2018/08/28

7月20日、学位授与式に出席しました。

7月20日、ケント大学のPh.D(博士号)の学位授与式に出席しました。その後、大学院生として所属してきた中世・近代初期研究センター(Centre for Medieval and Early Modern Studies)の指導教授、学科のセクレタリー、励ましていただいた元の勤務先の同僚など、ここ数年間にお世話になった方々にご報告とお礼のメールを書いてきました。私が仕事を辞めてイギリスに渡って博士課程を始めたのは2008年の9月です。2011年の夏には日本に帰国し、非常勤講師などしつつ勉強を続けてきました。この夏で最初に始めてから10年間経ちました。私もすっかり歳を取り、元々虚弱体質でもあるので、心身共に元気が無くなりました。本当に長い年月が過ぎたと思います。それだけに、何とか重い重い肩の荷を下ろせて、安堵しています。式から1ヶ月以上経ち、少しずつ記憶が薄れてきました。元々忘れっぽい上に、老人の私ですから、何もかも忘れてしまう前に、卒業式のことを書いておきたいと思います。

論文そのものを提出したのは去年の4月始めなので、その時点での感慨のほうがずっと大きくて、今回は観光旅行に行ったような気分でした。でも両親や妻、妹が喜んでくれたのが、とても嬉しかったです。またメインのスーパーバイザー(論文指導教授)も大変喜んでくれました。論文を書き終えられたのは本当に彼のおかげ。感謝しきれません。メインのスーパーバイザー(G先生)も、セカンド・スーパーバイザー(B先生)も、2001ー02年にMAを取った時にもお世話になった先生達。特にG先生は、私よりも5才ほど年上ですが、私が始めてから2年くらいで大学を退職されたのに、その後もずっと私の指導だけは公式に引き受けて下さいました。手当は僅かでしょうけど、一種の非常勤講師のような扱いだったようです。彼は、引退後はアカデミズムから離れて世界中を旅しておられ、趣味も沢山で引退生活を大いに楽しんでおられるようですが、律儀に私の草稿を読んでコメントを下さいました。私が既に教員としてのキャリアが長いことを考慮されたのか、指導学生と言うより友人として遇していただいたと思います。それで、私がマイペースになりすぎ、なかなか書き進めなかったかもしれません。でも、もし彼が私を叱咤激励し、時には鞭打つような事を言って急き立てていたら、きっと私は最後までやりおおせなかったでしょう。それでなくても、後半は自分の力に余る事をやっていると思って、いつ辞めるべきか、とずっと考えていたのですから。

セカンド・スーパーバイザーのB先生は、既に大学を引退したG先生に代わって、学科との連絡をし、事務的なアドバイスをしていただきました。また、論文が一応出来上がった時点で、論文全体の構成についての的確なアドバイスには助けられました。彼は私が最初にケント大学に見学に来た2000年の夏休みに、自らキャンパスを案内して下さり、更に2001年4月から翌年3月まで日本の学年暦に沿って研修期間が取れると言うと、その期間に合わせてMAを取れるようにしてあげようと言ってくださったのでした。おかげでケント大学でMAが取れることになり、その後にはPh.Dをやりたいという気持ちも芽生えました。この二人のおかげで学位が取れた、とつくづく思います。

Ph.D 論文に取り組んでいる間、色々な方にお世話になったのですが、中でも一番親切に励まして下さり、最もこの報告をしたかった関西にお住まいのM先生が音信不通になって居るのが辛いです。家族を除くと、私の論文の完成を最も望んで下さった方と思います。私は、一度だけ学会のシンポジウムに参加させてもらったことがあって、その時に私を誘って下さったのがM先生でした。論文執筆中、度々直筆の手紙や葉書、更に電話も頂いたのですが、昨年の初め、重病にかかっていてもう長くは生きられないとの知らせがあり、その後、昨年5月21日消印の葉書が最後になりました。その葉書は、4月に提出した論文を製本してお送りしたことへのお礼が書かれていました。その後は、9月に口頭試問が終わった直後や、10月の最終的な合格通知を受け取った後、ご報告の手紙を出したのですがお返事はありませんでした。M先生と連絡があるかもしれないと思った先生方に消息を聞いてみたのですが、ご存じありませんでした。正直言って、恐らく既にお亡くなりになっているだろうと思います。その事を考えると、2年早く提出しておれば間に合ったのに、と大変申し訳なく思います。

