昨日は以前常勤で働いていた職場での市民講座の企画を、ああでもない、こうでもない、と考えていた。研究者としての実力も、また知名度もない私が、受講料を払ってくださる一般の方々を集めるのは大変難しくて、いつも本当は開催して貰えない程しか受講者が集まっていない。事務局に心配と無駄な労力をかけっぱなし。市民講座の企画を考える度に、自分の能力の無さを痛感し落ち込む。
今年前期は、別のところの市民講座で、企画しても受講者が集まらず開催できないという事態になり、事務局に大きな迷惑をかけた。講師として審査していただき、その上でパンフレットに載せるなど、一定のお金と労力はかかっているだろうが、無駄になった。私は、常勤教員の頃は他人がやりたがらない所謂「雑務」係としてこき使われていると思っていたが、仕事を辞めた今となっては私の職業人としての価値はそうした雑務をやることくらいしか無かったことに気づく。
2018/10/29
歴史学の研究会に出席
10月27日土曜日は「イギリス史研究会」という歴史学の研究会に出席した。発表者は中世イングランドの説教研究の第一人者で慶應義塾大学文学部の赤江雄一先生。説教は文学の一部でもあり、Siegfried WenzelやAlan Fretcherなどの中世英文学研究者も盛んに研究しており、興味を持っていた。英米の学者は演劇との関連も研究している。
赤江先生の学会発表は聞いたことがあったが、今回は研究会で時間的余裕があったので、先生は基礎知識から始めて今研究されている高度な問題まで懇切丁寧に話して下さり、私のような初心者にも大変分かりやすく、興味を持って聞けた。
主なトピックは説教の中に表れるラテン語・英語の混じった(「マカロニック、macaronic 」と言う)文章についてだった。マカロニックな表現は様々な文学作品に頻出し、これから私もよく考えたい分野だ。その意味でも、良い学びの機会を与えていただいた。但し、説教というのは独特の形式に則ったかなり特殊な文章なので、先生が導かれた結論は直ぐには他のマカロニックな文章には当てはまらない。私としては広く文学におけるマカロニックな表現の存在意義について、今後も考えていきたい。
近年は言語学者も中世のラテン語と俗語の混淆文には注目し、多くの論文が出ているようだ。また、イングランドでは、仏語と英語の混淆文を研究する人もいる。英語史研究や歴史言語学の方にも注目していただきたい分野。
今回出席したような分野外の研究会や学会に行くのは、新鮮で楽しい(但し、そうでなくて違和感が酷いときもある)。こういう時は全く無名の教師だと気軽に行けて都合良い。名前を知られているような人だと、自分の分野外に突然出かけるのは、招待されない限り抵抗あるだろうし、これらた方もビックリなさるかもしれない。イギリスの大学や研究機関で開催される人文科学のセミナーや学会、特に中世や近代初期関連の学会等は、色んな分野の人が集まる。聞いてもちんぷんかんぷんの事も多いが、日頃考えた事もない視点からの話が聞けて良かった。日本ももう少し交流があって良いと思うが。27日の研究会も、他の参加者は歴史学のかたばかりのようだった。
赤江先生の学会発表は聞いたことがあったが、今回は研究会で時間的余裕があったので、先生は基礎知識から始めて今研究されている高度な問題まで懇切丁寧に話して下さり、私のような初心者にも大変分かりやすく、興味を持って聞けた。
主なトピックは説教の中に表れるラテン語・英語の混じった(「マカロニック、macaronic 」と言う)文章についてだった。マカロニックな表現は様々な文学作品に頻出し、これから私もよく考えたい分野だ。その意味でも、良い学びの機会を与えていただいた。但し、説教というのは独特の形式に則ったかなり特殊な文章なので、先生が導かれた結論は直ぐには他のマカロニックな文章には当てはまらない。私としては広く文学におけるマカロニックな表現の存在意義について、今後も考えていきたい。
近年は言語学者も中世のラテン語と俗語の混淆文には注目し、多くの論文が出ているようだ。また、イングランドでは、仏語と英語の混淆文を研究する人もいる。英語史研究や歴史言語学の方にも注目していただきたい分野。
今回出席したような分野外の研究会や学会に行くのは、新鮮で楽しい(但し、そうでなくて違和感が酷いときもある)。こういう時は全く無名の教師だと気軽に行けて都合良い。名前を知られているような人だと、自分の分野外に突然出かけるのは、招待されない限り抵抗あるだろうし、これらた方もビックリなさるかもしれない。イギリスの大学や研究機関で開催される人文科学のセミナーや学会、特に中世や近代初期関連の学会等は、色んな分野の人が集まる。聞いてもちんぷんかんぷんの事も多いが、日頃考えた事もない視点からの話が聞けて良かった。日本ももう少し交流があって良いと思うが。27日の研究会も、他の参加者は歴史学のかたばかりのようだった。
2018/09/15
NHK ハートネットTV「歴史部のぼく」
9月12日のETV「ハートネットTV」は「歴史部のぼく」と題された一種のドキュメンタリーだった。ぱっとしない、地味で内向的な39才の中年男性の城秀樹さん(テレビ・ディレクター)が主人公。自分の孤独な高校生時代を振り返り、当時の3人の男子クラスメート(生徒会長、サッカー部のスター、やはり孤独で謎の行動を取る生徒)を訪ね歩くという番組。
ディレクターの男性は、人間関係の構築が苦手な、口下手な男性で、私も似ていて、共感できる面が大いにあった。私には彼だけでも充分に面白いのだが、彼のクラスメート達が度外れてユニークで、とっても楽しい。
