2018/09/06

博士論文提出への長い道のり(2)

博士論文提出への長い道のり:(2)出発してから道に迷うまで

今回は、前回に続き、Ph.D論文の試行錯誤の道のりについてです。特に2014年に方向を見失い、スランプに陥った頃までをふり返ることにします。

私の博士論文の萌芽は2001年度に勤務先の研修制度を利用してケント大学、中世・近代初期研究センター(当時は、中世・チューダー朝研究センター、と呼ばれていました)に1年間留学した時に始まります。日本の学年暦に沿っての留学でしたが、世界的にもよく知られたチョーサー研究の権威で後に私のセカンド・スーパーバイザーをしてくださるB先生のご努力で、MA課程に入学し、修士号を取ることが出来ました。日本の大学院でも修士を修了していたので2つ目の修士号です。普通の学生とは逆の順序で、まず修士論文を書き、次にコースワークをしました。その時、中世イングランドの道徳劇や聖史劇には法律や裁判、法律家などに関する題材や用語が大変豊富であることに気づき、コースワークの一環としてレポートにまとめ、更に帰国後、それを修正して学会誌に投稿、編集者の指示に従って書き直した上で珍しく採用されました。そこで、このテーマで今後研究できるのではないか、と思いました。博士課程に留学することにした時には、入学願書に「中世劇とチューダー・インタールードにおける法と法曹」(Law and Legal Professionals in Medieval English Drama and Tudor Interludes)をPh.D論文のテーマとして研究したい、と書きました。

指導教授は、MA時代同様 G先生になることは決まっていたので、カンタベリーのアパートに入り、日常生活が一応落ち着くと直ぐに彼の指導を受けつつ勉強に取りかかりました。前回までに書いたように、イギリスのPh.DではまずM.Phil課程に登録し、1年前後にある程度の長さの論文を提出して、認められればPh.D課程に変更(アップグレード)するのが一般的です。ケント大学でも1年弱を目処に1万語程度の論文を提出することになっていました。私はG先生と相談し、先生ご自身もかなり詳しくご存じの16世紀のチューダー・インタールードをまず扱うことにして、その時代の劇における法的なモチーフについてまとめて、2009年の初夏に提出しました。審査はG先生と、もう一人はセンター長代理だった法制史の学者、B先生(先程のB先生とは別人)でした。B先生は法制史の専門家ですから、幾らか緊張しましたが、スーパーバイザーのG先生が提出して良いと言われたわけすから、提出できた時点でほぼ安心です。ということで1年弱かかって、Ph.Dにアップグレードできました。その後もこの論文を加筆修正して、1万5千語弱になり、私の博士論文の最終章とすることにしました。しかし最終的なPh.D論文は10万語、少なくとも8万語以上は必要なわけで、長さは気にすることはない、と言われても、先は長いなあ、と溜め息が出ました。単純計算で行くとそれまでの1年で書いた分量の6倍位は書かねばならないわけです。しかもまだ長い旅が始まったばかりで、これから色々な困難があるだろうとは予想できました。

そういうわけで、その後は、まずは論文内容の良し悪しにこだわらず、書けるところから始め、手持ちのアイデアや材料で書けることは全て書いて行き、後で修正しよう、と思いました。ある程度の量を書いて、出来るだけ早く論文完成の目処をつけたいと思ったのです。イギリスに住み、高い授業料を払い続けることの金銭的な問題ももちろんありましたし、その他、研究や金銭問題以外にも、私の年齢になると誰しも抱えている心配事もいくつかありました。

そうして、あまり内容にこだわらず、中味を磨くのは後回しにし、出来るだけの量をコンスタントに書き論文の完成が見えてくるようにしたい、と思って作業を進めていきました。しかし、前回のブログで書いたように、私の能力の限界は如何ともしがたく、時間はどんどん過ぎ、しかし書ける文章の量は最初の1年間のペースのままでした。ひとつには、前回までに書いたように、私が学際的なアプローチを取って文学作品にみる法や法曹について研究したために、それまで全く読んだことのなかった法制史(legal history)の本を必要最小限でも読むために膨大な時間がかかったのです。法制史関連の本を読み、中世劇のテキストを繰り返し読む、という事を同時進行でやるのですが、前者に途方もない時間を使ってしまいました。しかも、既に書いたように、私の読書は、沢山のノートの取りながらのかたつむりのような読み方で、論文は遅々として進みません。結局、7万語程度書き、全体が大体において形を現したと感じ、これから序論と結論に取りかかろうと思った時には、始めてから6年後、2014年になっていました。その大分前、2011年の夏には私は日本に戻り、非常勤講師や家事の傍ら、勉強を続けていました。

それまで私は各章、あるいは長い章の場合はその中のセクション毎にG先生に送ってコメントをいただき、修正していました。また、日本に戻った後も、毎年1度か2度ロンドンで先生と直接会い、指導も受けました。全体が固まりつつあった2014年の夏頃、私はそれまで書いた5章をもう一度一括してG先生に送り、先生は全体を再読して下さいました。しばらくして彼から、長文のコメントが送られてきましたが、それはかなり辛い内容でした。そのことについては既にその当時のブログ「博士論文の行き詰まり」で書いたので、ここではリンクを貼るだけにします。先生がおっしゃるには、要するに、論文草稿の半分以上がそのままでは使えない、大幅な書き直しが必要とのことでした。本文の原稿を通して読んで、理論的な一貫性に欠けていることが分かったそうです。それまでの、まずは書けるだけ書く、というやり方のツケが一気に回ってきたのです。全体の理論的構築を考えつつ各章を書いて行かなければならなかった、とこの時に気づかされました。でもそれまで私は、少しでも先に進むことで精一杯で、正直に言って、論文全体の理論的な一貫性を保ちつつ書ける実力も余裕も無かったのです。私自身、その頃イントロダクションを書こうとして、かなり困っていました。各章がバラバラなので、序論をどう書いて良いか分からなかったからです。

