2011/08/14

ロンドン暴動からチョーサーにさかのぼる:Magistrates' Courtsが24時間フル操業


(写真:Westminster Magistrates' Court)

ロンドン暴動の法的後始末が始まっている。店を壊して侵入し商品を盗んだりした人々が、法廷に呼び出され、早速刑を言い渡されている。イングランドとウェールズにおいて、こうした軽い犯罪を犯した人を裁くのがMagistrates' Coiurtと呼ばれる簡易裁判所。暴動の時に限らず、日頃から犯罪事件の大多数はこうした軽罪 (misdemeanor, minor offence、これに対し重大犯罪は、felony) であるのはどこの国でも同じであるが、イングランドにおいてはこれらの犯罪で6ヶ月以内の刑を受ける程度の犯罪については治安判事(Magistrate, 別名Justice of Peace、略してJP) による即決裁判となる。判事が警察官や証人、被告等から事情を聞いて、その場で刑を宣告したり、釈放したりする。暴動後数日間、Westminster Magistrates' Courtは、非常時のため、コンビニ並の24時間開廷をし、そしてこの週末もさすがに24時間ではないが夜まで開廷して、裁判を行っているそうだ。暴動に加わり物盗りをした人などはこれで収監される。ひどい怪我を負わせたりして、それ以上の刑になると判断された場合には、通常の刑事裁判所(Crown Court)に回される。その場合には、結果的にMagistrate's Courtが予備審問をしたという役割になる。このMagistratesという治安判事の多くは、無給のボランティア(必要経費は出る)で、選ばれるためには、大学や法曹学院などでの法律教育は必要とされていない(アマチュアのMagistratesの他に、プロの法律家で、法務省に雇われたDistrict Judgeという人達もいる)。但、判事になる前の3ヶ月の研修があり、実際の裁判においては知識と経験豊富な事務官のアドバイスなどあり、また、社会経験の豊かな地元のリタイアした有力者、人格者などが多く選ばれるようである。日本では、参審制の導入に伴い、英米の陪審員制度が、司法における市民参加として広く知られるようになったが、このMagistrates' Courtも同じくらい重要な市民の司法参加である。イングランドの民主主義は、立法府の議員選出における市民の役割と共に、こうした司法における市民参加が重大な柱として欠かせないものになっている。「お上」意識が強く、弁護士や職業裁判官などの「先生」と尊称される専門家を非常にありがたがる日本人には、なかなか理解しがたい制度かも知れない。しかし、これはイギリスの長い民主主義の成立の歴史の中で定着した制度である。

このMagistrateという役割の源は、12世紀のRichard Iの治世にさかのぼることが出来るようだが、制度として確立したのは14世紀前半、Edward IIIの治世である。従ってチョーサーの生きた時代には広く行き渡っていて、『カンタベリー物語』でも出て来る。巡礼のひとりに地主(Franklin, 「郷士」とも訳されている)がおり、彼は金持ちの大地主で、客にいつもふんだんに食事をもてなして気前の良さを見せている。序歌(The General Prologue) での彼の紹介において、チョーサーは次の様に述べる:

At sessiouns* ther was he lord and sire.     (judicial sessions)
Ful oft time he was knyght of the shire.
  . . . . .
A shirreve* had he been, and contour*.    (sheriff / auditor)
Was nowher switch a worthy vavasour*.   (land-holder)
(General Prologue, ll. 355-56, 359-60)

(拙訳)
彼は法廷では裁判官をつとめた。
しばしば彼は国会議員であった。
・・・・
彼は州の代官や会計監査をしたこともあった。
どこにも彼ほど立派な地主は居なかった。

このように、この地主 (Franklin) は大変立派な地域の有力者で、色々と役職をやっている。Knight of the Shireというのは、今で言うところの国会議員、 Member of Parliament (MP)、である。彼は"sessiouns"でlordとかsir、つまり指導者を務めると書いてあるが、このsessionsとは、judicial sessions、つまり裁判のこと。しかし、訓練を積んだ正式の弁護士や裁判官はこの時代既に沢山いたが、彼はそういう人ではなく、法律のアマチュアであるので、治安判事(Magistrate)の役を務めたと仮定できる。詩人チョーサー自身も、本業は税官吏などの公務員であったが、その一方で治安判事を務めたのは、多くの方がご存じだろう。また彼はケント州の国会議員を務めてもおり、従って、このFranklinの背景には自分の経験がかなり重なっていたことと想像できる。飲み食いやもてなしが大好きなこのエピキュリアンの地主の性格は、富裕なワイン商人の家の出身で、残っている写本にある肖像によると、中年太りしてお腹が出ているチョーサーにぴったりである。