まず会ったのは、当時生徒会長だった男性。どのグループ(スクール・カースト)にも入り込まず、誰とでも楽しく話が出来るスキルみたいなものを持っていたようだ。そういう人だから城さんとも仲良く話してくれた。でも昼休みは他の人とサッカーをしていて、城さんはひとりで、ちょっと寂しかった。城さん自身はそういう時はひとりで本を読んでいた。この人、今は大学の英語講師になっている。スマートで長めの髪でカジュアルな雰囲気。いかにも大学の先生という印象を与える。でもその自由な感じから、多分非常勤講師じゃないかと思った(組織に属している専任の人達は、何となく堅苦しい雰囲気がある場合が多い)。城さんが、クラスに溶け込めなかった自分について語ると、彼は、「嫌なら行かなきゃ良いんだよ」みたいなことを言う。実際、彼自身も生徒会長なのに3分の1くらい欠席していたそうだ。何だ、それ、ほとんど不登校じゃん(^_^)。飄々としていて、39才の今も若々しく、魅力的な好男子。
次に城さんが会ったのは、格好良いサッカー部のスター。城さんにとっては最もまぶしい存在だった。会った場所はライブハウス。何と今はミュージシャンとしてバンドをやっている(そんなに売れてそうもないけれど)。サッカーの方はクラブ活動どまりでそれで生きていくほどには才能が開花せず、好きな音楽の世界に進んでいて、色々と苦労もしていそうだ。でも、若々しく、楽しそうに生きていて、迷わず自分の好きな道に進んだ人のすがすがしさが漂う。高校時代は部活、部活で一日中忙しくて余裕のない毎日だったらしい。
3人目は、クラスで城さん以上にひとりで悠々と我が道を行っていた正体不明の男の子。現れたのはカフェやゲストハウスを経営する実業家。でも見た目はヒッピー風(^_^)。高校時代は突然黒板に詩を書いてみたり、他の生徒に手紙を出したり(恋文ではなく、単なる手紙だそう)。昼休みはひとりで校内の散歩。孤独感は全くなくて、不幸ではなかったみたい。当時もユニーク、今もユニーク。
これはスクール・カーストを大人になった男性の視点から考える番組だったけど、中年になった個性的な男性達の生き方を見せてくれて、とっても楽しいドキュメンタリーだった。4人の中では、城さんが未だに青春の迷いをひきずっているみたいだけど、迷いながら生きるのも良いし、そんな彼はテレビのディレクターに向いていそうだ。
ディレクターの男性は、人間関係の構築が苦手な、口下手な男性で、私も似ていて、共感できる面が大いにあった。私には彼だけでも充分に面白いのだが、彼のクラスメート達が度外れてユニークで、とっても楽しい。
まず会ったのは、当時生徒会長だった男性。どのグループ(スクール・カースト)にも入り込まず、誰とでも楽しく話が出来るスキルみたいなものを持っていたようだ。そういう人だから城さんとも仲良く話してくれた。でも昼休みは他の人とサッカーをしていて、城さんはひとりで、ちょっと寂しかった。城さん自身はそういう時はひとりで本を読んでいた。この人、今は大学の英語講師になっている。スマートで長めの髪でカジュアルな雰囲気。いかにも大学の先生という印象を与える。でもその自由な感じから、多分非常勤講師じゃないかと思った(組織に属している専任の人達は、何となく堅苦しい雰囲気がある場合が多い)。城さんが、クラスに溶け込めなかった自分について語ると、彼は、「嫌なら行かなきゃ良いんだよ」みたいなことを言う。実際、彼自身も生徒会長なのに3分の1くらい欠席していたそうだ。何だ、それ、ほとんど不登校じゃん(^_^)。飄々としていて、39才の今も若々しく、魅力的な好男子。
次に城さんが会ったのは、格好良いサッカー部のスター。城さんにとっては最もまぶしい存在だった。会った場所はライブハウス。何と今はミュージシャンとしてバンドをやっている(そんなに売れてそうもないけれど)。サッカーの方はクラブ活動どまりでそれで生きていくほどには才能が開花せず、好きな音楽の世界に進んでいて、色々と苦労もしていそうだ。でも、若々しく、楽しそうに生きていて、迷わず自分の好きな道に進んだ人のすがすがしさが漂う。高校時代は部活、部活で一日中忙しくて余裕のない毎日だったらしい。
3人目は、クラスで城さん以上にひとりで悠々と我が道を行っていた正体不明の男の子。現れたのはカフェやゲストハウスを経営する実業家。でも見た目はヒッピー風(^_^)。高校時代は突然黒板に詩を書いてみたり、他の生徒に手紙を出したり(恋文ではなく、単なる手紙だそう)。昼休みはひとりで校内の散歩。孤独感は全くなくて、不幸ではなかったみたい。当時もユニーク、今もユニーク。
これはスクール・カーストを大人になった男性の視点から考える番組だったけど、中年になった個性的な男性達の生き方を見せてくれて、とっても楽しいドキュメンタリーだった。4人の中では、城さんが未だに青春の迷いをひきずっているみたいだけど、迷いながら生きるのも良いし、そんな彼はテレビのディレクターに向いていそうだ。
2018/09/13
NHK ETV特集「自由はこうして奪われた~治安維持法 10万人の記録~」
8月18日に放送され、録画しておいたこの番組をやっと見た。小林多喜二の拷問による獄中死とか、共産党員の弾圧はよく知られているが、治安維持法が如何に拡大解釈されたかは私はよく理解していなかった。治安維持法が、共産党対策から、共産主義には関心も知識も無い一般大衆を統制するのに使われるようになった経緯は、天皇の緊急勅令による拡大解釈があった。特に、この法律の下、日本人以上に植民地の人々が苦しめられたことが明らかにされている。日本本土では、拷問による死はあったが、この法律の下での正規の死刑は科せられなかった。しかし、朝鮮では59人が死刑になった。共産党弾圧に始まった取り締まりは、やがて、労働組合員や組合関連の会合や読書会に出た人、新築地劇団などの劇団員等の文化人、燈台社など平和主義のキリスト教の信者、なども含まれるようになる。共産党員の家族も取り調べを受け、番組に登場した女性は14才で勾留され、手の爪を痛めつけられるなどの拷問で取り調べを受けた。その時の恐怖は100才近い今もトラウマとして残る。共産主義者を法廷で弁護した弁護士もまたこの悪法により検挙され、共産主義者を裁く法廷には弁護士がつきたくてもつけない、という法治国家と言えない状況が生まれる。更には、検挙者には単に庶民の人物画を描いていた高校生もいた。特高は共産主義が何かも知らない学生に「自白しろ」と迫り、無理矢理無知な若者に共産主義者であるとの嘘の自白をさせた。特高のこうした自白偏重はその後、日本の刑事司法の伝統になり、今の警察や司法に受け継がれたと、番組に登場した刑法学者は言う。この点は本当に重要だ。