それから1年弱、私の論文執筆期間において一番苦しい時期が続きました。何だかノイローゼみたいになり何もせずにボーッと過ごす日もありました。鬱々としていると、そもそも勉強をするエネルギーが出ないので、論文とは全く関係の無い気晴らしをする日も多かったと思います。毎週1回行っていた非常勤講師の仕事や友人の先生のクラスでのゲスト講義、旧勤務校の市民講座の担当などの仕事は良い気分転換になりました。しかし、そうしている間にも時間は経ち、論文完成のゴールは霞んでいきます。ケント大学がいつまで私の在籍を許してくれるのかもはっきりせず、焦っていました。それまで読んでいた中世劇や法制史の研究書から離れ、理論的な支柱や新しい視点を求めて、「法と文学」のテーマについて書かれた本を捜し、何冊か読んだりもしました。当時読んだ本の中には、文学理論、社会学、建築史などの本に加え、カフカの短編小説もあります。カフカは若い頃から私の好きな作家でしたが、彼は「法と文学」に関する研究で良く題材として俎上に載せられる作家です。こうした無駄な脱線のように見えた読書が私の視野を広げ、その後、イントロダクションを考える上で重要な役割を果たし、私のPh.D論文が息を吹き返すことになりました。

この長いスランプの期間、私は2ヶ月に1回程度イギリスのスーパーバイザー、G先生とメールのやり取りをしていました。彼は「こう書きなさい」という具体的ヒントは与えてくれませんでしたし、また私のやっているテーマには通じていないので、そうしたくても出来なかったとは思いますが、常に励ましの言葉をかけて下さり、私には論文を完成するのに充分な能力があると繰り返し書いて下さいました。そして、今まで書いた章、特に問題の多い1〜3章を無駄だったと思わず、何とか組み立て直して使うように、と指示されました。

さて、今回はここまでとします。最悪の期間を抜け出して論文完成へと進んだ頃のことは次回続けます。

2018/09/04

博士論文提出への長い道のり(1)

博士論文提出への長い道のり:(1)何故つまずいたのか

最近3回のブログ・エントリーで、Ph.D論文について個人的に備忘録として書いておきたいことはぼぼ書き尽くした気がします。しかし、2008年秋に博士号のための勉強を始めてから学位取得まで10年弱、論文提出まででも8年8ヶ月ほどかかってしまいました。始めた時は、3年では無理とは思っていましたが、遅くとも5年以内にはできるだろうと楽観していたので、大変な計算違い、自分の能力の過大評価をしていたと思います。ということで私の博論修行はどなたにとっても良い手本にはなりませんが、逆にここまで長くなっても何とかゴールに滑り込んだという割合珍しい例かも知れないので、良い反面教師になるかもしれません。

何が問題だったか考えているのですが、いくつもの要因があります:

1. そもそも私の知的能力の不足。
2. 若い研究者と違い、学位取得後の就職等がかかっているわけではないので、それ程必死ではなく、むしろ、退職後の楽しみという要素が大きく、比較的ノンビリと勉強していた。
3. 配偶者が、今もそうだが、非常に忙しい生活を送っているので、20011年夏に帰国後は、私の日々のプライオリティーは、主夫業になり、勉強は2番目になった。
4. 持病をかかえ、体調不良の時がとても多く、そのために勉強出来ない日もしばしばあった。
5. 帰国後は非常勤講師や、元の勤務先の市民講座、ゲスト講師などのアルバイトにかなり多くの時間を使った(これもプライオリティーの問題)。
6. 指導教授2人も、ケント大学の所属センターも、急ぐようにと圧力をかけることはなかった。これは上記2のような私の勉強の目的からするとありがたかったが、その分かなり時間がかかる原因になったとは思う。
7. おそらく、選んだテーマが私の能力を超えた大きすぎるものであった。

1の能力不足という点ですが、そもそも私は記憶力がかなり劣っているのは子供の頃から家族にも言われ、自覚もしています。小学校から高等学校までの成績は普通でしたが、高校は地方の平均的な公立高校で、その後、大学入試に6校も落ちて、やっと3月半ばに受験した7校目で全員合格みたいな入試を受けて滑り込みました。その程度の知的能力なので、イギリスの大学で、しかも中世英文学で博士号を取ると言うのは、考えて見れば無理があったかもしれません。但、やれるかなと思ったのは、2001年度に勤務校の研修制度を利用してケント大学でMAを貰い、その折に最優秀の成績(distinction)をいただき、博士課程でも指導教授をして下さることとなったG先生やその他の先生に、Ph.Dをやらないか、とお勧めいただいたからです。でも、MAとPh.Dは全く違います。イギリスの大抵の大学院博士課程の場合、日本や北米の大学院と違いコースワークはありませんが、論文の長さは普通約10万語(上限)です。私の場合、指導教授からは、8万語から10万語の間と言われていました。但、どの先生もそうおっしゃるのですが、長さを気にすることはない、あくまで内容が大事、とも言われました。逆に、長さが充分かを気にするようなレベルでは内容は薄くて駄目だという事です。一方、ケント大学のMAはコースワークがあって、その後、修士論文が2万語です。2万語程度なら、日本で修論を書いたり、雑誌論文を書いたりしている者なら、過去の論文とか、それまで養ってきた知識をアレンジすればそれほど苦労しなくても書けますし、また、MA論文では、新しい学問的な知見が含まれなくても、既存の研究を良く勉強し、自分なりの視点から租借し、一貫した論旨で議論を積み上げていれば、少なくとも合格点は貰えるでしょう。しかし、Ph.D論文では、ほとんどの専門家から見てもそうと分かる明確な新しい知見が求められます。先行研究を踏まえるのは大事ですが、ただダラダラと過去の研究の整理を10万語近く並べるだけでは済ませられません。