更に引用に"shirreve"(今の英語で、"sheriff")とあるが、これはイングランドの州 (shire, county) の長官である。これは中世前半のアングロ・サクソン時代からある国の役職 (royal official) であるが、今のアメリカの州知事とか日本の県知事のような公務員とは違い、もともと各州に住んでいる地元の有力なジェントリーや地主などの間から王室が任命した人達である。こうした州の代官(州長官とも訳される)は、徴税などの行政事務も担当するが、治安維持も重要な仕事で、日本の代官と似て、それぞれ裁判を行い、犯罪を罰したり、市民間の争いを裁定したりした。従って、引用中の"sessiouns"にも、そういう意味もあるかも知れない。この州の代官という仕事(sheriff)については今のところ私はは良く知らないのだが、これから色々と時間をかけて勉強したいと思っているテーマである。というのは、文学にもかなり関係しているから。日本人にもお馴染みのロビン・フッド伝説で出てくるノッティンガムの悪代官は子供向きの本や、ケビン・コスナー主演の映画などで知っている人も多いだろう。ロビン・フッド伝説は中世末から近代初期にかけて多く書かれ、その後も大衆文化に定着したイギリスの義賊の話であるが、このように代官が悪役にされている。同様に、代官の腐敗、あるいは王権との摩擦はしばしば他の中世の文献でも諷刺されている。

なお、sheriffという役職は、米国の保安官の他にも英語圏の各国で今も残っており、イングランドでも"High Sheriff"という儀式などに登場する役割として存在するようだし、スコットランドでは、Magistrates' Courtsの上に位置する裁判所がSheriff Courtsであり、この場合のsheriffは法曹教育を受けたプロフェッショナルで、多くの犯罪における第一審の役割を果たすとのことだ。

courtやlegal court(法廷)と言っても、今と違いその為に専用として使われる立派な建物を指すことはほとんどない。また、そういう建物は中世はほとんど無かった。裁判は野外の広い場所で行われることもあり、また、多くはギルド・ホール(今の市庁舎)の広間のような多目的に使われる広間で行われた。中世や近代初期においては、思い出すのも難しいくらい様々な種類の裁判が存在したが、職業的な法律家によって常設的に開かれるのは首都の王室裁判所(The Court of King's Bench, The Court of Common Pleas, The Court of Exchequer等)くらいで、他の各種の裁判は年に数回とか、月1回など開かれ、数日間続く、といったものが多かった。

14世紀に出来た市民の裁判官による裁判所が、未だに数の上ではほとんどの犯罪を裁いているのがイギリスの司法制度であり、これに重罪を裁く上級刑事裁判所、Crown Courtsでの陪審員制度を加えれば、如何にイギリスの司法に市民が密接に関与しているかが実感される。

(追記)速やかな正義の実現をという世論に押されて、Magistrates' Courtsをフル回転して、暴動に関わった被告を裁くことについては、あまりに性急すぎて、充分な吟味が出来ていない恐れがあるとの声がLaw Society(事務弁護士[solicitors]の団体)から上がっている。裁判官や事務官が夜も寝ずに審理を続けるなんてとんでもないことだ。被告自身も、ちゃんと考えた申し開きが出来にくいし、弁護士も疲労困憊することだろう。軽い刑の判決とは言え、前科がつき、仕事を辞めて刑務所に入れば、被告の人生は大きく違ってくる。日頃と同じだけの時間と慎重さをもって審理して欲しいものだ。これついてはこちらの記事参照。

(お断り:私は、法学や法制史の素人ですから、間違いがある可能性も高いので、鵜呑みにしないで下さい。もし、間違いやMagistrates' Courts、中・近世イングランドの裁判制度等について付け加えて下さることなどあれば、コメント欄でお教えいただければ幸いです。)

2011/08/12

"Loyalty" (Hampstead Theatre, 2011.8.5)

イラク戦争開戦の前後をブレアー首相側近の家庭を通して描く
"Loyalty"





Hampstead Theatre公演
観劇日:2011.8.5  15:00-17:00
劇場:Hampstead Theatre

演出:Edward Hall
脚本:Sarah Helm
セット:Francis O'Connor
照明:Ben Ormerod
音響:Paul Groothuis
衣装:Caroline Hughes

出演:
Maxine (Laura)
Loyd Owen (Nick, Laura's partner and Tony's chief of staff)
Anna Koval (Marisia, their baby sitter)
Patrick Baladi (Tony, Prime Minister)
Stephen Critchlow (Tom, a bureaucrat at Prime Minister's office)
Colin Stinton (James, a former director of CIA)
Michael Simkins (C. a head of British intelligence service)
最後の二人は他にも背景に流れる声で、アナン国連事務総長他、色々な役を演じる。