特高に取り調べられた人は、20年間で10万1654人。第2次大戦後、特高警察にいた人々は罷免されたそうだが、罪を問われてはいないだろう。45年前から、治安維持法の被害者や支援者が、国に対して謝罪や実態調査をして欲しいという請願運動を続けているが、国はまったく応じていない。国の姿勢は、「治安維持法は当時適切に制定されたものであり、この法律による勾留・拘禁については謝罪や調査の必要はない」というものである(金田勝年元法務大臣の弁)。この非人道的答弁を見ても現政府が戦前の全体主義国家の要素を引きずっていることが分かり戦慄する。
治安維持法が作った悪しき伝統は今も脈々と引き継がれ、司法における自白偏重、警察と検察の無謬の原則、検察に刑事告訴された人の100パーセント近くが有罪になるという異様な現在の日本の司法を生んでいると言えるのではないか。日本では戦後が終わっていないどころか、これらの被害者やその家族にとっては、戦前も終わっていない。
特高に取り調べられた人は、20年間で10万1654人。第2次大戦後、特高警察にいた人々は罷免されたそうだが、罪を問われてはいないだろう。45年前から、治安維持法の被害者や支援者が、国に対して謝罪や実態調査をして欲しいという請願運動を続けているが、国はまったく応じていない。国の姿勢は、「治安維持法は当時適切に制定されたものであり、この法律による勾留・拘禁については謝罪や調査の必要はない」というものである(金田勝年元法務大臣の弁)。この非人道的答弁を見ても現政府が戦前の全体主義国家の要素を引きずっていることが分かり戦慄する。
治安維持法が作った悪しき伝統は今も脈々と引き継がれ、司法における自白偏重、警察と検察の無謬の原則、検察に刑事告訴された人の100パーセント近くが有罪になるという異様な現在の日本の司法を生んでいると言えるのではないか。日本では戦後が終わっていないどころか、これらの被害者やその家族にとっては、戦前も終わっていない。
2018/09/10
博士号取得の経済的な問題
「博士号取得への長い道のり」と題した3回の記事の中で、大事なことでありながらほとんど触れなかったのは、経済的な問題です。最後に、プライベートな事は控えつつも、少し書いておきましょう。私は全額私費のEU以外の留学生としてケント大学の大学院生となりましたので、もの凄くお金がかかりました。子供がいなかったので留学が可能になったのですが、それでも私と妻の老後の計画はすっかり様変わりしてしまいました。
結論から言うと、私自身は何とか修了できましたが、かなりの額の奨学金か、余程の家産が無い限り、私のようなことは絶対にやってはいけないと思います。英米の大学の授業料が高騰した今は尚更です(ケント大学の授業料も、私が始めた頃のほぼ倍になりました)。私も当時はまだあったが今は廃止になったイギリス政府による博士課程学生用奨学金(Overseas Research Student Award Scheme)と、ケント大学独自の奨学金に応募しました。修士で一番良い成績、distinction、を取ったので可能性はあると思ったのですが、どちらの奨学金も不合格でした。今思うと、そこで入学を諦めておけば良かったと思います。実際、イギリスの大学では、人文科学系でも奨学金が取れる場合に限り博士課程に行くという人が少なくありません。いやイギリス人の場合、大多数がそれでしょう。ケント大学で私が所属した中世・近代初期研究センター博士課程の学生の半分以上、恐らく7,8割は、授業料と生活費のかなりの部分をカバーする奨学金や授業料免除を受けていたと思われます。友達が全くいなかったので、聞くチャンスがありませんでしたが、奨学金を全く貰ってないイギリス人のフルタイム学生などほとんどいなかったのではないかと思います。更に、パートタイムの学生、奨学金を受けられなかった学生、あるいは奨学金の支給期限を過ぎて(つまり、普通3年以上)在籍する学生の多くはTAとして授業を担当し、生活費の足しにしているようです。しかし、私の所属部門、つまり中世文学や中世史分野でそれが出来るのはイギリス国内や英語圏からの留学生、一部の非常に優秀なヨーロッパの留学生のみでした(他の専門では、留学生がTAを勤めるのは良く見られます)。実際、TAをやるかと聞かれても、VIVAの受け答えですら覚束ない私には到底無理ですね。それに、留学生は、大学にとって、私費で高額の授業料を払ってくれる貴重なお客さんなので、国や大学の奨学金を出してまで入学して欲しくはないでしょう。
今考えると、私は奨学金が受けられないと分かった時点で日本国内の大学院の課程博士か論文博士を目ざすべきでした。そうすれば幾らか非常勤講師などのアルバイトも出来るし、そもそも、日本の住居を維持しつつイギリスでの滞在費等に莫大なお金を使う必要も無かったでしょう。大学の授業料も、特に国公立大学では日本のほうが遙かに安く、また、博士号も、ケント大学で費やした10年弱よりかなり早く取れたと思います。途中、短期間、学会やセミナーなどに出席するためにイギリスに勉強に行くことも可能だったでしょう。確かに専門分野の研究をリードしてきたスーパーバイザーやエクザミナーに論文を読んで指導して貰えたことは光栄であり、大変な励みになりました。しかし、払った代価は、率直に言って大き過ぎたと思います。