若くて才能があり学問的に活躍されている先生方の研究の様子を見聞きして思うのですが、彼らは文献を読み消化するスピートが早い。特に本を読んで、大事な点を見分けて記憶する能力が素晴らしいのに驚きます。私は本、特に英語の研究書を読むのが非常に遅く、しかも読んだ事を片っ端から忘れて行くので、非常に細かいノートを取ったり、あるいは後で引用することを考えて、頻繁に長文をそのまま書き写したりします。ですので、色々な部分が博士論文に役立ちそうな本や、基本的な知識を仕入れるのに必要な概説書を読み出すと、延々と何週間も、時には2、3ヶ月も、時間が経ってしまいます。また記憶の容量が小さいので、パソコンで言うとRAMメモリにあたる、議論を展開するための各種材料を頭の中に留めておく能力も乏しいことになります。従って、色々とアイデアを展開するためには、その度に以前に書いたノート(つまりハードディスクのデータに相当)にアクセスする必要があります。私の親類に京大を出た優秀な若者がいますが、受験勉強中、教科書や参考書で一度読んだことは大抵忘れなかったらしいです。「なんだこいつ、うらやましい!その記憶力、分けてくれ」と思ったことの「記憶」はあります(^_^)。私の勉強のやり方がそんなですらか、時間がかかるわけです。それで、何とかもっと早く読めないかと焦るのですが、無理に早く読もうとすると後には記憶も物理的なノートも何も残らないことになり、やはりダメだ、と元のかたつむりのような読書に戻る事になります。それぞれ、自分に与えられた能力でベストを尽くすより仕方ありません。

7番目に書いたテーマの大きさですが、私は自分の人生最後にして最大の楽しみとしてこの勉強を始めましたので、学位取得を第一の目標にしてテーマ設定を小さくまとめず、出来るだけ自分のやりたいようにやろうとは思っていました。それで、かなり学際的なテーマを選び、今までほとんど読んだことのない分野の本をかなり読み始めました。最初は基本的な概念や用語も分からず、延々と同じ入門書を読んで、「こんなことやっていて、役に立つんだろうか」と思いながら暗中模索していました。結果的には、最初の1、2年目のそうした勉強と、当時取った沢山のノートが随分役に立ち、私の博士論文の個性を支えることになりましたが、私が若くてキャリア形成のために早く博士号が必要だったならば、違ったやり方をとるべきだろうと思います。

テーマの選択や理論の組み立てにおける専門的な部分での試行錯誤については、指導教授のアドバイスが非常に大事です。私の論文はほとんどがイギリスの中世演劇を扱っていますが、メイン・スーパーバイザーのG先生は、専門分野が私とはやや異なっています。彼はご自身の博士論文では中世演劇を扱い、その後も、1980年代頃までは中世演劇を主に研究されていたと思いますが、その後、引退なさるまでは主として近代初期の演劇、つまりシェイクスピアや彼のほぼ同時代の演劇(16世紀始めから清教徒革命前[1640年頃]までの演劇)を中心に論文や研究書を出されてきました。従って最近のイギリス中世演劇の研究はフォローしておられず、またそもそも退職したこの数年は研究活動から完全に遠ざかっています。それ故、既に書いたように、G先生は論文の専門的な内容については、私の自由にさせて下さいました。そのことは、私が間違った方向にかなり進んでしまっていた時も、彼は直ぐには気づいてくれなかったということを意味します。すでにブログ・エントリー「博士論文の行き詰まり」で書いたように、2014年頃にG先生が論文の大きな問題に気づき、その後私が長い停滞に苦しんだ背景にはそういうこともありました。しかし、G先生の、やや古風な自由放任の指導は、今となって考えると、年配の学生である私にとって一番適していたと思います。細々と縛られ、あれこれ注文を付けられていたら、嫌になって途中で止めたかも知れません。

今回も既に長くなりましたので、ここで一旦止めます。次回以降で、私の論文執筆の試行錯誤をより具体的に書き、出発、挫折、停滞、再出発、完成の流れを跡づけたいと思います。

2018/09/02

口頭試問(VIVA)当日から、Ph.D論文の最終承認まで

前回のブログでは論文提出後、Ph.D 論文審査の試験官の決定や、口頭試問の準備について書きました。今回は、その口頭試問自体について、もう大分忘れてしまったのですが、憶えていることを書いておきます。

私は論文の評価がどうなるかについては、ある程度不安がありましたが、口頭試問自体が上手く行くか行かないかは、ほとんど心配していませんでした。と言うのは、教員として長年修士論文の審査をしてきて、口頭試問の受け答えの上手下手で論文の評価が変わることはまずない、と確信していたからです。私は、何度も長期留学をしているにも関わらず英語の会話能力はお粗末だし、近年は年齢のせいで多分平均的な老人よりも早くやや難聴を自覚するようになり、会話で聞き直すことが多くなりました。というわけで、とても上手に受け答えすることは出来ません。しかし、評価されるのはあくまで論文そのものです。口頭試問により、試験官がそれまで気づかなかった論文の長所とか短所、執筆者の努力などに気づかされていくらか評価が変わることはあり得ますが、根本的な判断、合格・不合格、あるいは、細かな訂正(minor corrections)で済むか、全体的な修正・書き直し(major revision)が必要か、という点が変わることはほとんど無いと思います。但、二人の試験官の評価が大きく異なることは偶にあるようなので、その場合は、口頭試問の結果と言うより、二人の試験官が直接話をするこの機会、つまり口頭試問の前後に、どちらかの試験官が、もう一人の試験官の意見を聞いて大幅に評価を変えることはあり得ます。

今回、改めて試験官二人が書いて大学に提出し、またサイン入り写しを私も郵送して貰った公式の報告書(Examiners' Report)を読み返してみました。その報告書は、ベースに大学の決まったフォーマットがあって、評価については後で述べるように幾つかの選択肢の中からひとつにチェックを入れたり、論文で修正すべき点について試験官が記入したりするようになっています。もらった時は、パスしたと言うことしか考えてなかったんですが、ケント大学ではPh.D論文の成績には、細かくは8つあることが分かりました。即ち簡単にまとめると:

1. 所謂ストレート・パス。そのままで良い、という一番良い評価。(Examiners' Report のフォーマットの文は、We recommend that the candidate be admitted to the degree of PhDだけ)