☆☆☆☆ / 5

大分前に劇場からチラシを送ってきてすぐ切符を買ったが、公演が始まるとあまり評判が良くない。Sarah Helmはジャーナリストとしてかなりのキャリアを持つ人だが、劇作はこれが初めてなので、やはり慣れないことは難しいのか、と思いつつ出かけた。しかし、嬉しいことに予想を裏切って、私にとっては大変面白い公演だった。私はもともとこういう"the state of the nation play"(国家の状況を表現する政治劇)が大好きである。このジャンルの作品で、典型的なのは、David Hareの作品であるが、この劇はHareの傑作、"Stuff Happens"と同じトピックを扱っている。"Stuff Happens"はNationalのOlivierの巨大なステージをたくさんの役者で一杯にして、英米の実名の政治家の台詞によりイラク戦争開戦を分析する大変スケールの大きい意欲作であったが、Hamstead Theatreという小劇場で上演されたこの作品は、ずっと慎ましい。当時の首相Tony Blairの側近、Nickと、彼と同居し子供も居るパートナーのLauraの目を通して、Tony Blairが開戦(2003年3月20日)の直前、どう考え、そしてその後、WMD (Weapons of Mass Destruction、原爆や化学兵器などの大量破壊兵器)が発見されないとはっきりした時に、どのようにそれを糊塗したかを、親密な視点から描く。

描かれていることは既に大抵の日本人でも知っていることである。健忘症の私は忘れかけていた。ブッシュ政権は何とかしてイラク侵攻を始めたくてうずうずしていて、その為にはどんな些細な、出所の怪しい情報でさえも使う。大統領自身は、ラムズフェルドやチェイニーなどの強硬派の言うなりで主体性がない。ブレアーは、何とか多くの国を巻き込み、国連の承認を得て開戦したいと思って奔走する。その国連を説得するためには、イラクが密かにWMDを開発しているかどうかが鍵になっており、アメリカはそのことに間違いはないと言うが、どこにも証拠はない状態で開戦に踏み切る。

勿論、衆知のように、イラク政府の崩壊後、第三者機関による徹底的な調査が行われたがイラクのどこにもWMDは発見されなかった。結果的に、WMDがあるとしたCIAやペンタゴンのでっち上げでしかなかったわけである。

劇中の登場人物は全て実際にいた人物。Nickはブレアーの側近 (Chief of Staff) のJonathan Powell、そして彼のパートナーのLauraはこの劇を書いたSarah Helm自身である。であるから、演劇とは言えドキュメンタリー・ドラマであり、描かれていることのほとんどはHelmが実際に見聞きしたことであろう。

このドラマでは、激しい開戦反対のデモを背景に、ブレアーが国内世論とアメリカ政府の圧力の狭間にあって揺れ動く様子、そして、側近のNickがそのブレアーを忠実に支えようとしながらも、彼自身は内心戦争するだけの理由はないと思っていて、苦しむ様子などが描かれる。更に、NickのパートナーのLauraはリベラルなジャーナリスト出身の作家で、開戦には絶対反対の立場であり、Nickと激しく対立しつつ、自分が彼に持つ影響力を使って戦争をとめさせたいと考えている。そうした関係者同士のloyalty(忠誠、相手への誠実さ)、そして、それぞれの持っている信念に対する自分自身のloyaltyが試される様子が熱を帯びた台詞のやり取りで描かれる。個人と家庭の中での葛藤が、世界を揺るがす決断と連動する秀作。NickとLauraの台所や寝室、首相官邸の執務室などの狭い空間で、少数の人だけで繰り広げられる会話に、世界史の大きな動きが脈打っているところが面白い。

大きな政治の流れとしては、何か特別に新しい事が描かれるわけではないので、主要人物のキャラクターに劇の面白さが左右されると思うが、Lauraを演じたMaxine Peakeが素晴らしい。BBCの"Silk"や"The Secret Diaries of Miss Anne Lister"等のドラマで見てきたのだが、非常に力強い女優。強情な女性をやらせたらこの世代ではピカイチだ。マンチェスター郊外ボルトンの出身だが、はっきりした方言が小気味よい。舞台で見るのはこれが初めてだが、今年West Yorkshire Playhouseで、Terence Rattiganの"Deep Blue Sea"に主演したのは知っていた。リーズまで行けば良かった、と後悔!彼女は、テレビドラマでも演劇でも、はっきりとした社会的、あるいは政治的問題を含む作品を選んで出演しているように見える。そのチャレンジ精神が伝わる演技。

少ないであろう予算を効果的に使い、少人数で、電話の声でブッシュ大統領やアリステアー・キャンベル報道官、コフィー・アナン国連事務総長等を出演させたりして、枠を広げていた。しかし、やはり首相官邸のシーンでは少し登場人物が多ければ、とは思った。また、映像で開戦の様子その他を映し出すことは出来なかったのだろうか。多分、当然考えただろうが、予算の問題や、客席がステージを囲む形式のHampsteadの制約もあったのだろう。

結局、劇中でも現実でも、ブレアーはイラク戦争をしたことは間違っていなかったと言い続ける。この戦争によりフセイン政権下による甚だしい人権侵害やクルド人など少数民族の虐殺を止めさせたから、というのである。WMDがあるとしたのは口実でしかなかったわけだ。ブッシュやアメリカ政府幹部は、WMDがイラクにないのは分かっていたし、ブレアーもそうだろうと充分推測できる状態だった。それでも戦争は始まった。