更に今になって思うのですが、現在の人文科学系のアカデミアにおいては、少なくとも必要額の半分以上をカバーできるくらいの国内外の奨学金を取ることが出来るような真に才能ある方だけが、短期間(3~4年)で論文を提出でき、更にその後に待っている厳しい就職戦線や研究競争を生き残っていけます。若い方で、家族の援助などを得て自費で留学し、私のように10年近く学位取得に要して年齢も高くなり、恐らく学生支援機構や銀行の学資ローンなどの借金も残る状態で、非常勤専業の教員などになったら大変です。まして、一部の方のように、研究上の問題や資金が尽きたなどの理由で退学をする、あるいは退学勧告を受けたり、M. Philに格下げになってしまったら、取り返しがつきません。何とか留学しようと奨学金に応募し続けて何年も頑張る方もおられるようですが、その間にさっさと国内の大学で博士号を取り、就職活動を始める方が良いと思います。
私はと言えば、最初にボタンを掛け違えたままこの長く高価な旅に乗り出してしまいました。途中で辞めれば良かったと思います。今考えると、奨学金を得られなかった時にすぐ方向転換をするか、あるいは「あと( )年だけやって、駄目なら退学しよう」、といった具体的計画を立て、家族や友人にもそう宣言すれば良かった、と思います。でも、いざ辞めるとなるとそれはまた非常に大きな精神的エネルギーの要ることです。関西のM先生のように大変親切な先輩も、親しい2,3人の友人も、私の試みを励まし続けてくれました。そうすると辞めようと思っていても決心が鈍るのです。5年経った頃からは常に辞めるか否か迷ってはいましたが、決断できませんでした。
一般論として、人間、後悔ばかりしていたのでは素直に生きていけず、劣等感の塊になってしまいます。過去を出来るだけ肯定し、失敗は大きくても、得られた満足感をかき集め反芻しつつ未来へと向かわなければ鬱になってしまいます。私も今、他人と話すときは、「やるべきじゃなかった」なんて言ってその場を白けさせるよりも、「留学して良かった」と言います。但、本音はどうなのか、自分自身分かりません。まあでも卒業式に出てとても嬉しかっし、何より老いた両親がとても喜んでくれたので、やっぱり良かったのかな。他人には勧めませんけど。
博士論文に関するエントリーもこれで最後とします。この一週間、この一連のブログを書くのに随分時間を使ったけど、色々な事を思いだせて良かったです。
結論から言うと、私自身は何とか修了できましたが、かなりの額の奨学金か、余程の家産が無い限り、私のようなことは絶対にやってはいけないと思います。英米の大学の授業料が高騰した今は尚更です(ケント大学の授業料も、私が始めた頃のほぼ倍になりました)。私も当時はまだあったが今は廃止になったイギリス政府による博士課程学生用奨学金(Overseas Research Student Award Scheme)と、ケント大学独自の奨学金に応募しました。修士で一番良い成績、distinction、を取ったので可能性はあると思ったのですが、どちらの奨学金も不合格でした。今思うと、そこで入学を諦めておけば良かったと思います。実際、イギリスの大学では、人文科学系でも奨学金が取れる場合に限り博士課程に行くという人が少なくありません。いやイギリス人の場合、大多数がそれでしょう。ケント大学で私が所属した中世・近代初期研究センター博士課程の学生の半分以上、恐らく7,8割は、授業料と生活費のかなりの部分をカバーする奨学金や授業料免除を受けていたと思われます。友達が全くいなかったので、聞くチャンスがありませんでしたが、奨学金を全く貰ってないイギリス人のフルタイム学生などほとんどいなかったのではないかと思います。更に、パートタイムの学生、奨学金を受けられなかった学生、あるいは奨学金の支給期限を過ぎて(つまり、普通3年以上)在籍する学生の多くはTAとして授業を担当し、生活費の足しにしているようです。しかし、私の所属部門、つまり中世文学や中世史分野でそれが出来るのはイギリス国内や英語圏からの留学生、一部の非常に優秀なヨーロッパの留学生のみでした(他の専門では、留学生がTAを勤めるのは良く見られます)。実際、TAをやるかと聞かれても、VIVAの受け答えですら覚束ない私には到底無理ですね。それに、留学生は、大学にとって、私費で高額の授業料を払ってくれる貴重なお客さんなので、国や大学の奨学金を出してまで入学して欲しくはないでしょう。
今考えると、私は奨学金が受けられないと分かった時点で日本国内の大学院の課程博士か論文博士を目ざすべきでした。そうすれば幾らか非常勤講師などのアルバイトも出来るし、そもそも、日本の住居を維持しつつイギリスでの滞在費等に莫大なお金を使う必要も無かったでしょう。大学の授業料も、特に国公立大学では日本のほうが遙かに安く、また、博士号も、ケント大学で費やした10年弱よりかなり早く取れたと思います。途中、短期間、学会やセミナーなどに出席するためにイギリスに勉強に行くことも可能だったでしょう。確かに専門分野の研究をリードしてきたスーパーバイザーやエクザミナーに論文を読んで指導して貰えたことは光栄であり、大変な励みになりました。しかし、払った代価は、率直に言って大き過ぎたと思います。