2. 小さな訂正(minor corrections)が必要。3ヶ月の猶予期間の間に修正して学内試験官のみがチェックした上でパス。(文面は、We recommend that the candidate be admitted to the degree of PhD subject to certain minor corrections to the thesis being carried out to the satisfaction of the Internal Examiner within three months . . . . で始まります。以下省略)

3. 内容に関するある程度実質的な修正(revision)が必要。その上で、6ヶ月以内に学内と学外の両方の試験官に再提出し、二人は再度合否を相談する。

4. 修正(revision)ではなく、全般的な書き直しの上で再提出(resubmission)が必要。しかもこれは試験官だけでなく、再提出を許可することを所属部門の会議でも承認される必要がある。その上で1年以内に書き直して、二人の試験官に再提出。

5. (論文の再提出ではなく)口頭試問を6ヶ月以内に再度受ける(これがどういう場合に当てはまるのかは不明。論文は合格だけど、口頭試問が不合格という意味だろうから、多分人文系はないケース?)。

6. 論文はPh.Dには相応しくないので、そのまま修正しない形で M.Phil (Master of Philosophy) の学位として再提出をすべきであるという評価。

7. 上記6に準じ、M. Phil授与に価するが、M.Philの学位としても小さな訂正(minor corrections)が必要なので、3ヶ月の間に必要な訂正をして再提出、という評価。

8. いかなる学位も授与することは出来ないし、修正や再提出も許されないという評価(その学生の人生に破壊的な影響を与えるので、ここまでこじれるケースはほとんど無いとは思うのですが、間接的に聞いたことはあります)。

イギリスの大学は大体似たような評価システムと思いますが、こうしてみると、論文の出来が悪い場合でも色々な救済方法が用意されているわけです。ほとんどすべての人は1から4までのどれかの評価を与えられます。6とか7は話に聞いたことはありますが、普通、論文を提出し口頭試問を受ける大分前に、指導教授から、Ph.Dは多分無理だろう、と言われるでしょうし、本人も自分は向いてないと思って辞めて行く人がある程度いると思います。またほとんどすべての大学では、Ph.Dを目ざす人もまずは形式上M.Phil課程に入学し、1年前後の時期にPh.D課程にアップグレードをする事になっているので、その時点で、アップグレードは不可という判断が下され、博士は難しいと言われると思います。私が間接的に知っている日本人の研究者で、Ph.Dを目ざしていたけれどM.Philしか貰えなかったという方のこと聞いたことがあります。その方は他の大学に移ってPh.Dを授与されたそうです。しかし私の知るほとんどの方は(と言ってもあまり知り合いはないのですが)、1か2の評価。たまに3か4もあるようですね。私の指導教授も、エクスターナルとして審査した論文で、4の全面的書き直しの評価を出したことがあるとおっしゃっていました。第一次資料が不足していたので、もっと資料を増やした上で書き直すように要請したとのことでした。

前回も書いたように私のVIVAの試験日は2017年9月11日、時間は午後2時からで、場所は大学のセミナー室(十数人座れる小さな教室)でした。私は折角イギリスに行くのだから、時差ボケを完全に解消して体調を整える事を考え、8月下旬からロンドンに行って、涼しい中で美術館、博物館や劇場に行ったり、勉強をしたりしていました。もちろん、論文を数回読み直しました。ロンドンに滞在していて、私の宿舎からカンタベリーの郊外にあるケント大学のキャンパスまでは、普通の電車を使っていくと電車やバスの待ち時間や歩く距離等も入れて2時間半〜3時間くらいはかかります。電車は良く遅れるので余裕を見て10時頃家を出たと思います。大学に着いたのは1時間くらい前だったのですが、図書館でメモを読んで準備していました。電車の中でも図書館でも、上で書いたような想定される質問の答とか、詳しいサマリーを読むことで、安心が得られました。実際にどれだけ役に立ったかは分かりませんが、精神的には、自分が思いつく限りの充分な準備をやっておいて良かったと思います。

会場のセミナー室に着いたのは、定められた時間、2時、の5分か10分前だったと思います。その時には既に2人の試験官は椅子に座っておられました。エクスターナルのM先生は私を憶えておられて、Nice to see you again と言われたように思います。インターナルのW先生は始めてお目にかかりました。質疑応答は主にベテランのエクスターナルの先生が先導し、インターナルの先生が捕捉するというペースで進みました。インターナルの若い先生は、大ベテランに大きな敬意を払っていることが窺えました。質疑応答の時間は1時間45分くらいで、その後、15分くらい私が席を外している間に2人が相談し、その上で、私が部屋に戻り、評価を言い渡されました。最初にこの流れをM先生が説明してくれたと思います。それから、最初に、何故中世イギリス演劇に関心を持つようになったか、そして、このテーマを選んだのは何故か、という2つの予想していた質問を受けました。その後は具体的にどういう質問があったかは、もう忘れてしまいました。というより、下手な英語を使って非常に苦労して質問に答えていたので、憶えている余裕も無かったという感じです。卒論や修論の口頭試問、入試の面接など、これまで教師として若い人に色々と質問する機会は多かったのですが、自分が質問を受ける側になってみると、なかなか上手く受け答えできないなあ、と思いました。その主な原因は英語力不足でしたが。但、上で書いたように、口頭試問では評価はほとんど変わらないと思っていたので、それ程緊張はしませんでした。