さて、式は7月20日の午前中だったのですが、私は海外旅行をすると、そして特に時差の大きな国に行くと、しばらくは腹痛などかなり体調を壊すので、用心して14日にロンドンに到着し、20日の卒業式に備えました。着いてから20日までに劇を2本見たり、ロンドンに住むメイン・スーパーバイザーに挨拶をしに行ったりしていました。式は午前10時30分から、そしてレンタルのガウンを受け取る時間は8時半からでしたので、19日の午後にカンタベリーに行き、B&Bに一泊しました。

ケント大学カンタベリー校(メイン・キャンパス)の卒業式(学位授与式)はカンタベリー大聖堂で開かれます。私の所属する中世・近代初期研究センターは学科横断の学際研究センターで、学生は大学院生だけで学部生はいません。従って私の所属するセンターから卒業式に出るのは僅かです。卒業式は年に2回あります。学部生のほとんどは7月に卒業式を迎えますが、これが日本の3月の卒業式に当たります。従って、広大なカンタベリー大聖堂の建物でも、到底一度には出席者を収容できません。今年は7月16日から20日まで5日間、それも月曜から木曜までは毎日3回、卒業式が行われました。学長は全部の式に出席し、祝辞を述べるのだろうと思いますが、そうだとすると大変ですね。私の所属するセンターでは、11月の卒業式に8月末に修士論文を提出した修士(MA)の学生のほとんどが卒業するので、10名以上の出席があると思うのですが、7月の卒業式は、論文提出の期日が規則で決まっていない博士課程の学生が2,3名というところでしょう。今回も2名でした。そばに並んでいた同じセンター所属の一人とは少し言葉を交わしましたが、私が日本に帰国した後に入学した学生なので、会ったことのない人でした。その他大聖堂は学生と家族や友人などで一杯でしたが、この回の学生の専攻分野は、歴史や文学、哲学、映画研究など人文科学の分野のようでしたが、とにかく知り合いはいませんでした。元々、カンタベリーに住んでいる間も全く友人は出来なかったので、それは気になりませんでした。但、写真を撮ってくれる人が居ないのには困りました。幸い、立派なガウン姿の写真を撮ってくれるプロの写真屋さんが出店していて、ほとんどの人がそこで写真を撮ってもらうので、私もそうしました(もちろん、結構なお値段ですけど)。後は適当に暇そうな学生さんを捜して、2,3枚撮って貰いました。

式は午前10時30分に始まりましたが、卒業生はまず決められたガウンを取りに行き(もちろん有料)、大聖堂の決められた場所で受付(registration)を済ませて式の入場券を貰い、そして式の始まる30分くらい前に大聖堂を囲む回廊の所定の場所に整列します。私は大聖堂から10分程度のところのB&Bに泊まっていたのですが、8時には宿舎を出て、決められた作業を済ませました。ちょっと早すぎて時間がかなり余りました。

式が始まる前には保護者など、学生や大学関係者以外の人達は既に着席しています。その上で、まず、私も含め、卒業生が生演奏の吹奏楽団の演奏と共に行列して(procession)入場します。大学院生は、学部生の後を歩きます。その後に教授達、そして名誉博士号を授与される方が入場します。そしてここで出席者全員が起立した後、最後に学長や副学長など、大学首脳部が入場します。またこの行列の一部として、mace(職杖[しよくじよう])と呼ばれる儀礼の杖が運び込まれます。この杖は、大学が、王室から大学としての認可(Royal Charter)を受けたことを示す具体的な印だそうです。こういう具合に、行列を中心として儀式が組み立てられる点は、非常にヨーロッパ的で、古代や中世以来の伝統を感じます。

式が始まると、イギリスの大学では名誉職である学長(Chancellor)や日本の学長にあたる副学長の挨拶、名誉博士号の授与と授与された方の挨拶などがあります。式が11回もあるので、毎回名誉博士号を授与される出席者は一人のようです。私の出た式では、Philip Howardさんという有名な料理家でした。ケント大学の卒業生で、大学では微生物学を専攻されたそうです。大学時代の自由な興味の広がりを、その後の人生においても生かす事が大切、というようなお話でした。 その後、式の主体である学位授与に入ります。日本の大学で普通する様に、まとめてひとりの代表が学位記を受け取るというのではありません。卒業する学部生と大学院生がひとりひとり名前を呼ばれて学長の前に進み出て、学位記(卒業証書)を受け取ります。これに1時間くらいかかります。この卒業する学生の事を英語で 'graduand(s)' というそうですが、今回初めて知りました。Ph.D の学生の場合、学位記を受け取る時に学長がガウンの襟に当たる部分を付けてくれることになっていますので、その折には、一言二言言葉をかけてくれます。

