。女性の抑圧された状況を告発すると共に、高度に産業化された社会における不毛で非人間的な労働や家庭生活を描く作品という印象を持った。
救いようのないストーリーで気分が暗くなる作品だが、見る価値はおおいにあった。
公演: Almeida Theatre, London
観劇日:2018.7.17 7:00-8:30
劇場:Almeida Theatre
演出:Natalie Abrahami
脚本:Sophie Treadwell
デザイン:Miriam Buether
照明:Jack Knowles
音響・音楽:Ben and max Ringham
振付:Arthur Pita
衣装:Alex Lowde
出演:
Emily Berrington (Helen, a young woman)
Jonathan Livingstone (Jones, Helen's husband)
Dowane Walcott (Helen's lover)
Denise Black (Helen's Mother)
☆☆☆☆ / 5
先月、用があって9日間ほどロンドンに行っていた。その間、3本劇を見た。もうそれから一月近く経ち、記憶力に乏しい私は殆ど何もかも忘れかけているが、記録を取っておかないと見たかどうかさえ直ぐに忘れてしまうので、ここに簡単に記録しておく。この劇はロンドンに着いた翌々日に見た作品で、短い劇(約1時間半)なのに最初の方は時差ボケでしばらくうとうとしてしまったが、それでもかなり面白かった。
この劇は1928年に書かれ、滅多に上演される事のない作品のようだ。内容は、広い意味で、フェミニスト劇と言えそうだ。近代的なオフィスで働く若い女性ヘレンが、仕事場と家庭で個性と自立への願望を圧殺される。主人公の女性は機械的な仕事をこなす事務職だが、職場では上役の(今で言えば)セクハラ・パワハラに晒され、家では女性の古い生き方の枠組に娘を押し込めようとする母親に抑圧される。彼女は愛人を作り、夫を殺し、裁判にかけられ、死刑になる。そういうストーリーを、10位の細かなエピソードに区切って、まるで映画のニューズ・フラッシュのように表現する。リアリズムではなく、特に前半、誇張した台詞や演技が多用される。所謂表現主義の作品とのこと。女性の抑圧された状況を告発すると共に、高度に産業化された社会における不毛で非人間的な労働や家庭生活を描く作品という印象を持った。
救いようのないストーリーで気分が暗くなる作品だが、見る価値はおおいにあった。
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