最初に全般的講評として言われたのは、「あなたの論文はとても良い。(序論で)この論文の目的としていることを、全体として成し遂げている」ということでした。英語では、'It's a very good thesis. You accomplished what you set out to do'というような表現だったでしょう。その上で、これからの質疑応答では、今後、この論文を本や学術雑誌論文など何らかの形で発表する場合、どういう風に直していけば良いか、という視点から質問やコメントをします」とも言われました。それを聞いただけで、ああこれで少なくとも大きな問題はないんだな、とは分かりました。しかし、その後に頂いた質問やコメントを聞いて、自分の実力不足や不用意な点を痛感しました。基本的に、この分野の新しい批評を充分な量読んでおらず、その点で議論の厚みや深みが足りない、という事を指摘されました。但、既に、これはどうしようもないと自覚していた点です。私の英語力では、英語圏やヨーロッパの院生と比べるとどうしても読んだ研究書や論文の量で見劣りがし、提出前から言われるだろうと思っていました。しかし、もっと沢山注をつけて、読んでいる参考文献に詳しく言及すれば良かったな、とは思いました。私自身は、注の非常に多い論文は、そうした注に気を取られて読みづらいと感じるので、注があまり多くなるのは好きではないのです。また、私のメイン・スーパーバイザーからも参考文献の不足についての注意が全くなかったのも、こういう指摘を受ける結果になってしまった一因でしょう。一方で、私のスーパーバイザーは論文の構成については、度々的確な指示をしてくれ、おかげで、VIVAでは、そういった点での駄目出しはまったくなく、むしろ評価するコメントをいただきました。著書、編著を色々と出されているベテラン教授のエクスターナル、M先生は、今の出版情勢を考えると、私の博論をこのままアカデミックな議論ばかりの状態で単著として出版するのは無理だが、より一般的な説明を付け加えて書き直せば、出版が可能かも知れない、と言われました。書籍にも出来ると言って下さっただけでも、私には大変光栄でしたが、正直言って、ここまで来るのに約9年もかかっているので、これ以上、また大幅に書き直し、出版社のエディターや何人かのレフリーに読んで貰って更に色々と書き直し、しかも補助金や自己資金なしでは、出版できるかどうかも分からない、という困難な道をたどる時間やエネルギーは、年寄りの私にはありません。ということで、口頭発表や学術雑誌への投稿という形で発表していきたい、と答えたと思います。

内容に関して、各章の要点となっている大きなトピックとか、私の考えた新しい解釈などについては、ほとんど問題ない、むしろかなり高く評価されているところも多い、という印象を受け、嬉しく思いました。日本の学会で過去に研究発表や論文の投稿をした時には、「それは考えすぎでしょう」とか「的外れ」というようなコメントを何度もいただいているので、部分的には、あるいは章によっては、内容面でそういうコメントをある程度いただくだろう、と思ったのですが、全くなかったと思います。上に書いたように、問題点としては、文献の読み方が足りず、議論が不十分な点を指摘された程度だったでしょう。また口頭試問の目的に沿って、論文についての試験官の評価や意見を言うよりも、私の考えを聞く方に主眼が置かれていました。

さて、質疑応答はあっという間に終わり、15分ほど私が席を外した後に戻ると、評価が言い渡されました。2人の試験官が紙面で出して下さる点について論文の細かな訂正をするということを条件にパス(pass with monor corrections)という、最も多い評価をいただきました。その後は、ではさようなら、という感じで、さっさと帰宅の途に就きました。色々な大学院では、VIVAの後、スーパーバイザーや試験官とシャンパンで乾杯したり、パブに行ったり、まあ少なくともお茶を飲んで苦労話したりくらいはするらしいのですが、ちょっとあっけらかんとした幕切れでした。何しろ指導教授はもうとっくに引退していて大学には来てないし、私は試験官2人とはほとんど初対面か、以前学会で挨拶しただけという程度の知り合いですからね。

VIVAの時に口頭で言われた評価は上記の通りなんですが、その後郵送で送られてきた公式のExaminers' Reportの評価は、既に書いた1から8までの成績のうち、1,つまりストレート・パスにチェックが付けてありました。しかし、添付文書で、訂正点として、M先生はシングル・スペースで1.5ページ、W先生は2ページちょっとにわたり色々直すべきところが書いてありました。それらはほぼすべて、語句やスタイルの訂正で、平凡なケアレスミス、冠詞の要・不要、前置詞の間違い、適切な単語への置き換えなどでした。つまりそういう内容には関わらない語句の訂正だけならば、評価は1となるんですかねえ。良く分かりません。それにしても、本文をしっかり見直し、更に元大学教授で、プロのプルーフ・リーダーをされている方に原稿を直して貰い、またメイン・スーパーバイザーのG先生も、単純な英語の修正はしないことにはなっていたのですが、それでもかなりの間違いを直してくれたのですが、なおも随分沢山の間違いが残っていたものです。やれやれ・・・。まあ、試験官が英文学の研究者ですから、言葉には厳しいですよね。

Examiners' Reportには、そうした細かな間違いの訂正の他に、試験官連名のVIVAの報告、インターナルのW先生による全体的な講評(シングルスペースで1.5ページ)があり、それぞれに私の論文の長所と、出版する場合に改善すべき点が書いてありました。その上、W先生は、ほぼ4ページにわたり、各章や序章、結論について、内容に関する大変具体的なコメントを書いて下さいました(すべてシングル・スペースですのでかなりの分量です)。今それを手元で見ているのですが、論文や学会発表の業績を矢継ぎ早に出され、大変お忙しいに違いないW先生が私の為に使って下さった時間や傾けて下った努力には本当に頭が下がります。VIVAの後、お礼のメールを書いたのですが、学位を貰った今、もう一回書かないといけないな。

VIVAを終えてホッとした翌日の9月12日、メイン・スーパーバイザーのG先生のロンドンのご自宅に伺って試験結果の報告をし、楽しい時間を過ごしました。本当に9年間も辛抱して付き合ってくれた彼には感謝し過ぎることはありません。また、最近のイギリスの大学では、決まった年限で博論を出させないとその学生の所属学科の評価が下がるようなので、急いで作業するように強力にプッシュするところが増えているようです。この歳で、しかも博士課程の学問を充分に味わおうと思って入学したのに、学部やセンターの方針で圧力をかけられるとウンザリして嫌になったと思うので、そうでないスーパーバイザー、そうでない所属機関とセンターで本当に幸いでした。