現在のケント大学の学長は、元のBBCジャーナリストで現在は作家のガヴィン・エスラー(Gavin Esler)さんです。彼はスコットランド出身ですが、大学の学部はケント大学の 英文科(School of English)卒 で、英米文学を専攻し、卒業後は、同じく文学で、リーズ大学大学院のMAを取っています。私は、彼がBBCに居た頃出演していたNewsnight や Hard Talk などの討論番組をしばしば見ていました。そうした番組に相応しい、大変舌鋒鋭いジャーナリストでしたが、現在は作家としての仕事に集中しているようです。そのエスラーさんが私のガウンの襟を付けて下さる時、「私の娘は今日本に居るよ」とおっしゃいました。後でネットで検索して見たのですが、長女はロンドン大学アジア・アフリカ研究所を出た後、日系企業に勤めておられるようです。私は、「長らくあなたのファンなんです」と言いましたら、笑っていました。まあ、実際ファンですから(^_^)。

式が終了した後は、入場したのとは逆の順番で出席者が退場しました。私はレンタルしていたガウンを返却し、B&Bに戻って預けていた荷物を受け取って、駅に行き、ロンドンの宿舎に向かいました。

博士論文の口頭試問は昨年2018年9月11日にあり、その時に既に小さな間違いの訂正を済ませれば合格(pass with minor corrections)と言われていました。そして、多分9月中には修正版の論文を提出し、10月末(10月27日)には、試験官の再チェックも終わって、最終的に合格したとの連絡がセクレタリーからありましたので、その時点で卒業できることは分かっていました。形式としての卒業式のためだけに、沢山の費用を使って出かけるのは贅沢すぎると思って、当初は行かないつもりでした。でも、高齢の両親が学位取得をとても喜んでくれたので、彼らに写真を見せるだけでも行く甲斐はあると思い、出かけることにしました。こうして出席してみると、やはり行って良かったとつくづく思います。両親や妻、妹に喜んで貰えたし、更にG先生に直接お礼を言えたのも大変良かったです。式には妻も一緒に来たいと言っていたのですが、どうしても仕事が休めずにそれは叶わず、結局、誰も知り合いのいない式になり、いささか寂しい想いはありました。式の後、G先生に送った報告メールで、知り合いがいなくて写真を撮ってくれる人を捜すのに困った、と書いたら、「自分が行けば良かった、でも式に同行できる人数は限られているので、当然家族が行くのだろうと思っていた」と返事がありました。しかし、彼はロンドンに住んでいるし、式に出るためには朝非常に早くお家を出なければならないから、とても出席をお願いできません。いずれにせよ、ヘスラー学長と短くても言葉を交わせたのはとても良い思い出だし、ロンドンへ戻る電車の中では、何とも言えない満足感に包まれました。早い人は3年で終わるところを、何しろ10年もかかってしまったことは研究者としては大変恥ずかしいのですが、しかし、自分の人生で最大と言って良いプロジェクトをやり遂げたことは、他の学生と比べて見劣りがしても、とても満足です。更に、イングランドの大学で英米人の学生に混じって英文学、それも中世英文学という分野で博士号を取得出来たのは、どんなに長い時間がかかっても、もともとこんな大それた事をやるほどには頭の良くない私にとって、出来すぎと言えるでしょう。

さて、長文になったので、今回はここで一旦終わります。でも、口頭試問の事や論文の提出前後の事など、色々、自分のための備忘録として書いておきたいことはあるので、後日、ここに書こうと思っています。また、私が論文で悪戦苦闘している間、博士論文に取り組んでおられる方々のブログが参考になりました。特に、当時はブラッドフォード大学におられ、今は日本で国際協力が専門の大学教員をされているTakaoさんのブログや、イギリスの日本語教師、デコボコ・ミチさんのブログなどは大いに参考にし、また、元気づけられました。そういう意味で、もしかしたら、私のブログも反面教師みたいな意味で、どなたかの役に立つかも知れませんね。

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