ということで、内容は興味が持てた上、Maxine Peakeの力演に組み伏せられた公演だった。

褒めすぎかもしれないが、国の抱える最大の政治課題を首相などの実名を交えたドキュメンタリー・ドラマで解剖し、National TheatreやHamstead Theatreなど公的補助を受けている劇場で人気者のスターが主演して上演する、そういう事が出来るのがイギリスの演劇界。

2011/08/04

「二重被爆〜語り部・山口彊の遺言」上映会、英語でのお知らせ/セラフィールドの核燃料再処理施設閉鎖

29日のポストの末尾にも書いてありますが、ジャパン・ソサエティーのサイトでは、標記のロンドンでの上映会(8月16日17:30〜)について、英語のお知らせ、及び、予約フォームがあります。また、SOASのサイトでも英語でのお知らせが出ております。

稲塚監督の8月10日のブログによると、その時点での予約者は、65名とのこと(会場の定員は140名です)。イギリス人の方々にも見ていただきたいですね。英語字幕付きです。

折しも、カンブリアにあるセラフィールドにある核燃料再処理施設の閉鎖のニュースがBBCで報道されていました。これは日本の地震によって起こった原発問題の直接の影響です。すでに記事を翻訳なさった方がおられます。

Wikipedia英語版によると、カンブリア州西部の最大の雇用主は、ひとつはこのセラフィールドの原子燃料工場、もうひとつはBAE Systemsだそうです。後者は、イギリス最大の製造業の会社にして、最大の軍事産業専門会社です。この地域は、これらの会社に生殺与奪の権を握られていると言って良いでしょう。今回のBBCの論調も、従業員が何人解雇されるか、というのが主な問題意識のように感じます。セラフィールドの工場については、過去の大きな事故を始め、色々な問題があるようですが、この施設を存続させてきたのは、日本の原子力産業です。お客さんは日本だけなのですから。

2011/07/31

Thomas Heywood, "A Woman Killed with Kindness" (National Theatre, 2011.7.29)

女性の肉体、女性の値段
Thomas Heywood, "A Woman Killed with Kindness"


National Theatre公演
観劇日:2011.7.29  19:30-21:30
劇場:Lyttelton, National Theatre

演出:Katie Mitchell
脚本:Thomas Heywood
セット:Lizzie Clachan, Vicki Mortimer
照明:Jon Clark
音響:Gareth Fry
音楽:Paul Clark
衣装:Lynette Mauro

出演:
Paul Ready (John Frankford)
Liz White (Anne Frankford, John's wife)
Sebastian Armesto (Wendoll, John's friend)
Gawn Grainger (Nicholas, John's servant)
Rob Ostlere (Jenkin, John's servant)
Leighton Pugh (Roger Spigot, John's butler)
Leo Bill (Sir Charles Mountford)
Sandy McAuley (Susan Mountford, Charles's sister)
Tom Kay (Uncle Mountford / Sheriff)
Nick Fletcher (Sir Francis Acton, Susan's suitor and Anne's elder brother)
Louis Brooke (Cranwell, a friend of Sir Charles and John Frankford)
Hugh Sacks (Malby, Sir Charles's friend)

☆☆☆ / 5

Thomas Heywoodの劇は初めて見た。彼の作品はこれまで読んだこともなかったし、どういうタイプの劇作家かも知らなかった。そういう訳でか、今回テキストを半分くらい読んではいたが、劇の世界に入り込むのに大分時間がかかり、最初のほうは眠かったが、AnneとWendollの不倫関係が露見するするあたりからかなり引き込まれ、面白くなった。この珍しい劇を見る機会があって良かった。

2つのプロットが同時進行する。ひとつは、JohnとAnne Frankford夫婦の関係について。夫のJohnが親しい友人だが貧しいWendollを自宅に招き、この家のもの(金銭、物、使用人など)を遠慮なく自分のものの様に使ってくれ、と気前の良いところを見せる。しかし、それに悪のりしたのか、WendollはJohnの妻のAnneを誘惑し(あっという間にAnneが陥落しちゃうのでびっくり)、ついに寝室へと連れ込む。主人に忠実な使用人NicholasがそれをJohnに教え、Johnは留守にすると見せかけて二人の様子を監視。寝室にいるところに踏み込んで、Wendollを追い出し、Anneは自分の所有する別の屋敷に追いやり、二人の子供とも会わせない。Anneは罪の意識にかられ、絶望し、絶食によって自殺する。