VIVAの3日後、14日の飛行機で帰国。帰ってからしばらくは時差ボケで、例によって体調もひどかったのですが、ぼつぼつ試験官に指摘された訂正点を直し、9月19日にケント大学中世・近代初期研究センターのセクレタリーに修正した論文を送りました。それをセクレタリーがインターナルのW先生に転送してくれ、10月27日に、セクレタリーから、W先生が訂正点を承認し学位授与が最終決定した、とのメールがありました。それで、私は博士論文を収める電子リポジトリに論文をアップロード。予めG先生と相談して、3年後の2020年10月に全面公開というスケジュールにして貰いました。

ケント大学カンタベリー・キャンパスの卒業式(学位授与式)は7月と11月に開かれます。直後の11月の卒業式には手続き上間に合わないので、私の卒業式は2018年7月になりました。論文提出後VIVAまで5ヶ月待ったし、最終承認が下りたのが11月の式の直前というタイミングの悪さで、卒業式の出席は提出の1年3ヶ月後となってしまいました。

さて、前回に続き、今回も長文になりました。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。論文提出に関して、提出前後の仕上げの作業や全体的な執筆の反省点、私が抱えていた問題など、近いうち、多分もう1回か2回書こうと思っています。

2018/09/01

論文提出から口頭試問(VIVA)の前まで

前回、Ph.Dの学位授与式の様子などを書いたのですが、式というものはやはりかなりの感慨を生むように出来ていて、出席して良かったと思いました。しかし、私にとっては、遙かに大きな区切りであり、歓びを感じたのは、論文の提出と、口頭試問(英語ではVIVA、ないしはViva Voce)を終えた時でした。そこで、今回は博士論文提出からVIVA(ヴァイヴァ、と読みます)の前までの手続きや準備について書きたいと思います。というのも、私自身、昨年4月に論文を提出すると直ぐ、いやそれ以前からずっと、色々な元Ph.D学生の方々のブログやネット談話室の書き込みなどを読んで、VIVAというものはどういうものか、またどう備えたら良いか調べていました。知人の超優秀な日本人留学生がマンチェスター大学大学院に行かれたのですが、マンチェスターでは指導教授がVIVAの予行演習をやって下さったそうです。私の指導教授は何しろ引退していて大学にはいないし、私は日本にいるし、とても親切な方なんですが、そもそもそういう細かいケアをやって下さる方ではなく、VIVAについては、何のアドバイスもありませんでした。「君の論文は私ともう一人のスーパーバイザー、B先生が高く評価しているから、心配することはない」とは言ってくださいましたけれど・・・。ケント大キャンパスにいると、大学院には色々な実用的ワークショップがあり、そのひとつとしてVIVA preparation workshopという講演会を時々やっていて、それを受講したかったなあ、と思っていましたが、日本で勉強しているので無理・・・(これからイギリスでVIVAを受ける方はおそらく多くの大学院にあると思うので利用してください)。私は、前回書いたように、特にブラッドフォード大学の院生だったTakaoさんのブログと、イギリスに住んでおられる日本語教師のデコボコ・ミチさんのブログを参考にさせていただきました。分野が違うので、具体的な準備方法を教わると言うよりは、同じ日本人が受けた時の感想を日本語で読んで少し安心できた、という感じでしょうか。それから具体的には、大抵の大きな大学の大学院のウェッブサイトには、VIVAについての詳しい解説や準備方法が説明してあるでしょう。アドバイスや模擬VIVAのビデオは、YouTubeなどにもあります。

私の論文は4月始めに完成して、その後製本業者にソフトカバーで3部、製本を注文し、数日で送られてきました。製本業者にどういうところがあるかについては、日本の大学で博士論文を出された若い先生のブログを参考にしました。製本した一部は前回書いた関西にお住まいで、私の論文執筆の進行をずっと心配して下さっていた恩人の先生にお送りし、残り2部をケント大学の中世・チューダー朝研究センターの事務室に送りました。また、論文のPDFファイルをメールでほぼ同時に送付しました。現在、ケント大学では、製本した論文を最終的には提出する必要はありません。試験官が読むためのソフトカバーで製本された論文を提出する必要があるのみです。VIVAの後、訂正など済ませた論文のファイルを提出し、予め決められた時期に大学の電子リポジトリより公開されます。公開については、1)訂正等終わり、合格した時点での即時公開、2)一定の年限、遅らせての公開(例えば提出の3年後など)、3)本人の同意がない限り未公開のまま、の3種類から選ぶようになっています。2のケースを取る主な理由は、学術雑誌への投稿や研究発表の場合、未公開を原則とする事が多いからです。但、長大な博士論文をそのまま雑誌論文や口頭発表の原稿には出来ないので、同じ文章となることは少ないとは思いますが、1章をほぼそのまま使うというようなケースはしばしばあるでしょう。ハードコピーはその後、もう一部作り、セカンド・スーパーバイザーに送呈しました。メイン・スーパーバイザーの先生は、論文のファイルがあれば充分とのことでした。実は私自身も自分用に製本したものは持っていません。口頭試問の時も、自宅のプリンターで印刷し、文具店で買ったバインダーで綴じた論文を参照しました。