更に今になって思うのですが、現在の人文科学系のアカデミアにおいては、少なくとも必要額の半分以上をカバーできるくらいの国内外の奨学金を取ることが出来るような真に才能ある方だけが、短期間(3~4年)で論文を提出でき、更にその後に待っている厳しい就職戦線や研究競争を生き残っていけます。若い方で、家族の援助などを得て自費で留学し、私のように10年近く学位取得に要して年齢も高くなり、恐らく学生支援機構や銀行の学資ローンなどの借金も残る状態で、非常勤専業の教員などになったら大変です。まして、一部の方のように、研究上の問題や資金が尽きたなどの理由で退学をする、あるいは退学勧告を受けたり、M. Philに格下げになってしまったら、取り返しがつきません。何とか留学しようと奨学金に応募し続けて何年も頑張る方もおられるようですが、その間にさっさと国内の大学で博士号を取り、就職活動を始める方が良いと思います。
私はと言えば、最初にボタンを掛け違えたままこの長く高価な旅に乗り出してしまいました。途中で辞めれば良かったと思います。今考えると、奨学金を得られなかった時にすぐ方向転換をするか、あるいは「あと( )年だけやって、駄目なら退学しよう」、といった具体的計画を立て、家族や友人にもそう宣言すれば良かった、と思います。でも、いざ辞めるとなるとそれはまた非常に大きな精神的エネルギーの要ることです。関西のM先生のように大変親切な先輩も、親しい2,3人の友人も、私の試みを励まし続けてくれました。そうすると辞めようと思っていても決心が鈍るのです。5年経った頃からは常に辞めるか否か迷ってはいましたが、決断できませんでした。
一般論として、人間、後悔ばかりしていたのでは素直に生きていけず、劣等感の塊になってしまいます。過去を出来るだけ肯定し、失敗は大きくても、得られた満足感をかき集め反芻しつつ未来へと向かわなければ鬱になってしまいます。私も今、他人と話すときは、「やるべきじゃなかった」なんて言ってその場を白けさせるよりも、「留学して良かった」と言います。但、本音はどうなのか、自分自身分かりません。まあでも卒業式に出てとても嬉しかっし、何より老いた両親がとても喜んでくれたので、やっぱり良かったのかな。他人には勧めませんけど。
博士論文に関するエントリーもこれで最後とします。この一週間、この一連のブログを書くのに随分時間を使ったけど、色々な事を思いだせて良かったです。
2018/09/07
【新刊書】秋山晋吾『姦通裁判ー18世紀トランシルヴァニアの村の世界ー』の感想
秋山晋吾『姦通裁判ー18世紀トランシルヴァニアの村の世界ー』(星海社新書、2018)285ページ、1,100円
1765年夏、ハンガリーの一部でもあるトランシルヴァニア候国のコザールヴァールという村で、ある下級貴族の男性イシュトヴァーンの30代の妻ユディットと夫の従兄アーダームの間にあったとされる姦通事件について、近くの都市から判事が赴いて、2度の証人喚問が行われた。この村の人口は約800人、そのうち延べ100人以上が証人として聴取され、数十ページにわたる、ほぼ逐語的に記録されたように見える詳細な証言が残された。
筆者の秋山晋吾先生(一橋大学教授、東欧社会史研究)は、それらの証言から、この時代のトランシルヴァニアの結婚に関する道徳や社会通念に加えて、衣食住、宗教、地理、職業、教育や農業経営等々、ありとあらゆるテーマに渡って、証言の微細なディテールからジグソーパズルのように人々の日常生活をすくい上げ、組み立てようと試みる。アナール派などのマイクロ・ヒストリーの手法による社会史。新書版で、注や他の専門書への言及等はなく、一般の読者を対象にした分かりやすい語り口だが、285ページあり専門書に引けを取らぬ充実した内容。村の多くの農民が職人も兼ねており、魔女が出て来て媚薬を配合したり、当時のトランシルヴァニアではほとんどの農民は識字能力がなかったことなど、18世紀後半の東欧のこの村は、中世末から近代初期のイングランドの村によく似たところがあって、歴史愛好者だけでなく西欧の中世文学や文化に関心のある方にとっても興味深い本だろう。
ユディットという女性は、チョーサーの「粉屋の話」のアリスーンやバースの女房を思わせる逞しい女傑。夫イシュトヴァーンから殴られる時もあるが、彼を足蹴にしたことも目撃されている。夫からは娼婦呼ばわりされながら、自分は身持ちの悪い女ではないと主張し、恥じらいを見せるときもある。愛人アーダームの財産が入ったチェストの鍵もしっかり握っている。イシュトヴァーンはそもそもこの妻を裁判所に訴えた張本人だが、妙に弱気だったり、妻に対しへりくだったりすることもあるらしい。私から見ると、この3人の男女の関係自体が、一種のファブリオーのように見えておもしろかった。但、聞いたことのないハンガリー語の固有名詞の連続や、複雑に絡み合った人種や宗教の解説など、読み始めてしばらくはある程度辛抱が必要だった。
1765年夏、ハンガリーの一部でもあるトランシルヴァニア候国のコザールヴァールという村で、ある下級貴族の男性イシュトヴァーンの30代の妻ユディットと夫の従兄アーダームの間にあったとされる姦通事件について、近くの都市から判事が赴いて、2度の証人喚問が行われた。この村の人口は約800人、そのうち延べ100人以上が証人として聴取され、数十ページにわたる、ほぼ逐語的に記録されたように見える詳細な証言が残された。
筆者の秋山晋吾先生(一橋大学教授、東欧社会史研究)は、それらの証言から、この時代のトランシルヴァニアの結婚に関する道徳や社会通念に加えて、衣食住、宗教、地理、職業、教育や農業経営等々、ありとあらゆるテーマに渡って、証言の微細なディテールからジグソーパズルのように人々の日常生活をすくい上げ、組み立てようと試みる。アナール派などのマイクロ・ヒストリーの手法による社会史。新書版で、注や他の専門書への言及等はなく、一般の読者を対象にした分かりやすい語り口だが、285ページあり専門書に引けを取らぬ充実した内容。村の多くの農民が職人も兼ねており、魔女が出て来て媚薬を配合したり、当時のトランシルヴァニアではほとんどの農民は識字能力がなかったことなど、18世紀後半の東欧のこの村は、中世末から近代初期のイングランドの村によく似たところがあって、歴史愛好者だけでなく西欧の中世文学や文化に関心のある方にとっても興味深い本だろう。