サブ・プロットでは、Frankford家の親類で、由緒あるジェントリーの家柄のSir Charles Mountfordと彼の妹Susanが描かれる。CharlesはSir Francis Acton(Anne Frankfordの兄)と賭け事がこじれて喧嘩し、Charlesは激情に溺れて武器をふるい、Francisの使用人を殺害してしまう。彼は逮捕され牢に監禁される。Charlesは家屋敷を除く全財産を売り払い、更に借金も重ねて何とか一旦は牢獄から解放される。しかし、資金繰りが上手くいかず、Charlesは再び牢につながれる。Francisは更にCharlesを追い詰めようと思っていたが、Susanに一目惚れして考えを改め、友人を介してCharlesが出獄出来るようにと資金援助を申し出る。しかし貞女の鏡のようなSusanは、Charlesの動機を良しとせず、それを頑なに断る。Charlesは姉(?)にFrancisの言うなりになって欲しいと説得するがSusanは従わない。しかし、Francisは彼女を純粋に愛しているので、Charlesを救うと共に、Susanと正式に結婚することを申し出て、これは受け入れられる(つまりこれが、"killed with kindness"ということなんだろうけど、現代の感覚で言うと、そうですか、結婚するんならね、と納得は出来ない)。

Lyttelton Theatreの大きな舞台をまず左右2つに割った感じにして、右側6割程度はFrankford家の屋敷、左側4割程度はMountford家の屋敷としている。更に両方の屋敷に階段があって、2階部分も作られており、ステージの左右だけでなく、上下も目一杯使った大がかりで豪華極まりないセットだ。Frankfordの屋敷は新しくピカピカで、調度も整っているのに対し、Mountfordのほうは、殺人事件の後家財を処分し、壁も薄汚れ、如何にも凋落したジェントリーの屋敷らしく見えるように工夫されている。素晴らしいセットで、最初見た時はその豪華さにびっくりした。どちらか一方の屋敷で芝居が進行するわけだが、もう一方の屋敷でも召使いが急ぎ足で歩き回り、物を片付けたり、何かの用意をしたりなど、同時進行でふたつの筋書きが進んでいく。彼らの素早い動作は、まるで早まわりの映画を見ているようだ。ところが私にはこれが非常にマイナスになっていると感じた。もうひとつの屋敷での俳優のせかせかとした動きに気を取られて、今進行中の主たる演技に充分集中出来ない。どちらか一方にして欲しかった。また、いつも2つのセットを使えるので、1つの屋敷でのシーンが終わると、となりの屋敷でのシーンに切れ目なく移行するのだが、これが良いように見えて、実は良くない。観客としては、シーンとシーンの間にそれまでのアクションを消化し、次のシーンに移る頭の切り替えがしづらいのである。これは私の頭が悪いだけかも知れませんけどね。せわしないジャズのバックグラウンド・ミュージックを流し、使用人は振付をされたダンサーさながらに動き回っている。色々なことが賑やかに行われているお屋敷という雰囲気を作っているのだが、その慌ただしさが、描かれる人間ドラマをじっくり味わうのを妨げている気がした。Katie Mitchellが様々の要素を沢山詰め込み、観客が2つの家のコントラストを十分に鑑賞出来るように腐心しているのは良く分かるが、それがかえって、観客の注意力を分散する結果になっていないだろうか。謂わばマルチスクリーンの映画みたいだった。セットはそのままでよいとして、もっと余裕ある進行であると良かった。

プログラムによると、時代設定は1919年、つまり第一次世界大戦の終わった翌年としてあるようだ。Heywoodの原作は1607年、スチュアート朝であり、家庭悲劇(domestic tragedy)と呼ばれる、当時における「現代劇」。古代・中世、そしてギリシャ等の地中海世界やデンマークなど海外を主に舞台に選んだシェイクスピアの劇とは随分雰囲気が違う。当時の庶民の観客から見ると、"EastEnders"や日本の2時間ドラマ(「家政婦は見た」とか)を見ている感覚かもしれない。私の好みから言うと、大金をかけて無理して20世紀初期のピリオド・ドラマにするよりも、そのままスチュアート朝のセットやコスチュームでやったほうがずっと生き生きしたのではないかと思う。台詞には同時代の衣食住にまつわる表現が沢山あるが、20世紀にしてしまうと、それらの言葉のインパクトが霞んでしまう。

俳優は説得力ある演技をしていたように思うが、Heywoodのテキスト自体の問題として、キャラクターの膨らみや個性に乏しいのではないか、と感じた。シェイクスピア作品のような魅力的な、カリスマのある人物が見あたらない。強いて言うなら、召使いのNicholasの独白が光ったくらい。その一方で、私にとって大変面白かった点は、女性の扱い方。人類学者や社会学者が"exchange of women"(女性の交換)とか、"traffic in women"(女性の取引)という様な言葉(概念)で表現してきた伝統的社会の家父長制の仕組みをなぞったようなお話である。家と家の結びつき、男と男の社会的関係を作る交換材料として不動産や家畜同様に女性が使われる。しかし、とは言っても人間であるから、家畜のように思い通りという訳にはいかず、不都合が生じる。しかし、そうした、ここでドラマとなっているような摩擦が尚更女性が取引材料として扱われている社会状況を浮き彫りにしている。特にこの劇の場合、王侯貴族の話でなく、同時代の、所謂ジェントルマン階級の話なので、何かというとお金がからんでくるのである。