さて、口頭試問の試験官の人選ですが、丁度、論文を提出した4月頃に決まったと思います。人選にはスーパーバイザー2人と所属部門の(私の場合、中世・近代初期研究センターの)先生1人か2人がかかわります。後者はおそらくセンター長と学内試験官(an internal examiner、単にinternal と略すことも多い)。学内試験官は、大抵所属学部やセンターで学生の論文内容と専門分野が一番近い先生になるでしょう。私の試験の場合、論文の題材である中世イギリス演劇を主な研究対象とされている若い先生がおられたので、ほぼ自動的にその方がインターナルとなられるだろうと想像出来ました。そうすると、インターナルと指導教授が相談して、外部試験官(an external examiner、エクスターナル)を決めます。イギリスの大学の博士論文審査は、学内試験官一名と、学外試験官一名によってなされます。普通、研究室やセミナー室などの部屋を使い、非公開による開催です(日本やヨーロッパ大陸の大学では、公開審査が結構あるようですし、あるいは口頭試問自体は非公開で行われても、その後、公開の論文発表会が行われる場合もあります)。学位候補者の指導教授は審査に加わることは出来ませんが、オブザーバーとして試験に立ちあうことは許されます。日本の大学の場合、恐らく指導教授が試験官に加わるところが多いでしょう。私の指導教授も、自分は審査に参加できないので、「君の論文は充分合格すると確信しているが、こればかりはやってみないと分からない(You never know what will happen)」とは言っていました。指導教授がオブザーバーとして加わると、試験官ふたりはかなり緊張するかも知れませんね。なお、おそらく、学位候補者自身も指導教授を通じて試験官、特に学外試験官の人選について希望を出すことは可能でしょう。私は特に希望はなかったので、先生達にお任せしました。日本の大学と大分違う点として、試験官は教授とかその他のベテラン教員(イギリスでは例えばa senior lecturer)とは限らず、かなり若い先生も試験官になる可能性があります。そもそも、英語圏諸国では大学院のセミナーやチュートリアルを教えたり、博士論文の授業を担当するのは、ベテラン教員とは限らず、30歳代の方も沢山います。一般的に言って、学内の役職などで大変忙しい年配教員よりも、若い先生方の方が最新の研究に通じていることが多いのは、イギリスでも日本でも同じでしょう。ベテラン教授だけが大学院を担当するのが通例の日本のシステムは良くないと思います。

論文の提出後1ヶ月位過ぎた5月中旬にエクスターナルの先生が決まったのだろうと思います。セクレタリーがなかなか試験官の名前を知らせてくれないので(忘れていたのでしょう)、6月になってこちらから尋ねました。インターナルは予想していた若手中世劇研究者で、エクスターナルは、中世劇研究では知らない人がいない大ベテランの権威者でした。学会で2度会って少し言葉を交わしたことがありましたが、とても紳士的で、親切な方という印象を受けたので、彼に決まって安堵しました。彼は丁度大学を退職し、名誉教授になられたばかりだったと思います。その後、一月半くらい経った6月中旬、口頭試問の期日は9月11日と通知がありました。一応建前としては、論文の提出から3ヶ月以内程度で口頭試問があることになっていましたので、そして多くの大学ではその程度のようなので、5ヶ月近く経った後というのは、かなり時間がかかっています。私が国外にいて、連絡がいまひとつスムーズにいかなかった点に加え、エクスターナルは最初別の候補者が考えられていたのかも知れない、などと想像していますが、分かりません。さてそれであわてて飛行機の切符やらイギリスの宿舎やらを手配しました。

さて、そういう手続きを追いかけながらも、私はVIVAの具体的な準備をしていました。私自身は専任教員時代、所属学科に博士課程はなかったので博士論文の審査はしたことがなかったのですが、修士論文の審査は度々やりました。修士であろうと博士であろうと、口頭試問では、最初の方で幾つかの基本的な質問をしますので、それに対する答は用意しておかないといけません。私は次のような一般的な質問に対する英語の答を書いて、何度も読み返しました:

1. 何故私は中世劇に関心を持つに至ったか。-----これについては口頭試問で実際に聞かれました。

2. なぜこの論文で取り上げたテーマを選ぶに至ったか。-----これについても聞かれました。

3. この論文の特徴と長所-----5点ほど、長所を述べました。特に「長所を述べてください」というような聞かれ方はしませんでしたが、色々な質問に答える上で役に立ったとは思います。

4. この論文の短所や残った疑問点-----自分の能力不足などから、やりたくても手が届かなかったことなど3点をまとめました。直接こういう問いはなかったように思いますが、全体として、論文の欠点を自覚しておくことは役だったと思います。

5. もっと時間をかけることが出来ればやったであろう点-----4の続きみたいなことですが、2点ほど挙げました。しかし、こういう問いかけはありませんでした。

6. 今後どういう方向に研究を進めたいか、論文の成果をどういう風にして発表、ないしは社会に還元したいか。-----口頭試問でもちょっとこういう話はありました。但、答を準備するほどの問題じゃないですね。それに私はもう老人なので、今は正に、仕事も研究も引退です。

以上6点について、英語で2ページ半くらいの答を用意しておきました。更に論文の各章、序章、結論の簡潔なサマリーを3ページほどにまとめました。

以上の準備に加え、これが一番時間がかかったのですが(1ヶ月以上かけたかな)、博士論文の「詳しい」サマリーを12ページにわたって書きました。これは文章ではなく、各ページ毎に大体何が書いてあるか、数語(1行程度)でまとめるように心がけました。ひとつの理由は、何か具体的な事を聞かれたときに、論文のどこに書いてあるかが速やかに分かって、なるべく早く答えられるようにと思ったからです。でも口頭試問では実際にはそのような細かな質問はなく、実際、このサマリーを口頭試問の間に開くことはありませんでした。但、このような詳しいサマリーを作ることで、ほぼ9年近くの長い時間で書いてきた論文を読み返し、細かく思い出すことが出来たので、充分にやった甲斐はありました。

以上、英語で書いた文章をひとつの紙挟みに綴じて、プリントした論文を挟んだバインダーと共に口頭試問の会場に持参しました。

さて、この次は口頭試問当日の様子を書こうと思いますが、このエントリーもたいへん長くなってきたので、ここで一旦止めて、また改めて書きます。

2018/08/28

7月20日、学位授与式に出席しました。

7月20日、ケント大学のPh.D(博士号)の学位授与式に出席しました。その後、大学院生として所属してきた中世・近代初期研究センター(Centre for Medieval and Early Modern Studies)の指導教授、学科のセクレタリー、励ましていただいた元の勤務先の同僚など、ここ数年間にお世話になった方々にご報告とお礼のメールを書いてきました。私が仕事を辞めてイギリスに渡って博士課程を始めたのは2008年の9月です。2011年の夏には日本に帰国し、非常勤講師などしつつ勉強を続けてきました。この夏で最初に始めてから10年間経ちました。私もすっかり歳を取り、元々虚弱体質でもあるので、心身共に元気が無くなりました。本当に長い年月が過ぎたと思います。それだけに、何とか重い重い肩の荷を下ろせて、安堵しています。式から1ヶ月以上経ち、少しずつ記憶が薄れてきました。元々忘れっぽい上に、老人の私ですから、何もかも忘れてしまう前に、卒業式のことを書いておきたいと思います。