ユディットという女性は、チョーサーの「粉屋の話」のアリスーンやバースの女房を思わせる逞しい女傑。夫イシュトヴァーンから殴られる時もあるが、彼を足蹴にしたことも目撃されている。夫からは娼婦呼ばわりされながら、自分は身持ちの悪い女ではないと主張し、恥じらいを見せるときもある。愛人アーダームの財産が入ったチェストの鍵もしっかり握っている。イシュトヴァーンはそもそもこの妻を裁判所に訴えた張本人だが、妙に弱気だったり、妻に対しへりくだったりすることもあるらしい。私から見ると、この3人の男女の関係自体が、一種のファブリオーのように見えておもしろかった。但、聞いたことのないハンガリー語の固有名詞の連続や、複雑に絡み合った人種や宗教の解説など、読み始めてしばらくはある程度辛抱が必要だった。
博士論文提出への長い道のり(3)
博士論文提出への長い道のり:(3)再出発から論文の完成へ
さて前回のブログでは2014年の夏頃に始まったスランプのことまで書きました。今回は、その後、スランプを抜け出して論文完成に至るまでを思い出してみます。
論文の方向が見いだせないまま2014年も終わり、2015年も同じ状況のまま数ヶ月が過ぎていきました。ケント大学ではPh.Dの学生は、フルタイムの学生なら毎月、パートタイム学生であれば2ヶ月に1回、先生と直接会うか、あるいはメールやスカイプなどで連絡を取り、研究の進行状況を報告し、指導を受けなければならないと決められています。そしてどのようなやり取りがあったかを大学に報告することにもなっています。これは、私の様にスランプに陥った学生が指導教授との連絡を絶ち、結果的に退学してしまうという状況を防ぐ為だろうと思います。あまり捗ってないときは報告することもなく、面倒でもあるのですが、でも退学を防ぐには良い制度です。当時私はパートタイム学生にして貰っていたので、一月おきにG先生に勉強の報告をしていましたが、この頃先生へ送ったメールを読むと、先生に報告することもなく、進むべき方向を見つけられずに毎日鬱々としていたことが分かります。こうした暗中模索が半年以上続きました。しかし、2015年の初夏には論文全体を組み立て直すための理論的な流れを見出し、イントロダクションのアウトラインを書くことが出来ました。6月に先生に送ったメールを読むと、長い暗闇のトンネルから抜け出しつつあると感じていたようです。
2015年10月のG先生宛のメールを読むと、暑い夏の間に大変苦労してイントロダクションを書き終えただけでなく、その内容には結構面白い点もある、即ちその後に来る本文の内容に関しても楽観できると感じていたことが分かります。それからは私の論文執筆はゆっくりですが着実な前進を始めました。既に書いていた1〜3章を、ほぼ同じ素材やアイデアを使いつつ、構成を変え、新しく書き直しました。イントロダクションで展開した方針に従って、各章が、バラバラの印象を与えず、何とかひとつの結論へと収斂していくようにと、章のあちこちに論文全体のテーマに沿ったコメントをくさびを打つように書き込んでいきました。そうして常に全体のテーマを意識しつつ書いて行くと、各章の初校を書いた数年前には思いつかなかった新しいアイデアが浮かぶこともあり、特に1章と2章は大変改善されたと自分でも感じました。更に、もう削除するか、せいぜい付録(appendix)として残す他ないと思っていた3章も、全体のテーマのもとに組み立て直して、本文に組み込むことが出来ました。こうした全体的な書き直しに2016年いっぱいかかり、2016年の暮れから17年の年頭にかけてはようやく結論を書く作業をしました。
私は現役の教授であるセカンド・スーパーバイザーのB先生の努力で、色々な制度を使って2017年3月末まで学籍を延長していただいていました。その延長期限がどんどん迫ってきたので、2016年の秋には論文の修正をしたり結論のアウトラインを考えつつ、論文全体の英語を直してくれるプルーフリーダーを探し始めました。20ページ程度の雑誌論文であれば、旧勤務校の同僚など知り合いの英米人の先生方に何人かあたって英語を直して貰えるか問い合わせたでしょうし、現役の専任教員の頃はそうしていました。しかし、私の博士論文は最終的に8万5千語程度、246ページになりました。博士論文としてはけして長い方ではありませんが、これを現役の忙しい先生に熟読して直していただくのは無理です。仮にやろうと言ってくださっても、申し訳なくてとてもお願いできません。企業や科研費などの公費がふんだんにある大学教授なら、日本で営業しているよく知られた幾つかの校正業者に発注することも出来ますが、高額で何十万円かかるかわかりません。ある業者のウェッブ上の自動見積もりでは、時間をゆっくりかけて貰う最低価格でも38万円でした。ウェッブで校正業者を検索すると、イギリスや北米の業者も色々とあり値段はかなり安いところもありますが、信頼出来ません。M.PhilからPh.Dへのアップグレードのための論文はそうした業者に発注したのですが、出来上がったドラフトにはまだ間違いが沢山残っていたようで、G先生は、あまり良くない、と言っておられました。そこで、今回は業者ではなく顔の見える人に頼もうと思い、人づてに探し始めました。私の旧勤務校の大学院を修了し、イギリスのリーズ大学でPh.Dを取られたWさんが、二人ほど友人を教えて下さり、ひとりはお忙しくて無理だったのですが、もうひとりの方に落ち着きました。日本の国立大学で長年英語の先生をなさり、数年前に定年退職されて今は自宅でこうした英文校正のお仕事をされているアメリカ人のH先生です。ご自分も博士号をお持ちです。論文の書式はアメリカとイギリスでは大分違いますし、もちろん、綴りが違う単語もかなりありますが、そうした点は自分自身で気を配ることにして、この先生に英語を直していただく事にしました。2017年3月末の提出を目ざし、論文全体の完成を待たずに、出来た章からH先生に送って、沢山の間違いを指摘していただきました。