Anneは肉欲の罪に汚れた体を、絶食、即ち食餌療法、つまりダイエット、という手段により「罪滅ぼし」をしようとして、死を選ぶ。これは一方では、古代中世の聖女の殉教に通じるスタイルであり、また身近で比較すれば、現代の女性の拒食・過食と通じる面もある。性(セックス)と食餌、肉欲と肉体の自虐の関係について色々と考えをめぐらせることの出来る作品である。そうした女性の身体性を強く意識させたのは、Anneが初夜の時に寝間着を血で汚したり、その後妊娠して大きなお腹をしていたこと。Mitchellの明確な意図を感じさせる。女ってやっぱり肉体的な生き物なのね、とでも言いたいかのような劇。文学作品における女性は何故これほど身体性を意識させられるのか。結局、その理由の一部は、文学作品で描かれる女性たちが男性作家と男性社会の心象概念であるからだろう。

Sir Francis ActonとSusanの場合、愛人じゃ駄目だけど、結婚すればそれは"kindness"になって良いでしょう、というのは、現代人からするとなんともうなずけない。そういうご都合主義が、近代的結婚制度自体が含む女性取引の慣習を浮き彫りにしている。(脱線すると)実際、中世においては、レイプしても相手の女性と結婚すれば法的に許されたのである。従って、極端な話だけど、裕福な家の女性を誘拐してレイプし結婚する、というような強引な手段で、自分の家に利益を誘導するような例もあったようだ。確か、この公演のSusanを演じたSandy McAuleyが最後まで仏頂面をしていたのは、Anneの死に立ち会ったからだけでなく、Katie Mitchellがそういうことを意識していたのかも知れない。

細かい事はテキストを熟読しないと分からないが、1回見ただけでも色々考えさせられた面白い劇だった。余裕があったらもう一回見たいくらいだ。17世紀初期のイングランドに設定して上演してくれたら、私にとってはもっと良かったなと思うな。

しかし、舞台デザイナーのViki Mortimerの活躍ぶりは凄い。今やイギリスの舞台美術を代表する人の1人と言える。かってTPT全盛時代(90年代前半頃?)、ベニサン・ピットで素晴らしい仕事をしていたのが思い出される。Tokyo時代が良い修行期間になったのではなかろうか。近年も何度か日本で大きな仕事をしているようだが、これからも日本でも彼女の素晴らしいコスチュームやセットの腕を見せて欲しいものだ。


(お礼)この劇の切符は、当ブログにしばしばコメントを書いて下さるライオネルさんからいただきました。観劇のためにロンドンにいらしたのですが、他の劇と時間が重なり、行くことが出来なくなったそうで、切符を下さいました。この場を借りてお礼を申し上げます。

2011/07/29

「二重被爆」、「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」、ロンドン上映会案内

先日のブログで、「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」のロンドンでの上映会が催される予定であると書きましたが、詳しい日時場所について、稲塚秀孝監督より、以下のご案内をいただきました。

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「二重被爆」「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」
ロンドン上映会の案内


 
今年1月BBCの番組「QI」において、「世界一運が悪い男」と呼ばれた故・山口彊さん。「二重被爆」の実態を描いた2本のDVDをBBCに送り放送して欲しい、と伝えましたが、いまだ実現はしておりません。しかしながら、山口さんの被爆体験と反核の思いをぜひとも伝えようと、下記のようにロンドンでの上映会を開くことが決まりましたので、お知らせいたします。

実施日時:2011年8月16日(火)
       17:00  開場
       17:30~ 田上富久 長崎市長 挨拶(DVD)
            「二重被爆」(2006年・59分)上映
       18:45~ 休憩(15分)、稲塚秀孝 監督挨拶
       19:10~ 「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」
                    (2011年・70分)上映
       20:20~ 稲塚秀孝 監督・プロデューサーへのQ&A
       20:55  終了

実施場所:The Khalili Lecture Theatre (Lower Ground Floor)
                 ロンドン大学、アジア・アフリカ学院
           ジャパン・リサーチ・センター内 (Japan Research Centre)
                          (140席)
住所:School of Oriental and African Studies (SOAS), University of London 
   Thornhaugh Street, Russell Square, London WC1H OXG
                (Mapはこちら)

主催:「二重被爆」をロンドンで見る会
後援:長崎市
協力:ジャパン・ソサエティ、ロンドン大学アジア・アフリカ学院
                            (SOAS)
問い合わせ先:タキシーズ 稲塚秀孝
         inazuka@nw-media.net 


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以上が監督からのお知らせです。なお、Japan Societyのページにも案内がありましたが、予約をするようになっております。大きな会場ですが、念の為こちらのページの末尾にある連絡先、または予約フォームにより、予約をお勧めします。


(8月10日追記)SOASのサイトでも英語のお知らせが出ました。
 

2011/07/24

Friedrich Schiller, "Luise Miller" (Donmar Warehouse, 2011.7.23)

ドイツの『ロミオとジュリエット』
Friedrich Schiller, "Luise Miller"