2017年3月末には何とかして論文を提出したいと思っていたので、H先生のコメントに沿って英語の間違いを直したり、全体の書式の修正や引用文のチェックなどをしつつ、大学の事務局にPh.D論文の提出の予告をしました。Ph.D論文は学生が用意が出来たと思っても勝手に提出できず、ケント大学の規定では3ヶ月前に提出の予告をすることになっています。提出の予告があると、私の所属していたセンターの場合、スーパーバイザー2人に加え、センター長の提出許可が必要です。書式や英語の修正は残っていましたが、ふたりのスーパーバイザーからは提出許可を貰っていましたので、後はセンター長ですが、建前としては、スーパーバイザーとセンター長と私の4人が直接会ってミーティングを開くことになっていました。しかし、私が日本にいてそれは出来ないので、スーパーバイザーの提出許可が出ていることを前提として、センター長とはスカイプで面接をすることになりました。その頃丁度学期末で、センター長が多忙でなかなか連絡がつかず、結局3月末が過ぎ、4月に入ってしまいましたが、スカイプで15分ほどの簡単な質疑応答がありました。センター長は、ふたりの専門家が提出を許可しているので、このインタビューは形式だけです、とおっしゃいました。始めてお話しした方でしたが、和やかにおしゃべりしただけで済みました。
そういう手続きを済ませ、何度も原稿をチェックして、やっと論文が完成。4月上旬に業者に論文の製本をしてもらい、大学の事務局に2部を、更にメールでPDFファイルを送りました。その後の口頭試問や学位授与式については既に先日のブログで書いたとおりです。こうしてふり返ると、最後の半年くらいは、日頃の私らしくない急ぎぶりで作業を進めましたた。3月中という目標からは少し遅れましたが大学からおとがめはなく、ぎりぎりゴールに走り込めたのは幸運でした。まだまだこの後、口頭試問、そして最終評価という関門が残っていたので完全に安心はできないのですが、とにかく提出できたときには大きな安堵感で一杯になりました。この時にはまだ関西のM先生とは連絡が続いており、早速報告の手紙を出し、お返事でお祝いの言葉をいただきました。但、そのお手紙の字が弱々しく、「今年いっぱいの命かも知れない」と書かれているのを見て大変悲しくなりました。
さて、今回まで6回連続で、順序は一部逆になりましたがPh.D課程を始めてから学位授与式までの道程をふり返ってみました。やたら長いし、最初は反面教師としてでも役に立つかもと思ったけれど、劣等生で年配学生の個人的な回想なので、レベルが低すぎて若い優秀な院生さんの役には立ちそうもありません。しかし、私自身にとっては退職後これまでの10年をふり返る良い機会となりましたし、これからも時々読み返して昔を懐かしむことになりそうです。悪文にもへこたれずに通して読んでくださった方がおられましたら、ありがとうございます。
さて前回のブログでは2014年の夏頃に始まったスランプのことまで書きました。今回は、その後、スランプを抜け出して論文完成に至るまでを思い出してみます。
論文の方向が見いだせないまま2014年も終わり、2015年も同じ状況のまま数ヶ月が過ぎていきました。ケント大学ではPh.Dの学生は、フルタイムの学生なら毎月、パートタイム学生であれば2ヶ月に1回、先生と直接会うか、あるいはメールやスカイプなどで連絡を取り、研究の進行状況を報告し、指導を受けなければならないと決められています。そしてどのようなやり取りがあったかを大学に報告することにもなっています。これは、私の様にスランプに陥った学生が指導教授との連絡を絶ち、結果的に退学してしまうという状況を防ぐ為だろうと思います。あまり捗ってないときは報告することもなく、面倒でもあるのですが、でも退学を防ぐには良い制度です。当時私はパートタイム学生にして貰っていたので、一月おきにG先生に勉強の報告をしていましたが、この頃先生へ送ったメールを読むと、先生に報告することもなく、進むべき方向を見つけられずに毎日鬱々としていたことが分かります。こうした暗中模索が半年以上続きました。しかし、2015年の初夏には論文全体を組み立て直すための理論的な流れを見出し、イントロダクションのアウトラインを書くことが出来ました。6月に先生に送ったメールを読むと、長い暗闇のトンネルから抜け出しつつあると感じていたようです。
2015年10月のG先生宛のメールを読むと、暑い夏の間に大変苦労してイントロダクションを書き終えただけでなく、その内容には結構面白い点もある、即ちその後に来る本文の内容に関しても楽観できると感じていたことが分かります。それからは私の論文執筆はゆっくりですが着実な前進を始めました。既に書いていた1〜3章を、ほぼ同じ素材やアイデアを使いつつ、構成を変え、新しく書き直しました。イントロダクションで展開した方針に従って、各章が、バラバラの印象を与えず、何とかひとつの結論へと収斂していくようにと、章のあちこちに論文全体のテーマに沿ったコメントをくさびを打つように書き込んでいきました。そうして常に全体のテーマを意識しつつ書いて行くと、各章の初校を書いた数年前には思いつかなかった新しいアイデアが浮かぶこともあり、特に1章と2章は大変改善されたと自分でも感じました。更に、もう削除するか、せいぜい付録(appendix)として残す他ないと思っていた3章も、全体のテーマのもとに組み立て直して、本文に組み込むことが出来ました。こうした全体的な書き直しに2016年いっぱいかかり、2016年の暮れから17年の年頭にかけてはようやく結論を書く作業をしました。
私は現役の教授であるセカンド・スーパーバイザーのB先生の努力で、色々な制度を使って2017年3月末まで学籍を延長していただいていました。その延長期限がどんどん迫ってきたので、2016年の秋には論文の修正をしたり結論のアウトラインを考えつつ、論文全体の英語を直してくれるプルーフリーダーを探し始めました。20ページ程度の雑誌論文であれば、旧勤務校の同僚など知り合いの英米人の先生方に何人かあたって英語を直して貰えるか問い合わせたでしょうし、現役の専任教員の頃はそうしていました。しかし、私の博士論文は最終的に8万5千語程度、246ページになりました。博士論文としてはけして長い方ではありませんが、これを現役の忙しい先生に熟読して直していただくのは無理です。仮にやろうと言ってくださっても、申し訳なくてとてもお願いできません。企業や科研費などの公費がふんだんにある大学教授なら、日本で営業しているよく知られた幾つかの校正業者に発注することも出来ますが、高額で何十万円かかるかわかりません。ある業者のウェッブ上の自動見積もりでは、時間をゆっくりかけて貰う最低価格でも38万円でした。ウェッブで校正業者を検索すると、イギリスや北米の業者も色々とあり値段はかなり安いところもありますが、信頼出来ません。M.PhilからPh.Dへのアップグレードのための論文はそうした業者に発注したのですが、出来上がったドラフトにはまだ間違いが沢山残っていたようで、G先生は、あまり良くない、と言っておられました。そこで、今回は業者ではなく顔の見える人に頼もうと思い、人づてに探し始めました。私の旧勤務校の大学院を修了し、イギリスのリーズ大学でPh.Dを取られたWさんが、二人ほど友人を教えて下さり、ひとりはお忙しくて無理だったのですが、もうひとりの方に落ち着きました。日本の国立大学で長年英語の先生をなさり、数年前に定年退職されて今は自宅でこうした英文校正のお仕事をされているアメリカ人のH先生です。ご自分も博士号をお持ちです。論文の書式はアメリカとイギリスでは大分違いますし、もちろん、綴りが違う単語もかなりありますが、そうした点は自分自身で気を配ることにして、この先生に英語を直していただく事にしました。2017年3月末の提出を目ざし、論文全体の完成を待たずに、出来た章からH先生に送って、沢山の間違いを指摘していただきました。
2017年3月末には何とかして論文を提出したいと思っていたので、H先生のコメントに沿って英語の間違いを直したり、全体の書式の修正や引用文のチェックなどをしつつ、大学の事務局にPh.D論文の提出の予告をしました。Ph.D論文は学生が用意が出来たと思っても勝手に提出できず、ケント大学の規定では3ヶ月前に提出の予告をすることになっています。提出の予告があると、私の所属していたセンターの場合、スーパーバイザー2人に加え、センター長の提出許可が必要です。書式や英語の修正は残っていましたが、ふたりのスーパーバイザーからは提出許可を貰っていましたので、後はセンター長ですが、建前としては、スーパーバイザーとセンター長と私の4人が直接会ってミーティングを開くことになっていました。しかし、私が日本にいてそれは出来ないので、スーパーバイザーの提出許可が出ていることを前提として、センター長とはスカイプで面接をすることになりました。その頃丁度学期末で、センター長が多忙でなかなか連絡がつかず、結局3月末が過ぎ、4月に入ってしまいましたが、スカイプで15分ほどの簡単な質疑応答がありました。センター長は、ふたりの専門家が提出を許可しているので、このインタビューは形式だけです、とおっしゃいました。始めてお話しした方でしたが、和やかにおしゃべりしただけで済みました。
そういう手続きを済ませ、何度も原稿をチェックして、やっと論文が完成。4月上旬に業者に論文の製本をしてもらい、大学の事務局に2部を、更にメールでPDFファイルを送りました。その後の口頭試問や学位授与式については既に先日のブログで書いたとおりです。こうしてふり返ると、最後の半年くらいは、日頃の私らしくない急ぎぶりで作業を進めましたた。3月中という目標からは少し遅れましたが大学からおとがめはなく、ぎりぎりゴールに走り込めたのは幸運でした。まだまだこの後、口頭試問、そして最終評価という関門が残っていたので完全に安心はできないのですが、とにかく提出できたときには大きな安堵感で一杯になりました。この時にはまだ関西のM先生とは連絡が続いており、早速報告の手紙を出し、お返事でお祝いの言葉をいただきました。但、そのお手紙の字が弱々しく、「今年いっぱいの命かも知れない」と書かれているのを見て大変悲しくなりました。
さて、今回まで6回連続で、順序は一部逆になりましたがPh.D課程を始めてから学位授与式までの道程をふり返ってみました。やたら長いし、最初は反面教師としてでも役に立つかもと思ったけれど、劣等生で年配学生の個人的な回想なので、レベルが低すぎて若い優秀な院生さんの役には立ちそうもありません。しかし、私自身にとっては退職後これまでの10年をふり返る良い機会となりましたし、これからも時々読み返して昔を懐かしむことになりそうです。悪文にもへこたれずに通して読んでくださった方がおられましたら、ありがとうございます。
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