Donmar Warehouse公演
観劇日:2011.7.23  19:30-22:00
劇場:Donmar Warehouse

演出:Michael Grandage
脚本:Friedrich Schiller
翻案:Miike Poulton
セット:Peter McKintosh
照明:Paule Constable
音楽・音響:Adam Cork
衣装:Mary Charlton

出演:
Paul Higgins (Miller, a court musician)
Finty Williams (Frau Miller, Miller's wife)
Felicity Jones (Luise Miller, their daughter, age 16)
Max Bennett (Ferdinand, Chancellor's son)
Ben Daniels (Chancellor)
John Light (Wurm, Chancellor's secretary)
Alex Kingston (Lady Milford, Prince's mistress)
David Dawson (Hofmarschall von Kalb, a courtier)
Lloyd Everitt (Chancellor's page)
Alexander Pritchett (Lady Milford's servant)

☆☆☆☆ / 5

フリードリッヒ・シラー(1759-1805)はシェイクスピアに通じていたようだ。この"Luise Miller"(1784年初演)は、大人の社会の陰謀と邪悪に踏みつぶされる純粋な若者の死を悲劇的に描き、『ロミオとジュリエット』に共通する点が大きい。更に、『オセロー』に似た面もあり、シェイクスピアの影響が色濃い。

私はオペラを全く見ないのだが、この戯曲は、ヴェルディがオペラにしていて、そちらのほうが原作よりも有名なくらいなのかもしれない。しかし、この原作も素晴らしく、上演前に脚本を7割くらい読んで行ったのだが、本で読むだけでもかなり引き込まれた。今回の翻訳はNorthern Broadsideが上演した"The Canterbury Tales"、RSCの"Morte D'Arthur"他、かなりの戯曲の翻訳・翻案をしているMike Paultonによる。"new version"とあるのだが、原作をどのくらい忠実に訳しているか、あるいはかなりの翻案か分からない。しかし、言葉は特に現代的にはしておらず、コスチュームやセットも歴史的なものであり、18世紀の古典のオーソドックスな上演だった。

ドイツのある国のChancellor(ドイツでは首相だろう)にFerdinandという若い息子がおり、彼が音楽を習っていた楽士Millerの素朴な娘Luise Millerと身分違いの恋に陥る。そうと知らぬ父親のChancellorは、息子をその国のプリンスの愛人で亡命イギリス人貴族のLady Milfordと結婚させ、自分の地位を強化しようと計画し、息子に命令する。Ferdinandは激しく反発し、父が権力を得るためにした不正な行いをプリンスに通報すると父を脅すので、Chancellorも一旦は引き下がらざるを得ない。Chancellorの腹心で、イアーゴウのように腹黒いWurmは、Chancellorに悪知恵を吹き込み、Luise Millerの両親を投獄。彼らを解放する条件として、FerdinandがLuiseの変心を信じるような手紙をLuise自身に書かせようとする(オセローにとってのハンカチみたいなもの)。オセローさながら、嫉妬に狂ったFerdinandは破滅への道を一気に進む・・・。

新聞の劇評でも指摘されているが、聖者が神を愛するように純粋にFerdinandを愛したLuiseを信じ切れないFerdinandと、インテリジェントでありながらもWurmの策謀に乗せられてしまうLuiseの、後半のキャラクター作りにやや無理がある気がして、そこが原作の欠点と言えば欠点だろうか。しかし、逆に言えば、16歳のLuiseはもとより、二人の未熟さ、若さ故の弱さとも思える。『ロミオとジュリエット』でもそうだが、決定的なところで飛躍や偶然が重なった方が悲劇性が増す場合もあり、私はそう違和感は感じなかった。

「大人の腐敗した世界と純粋な二人の愛」の対立に並行する相として、宮廷や貴族社会と新興中産階級の人々の対立があるだろう。楽士のMillerは、最初、娘がChancellorの息子と付き合っていることに戦々恐々として、娘を思いとどまらせようとするが、彼の妻は意気軒昂に娘の愛を支持する。そのMillerもChancellorが娘を侮辱する言葉を吐いた時には、地位や身の安全を顧みず、敢然と抗弁をし、まるで若いマリアを守ろうと腐心するヨセフのようである。また、LuiseもLady Milfordとの対話で、貧しく慎ましい庶民の彼女自身のほうが、豊かで権力はあっても、その権力の奴隷でもあるLady Milfordよりもましであることを断言し、Lady Milfordもそれに同意せざるを得ない。18世紀も終わりに近づいた時代の劇だけあり、近代市民社会の成熟、彼らの自由への渇望と既成の支配階級への反発を強く感じさせる劇であり、Miller一家がそれを鮮やかに体現していた。

ほとんどセットのない小さな劇場でのシンプルで骨太な劇を支えるのは俳優達の名演。特にBen Danielsの台詞回しと存在感は圧倒的。悪役にしてはちょっと格好良すぎるくらいかもしれない。Paul Higginsの父MillerとLuiseのFelicity Jonesの二人は、庶民の素朴さとその裏に潜むたくましさを良く出していた。Higginsの方言もそうした面を強めていて効果的(彼はスコットランド出身)。屈折した悪賢さを見せるWurmのJohn Light、きざで軽薄な宮廷人Hofmarshall von Kalb役のDavid Dawson、そして権力と運命によって滅ぼされた、謂わばLuiseのシャドウとも言えるLady MilfordのAlex Kingstonなど、ひとつひとつの役柄が印象的であった。

学部生時代の私の恩師のひとりで、私の人生を変えたT先生が、「文学作品には、人生のある年代、特に若い時に読まないといけないものがあるんです」と言っていたのを思い出す。私はこのような青春の悲劇に心の底から揺さぶられるには年を取りすぎてしまったが、それでも大変感動的だった。この上演を、主人公達に近い10代後半や20代で見られる方は大変幸せだ。

2011/07/22

Rose Tremain, "Trespass" (2010; Vintage, 2011)

南仏の憂鬱
Rose Tremain, "Trespass"
(2010; Vintage, 2011) 373 pages.

☆☆/ 5

これまでにこの作家は4冊くらい読んでいる。特に"The Colour"やオレンジ・プライズを受賞した"The Road Home"には大変感動した。好きな作家である。しかし、今回はあまり引き込まれないまま読み終わった。

物語の起こる場所は主として南フランスの寒村。よく英米人のエッセイや小説で取り上げられる爽やかで陽気な雰囲気ではなく、さびれ、外国人などが土地建物を買いあさっている。Mas Lunelという人里離れた農家にAramon Lundという男が、そして彼の土地の直ぐそばの粗末な家に妹のAudrunが住んでいる。Aramonは獣のような男で、かっては亡くなった父親と共にAudrunを虐待しており、Audrunにはその事への恨みが根深くくすぶっている。しかし、Aramonは酒に溺れ、自堕落な生活をし、農場は荒れ放題で、哀れな状態になっていく。

少し離れたところに、一定の成功をしつつあるガーデン・デザイナーのVeronica Vereyが、レスビアンのパートナーであるKittyと住んでいる。Kittyは水彩画の画家志望者であるが、平凡な才能しか持ち合わせておらず、Veronicaの収入に頼っている。Veronicaにはロンドンに高級アンティック家具のディラー、Anthony Vereyという弟がいる。彼はかっては大変羽振りが良く、様々の有名人を顧客に抱えていたが、今はすっかり落ちぶれ、店を訪れる客も少ない。彼は人生をやりなおそうとVeronicaのところを訪ね、南仏の農村が気に入り、自分も家を探し始める。Aramon Lundの住むMas Lunelが大変気に入り、商談を進める。KittyとAnthonyはVeronicaを取りあって、非常に仲が悪く、お互いに相手をどうやって遠ざけるか算段をする。また、AudrunはもしMas Lunelが売られたら、自分の住むところが無くなりかねないと大変心配になる。そういう時、Anthonyが売りに出た物件を見にに出かけたまま行方不明になる・・・。

Anthonyの失踪をプロットの中心に据えた一種ミステリー仕立ての小説。AramonとAudrunの兄妹、VeronicaとAnthonyの姉弟、というふたつの関係、それにKittyとVeronicaのカップルという3組の愛と孤独の物語。これらの5人の人々は、奇妙に地域や友人から孤立し、大変孤独な人々である。更にAramonとAudrunは虐待した者、された者であるが、しかし奇妙な依存関係で繋がっている。VeronicaとAnthonyは堅い姉弟愛で結ばれているが、それは他人を寄せ付けない排他的なものであり、Kittyを限りなく不幸にする。それぞれ自分の必要に応じて他者を愛したり、利用したりするが、5人とも人間としては魅力に乏しい、閉鎖的で自己中心的なキャラクター。カラカラに乾燥した南仏の大地が、彼らの荒れ果てた人生をくっきりと浮かび上がらせる。彼らの孤独感、疎外感が大変よく書けているが、しかし、それは感動を与えるようなものではなく、むしろ彼らのいびつなメンタリティーを掘り下げて見せる。

魅力的なキャラクターもおらず、特に感動的でもなく、私にはあまり楽しめなかった。但、登場人物の孤独感は良く書けている。農村でありながら、精神の孤島に住む人々という感じであった。

Veronica, Anthony, Kittyの共通点として、全員独身で、子供もおらず、地域のコミュニティーとの結びつきもない根無し草。皆、文化的な人々で、自由に人生を変えられるし、いつでも再出発が可能だが、自分の世界に凝り固まっていて、わびしい心象風景。自分の世界を壊されることに恐怖を感じて、何かと自己防御し、心を閉ざす。場所や環境は違っても、こういう人物って現代人に多いのではなかろうか。私自身も他人から客観的に見るとそう見えるかも知れない。そう言う点では大変考えさせられた。