論文そのものを提出したのは去年の4月始めなので、その時点での感慨のほうがずっと大きくて、今回は観光旅行に行ったような気分でした。でも両親や妻、妹が喜んでくれたのが、とても嬉しかったです。またメインのスーパーバイザー(論文指導教授)も大変喜んでくれました。論文を書き終えられたのは本当に彼のおかげ。感謝しきれません。メインのスーパーバイザー(G先生)も、セカンド・スーパーバイザー(B先生)も、2001ー02年にMAを取った時にもお世話になった先生達。特にG先生は、私よりも5才ほど年上ですが、私が始めてから2年くらいで大学を退職されたのに、その後もずっと私の指導だけは公式に引き受けて下さいました。手当は僅かでしょうけど、一種の非常勤講師のような扱いだったようです。彼は、引退後はアカデミズムから離れて世界中を旅しておられ、趣味も沢山で引退生活を大いに楽しんでおられるようですが、律儀に私の草稿を読んでコメントを下さいました。私が既に教員としてのキャリアが長いことを考慮されたのか、指導学生と言うより友人として遇していただいたと思います。それで、私がマイペースになりすぎ、なかなか書き進めなかったかもしれません。でも、もし彼が私を叱咤激励し、時には鞭打つような事を言って急き立てていたら、きっと私は最後までやりおおせなかったでしょう。それでなくても、後半は自分の力に余る事をやっていると思って、いつ辞めるべきか、とずっと考えていたのですから。

セカンド・スーパーバイザーのB先生は、既に大学を引退したG先生に代わって、学科との連絡をし、事務的なアドバイスをしていただきました。また、論文が一応出来上がった時点で、論文全体の構成についての的確なアドバイスには助けられました。彼は私が最初にケント大学に見学に来た2000年の夏休みに、自らキャンパスを案内して下さり、更に2001年4月から翌年3月まで日本の学年暦に沿って研修期間が取れると言うと、その期間に合わせてMAを取れるようにしてあげようと言ってくださったのでした。おかげでケント大学でMAが取れることになり、その後にはPh.Dをやりたいという気持ちも芽生えました。この二人のおかげで学位が取れた、とつくづく思います。

Ph.D 論文に取り組んでいる間、色々な方にお世話になったのですが、中でも一番親切に励まして下さり、最もこの報告をしたかった関西にお住まいのM先生が音信不通になって居るのが辛いです。家族を除くと、私の論文の完成を最も望んで下さった方と思います。私は、一度だけ学会のシンポジウムに参加させてもらったことがあって、その時に私を誘って下さったのがM先生でした。論文執筆中、度々直筆の手紙や葉書、更に電話も頂いたのですが、昨年の初め、重病にかかっていてもう長くは生きられないとの知らせがあり、その後、昨年5月21日消印の葉書が最後になりました。その葉書は、4月に提出した論文を製本してお送りしたことへのお礼が書かれていました。その後は、9月に口頭試問が終わった直後や、10月の最終的な合格通知を受け取った後、ご報告の手紙を出したのですがお返事はありませんでした。M先生と連絡があるかもしれないと思った先生方に消息を聞いてみたのですが、ご存じありませんでした。正直言って、恐らく既にお亡くなりになっているだろうと思います。その事を考えると、2年早く提出しておれば間に合ったのに、と大変申し訳なく思います。

さて、式は7月20日の午前中だったのですが、私は海外旅行をすると、そして特に時差の大きな国に行くと、しばらくは腹痛などかなり体調を壊すので、用心して14日にロンドンに到着し、20日の卒業式に備えました。着いてから20日までに劇を2本見たり、ロンドンに住むメイン・スーパーバイザーに挨拶をしに行ったりしていました。式は午前10時30分から、そしてレンタルのガウンを受け取る時間は8時半からでしたので、19日の午後にカンタベリーに行き、B&Bに一泊しました。

ケント大学カンタベリー校(メイン・キャンパス)の卒業式(学位授与式)はカンタベリー大聖堂で開かれます。私の所属する中世・近代初期研究センターは学科横断の学際研究センターで、学生は大学院生だけで学部生はいません。従って私の所属するセンターから卒業式に出るのは僅かです。卒業式は年に2回あります。学部生のほとんどは7月に卒業式を迎えますが、これが日本の3月の卒業式に当たります。従って、広大なカンタベリー大聖堂の建物でも、到底一度には出席者を収容できません。今年は7月16日から20日まで5日間、それも月曜から木曜までは毎日3回、卒業式が行われました。学長は全部の式に出席し、祝辞を述べるのだろうと思いますが、そうだとすると大変ですね。私の所属するセンターでは、11月の卒業式に8月末に修士論文を提出した修士(MA)の学生のほとんどが卒業するので、10名以上の出席があると思うのですが、7月の卒業式は、論文提出の期日が規則で決まっていない博士課程の学生が2,3名というところでしょう。今回も2名でした。そばに並んでいた同じセンター所属の一人とは少し言葉を交わしましたが、私が日本に帰国した後に入学した学生なので、会ったことのない人でした。その他大聖堂は学生と家族や友人などで一杯でしたが、この回の学生の専攻分野は、歴史や文学、哲学、映画研究など人文科学の分野のようでしたが、とにかく知り合いはいませんでした。元々、カンタベリーに住んでいる間も全く友人は出来なかったので、それは気になりませんでした。但、写真を撮ってくれる人が居ないのには困りました。幸い、立派なガウン姿の写真を撮ってくれるプロの写真屋さんが出店していて、ほとんどの人がそこで写真を撮ってもらうので、私もそうしました(もちろん、結構なお値段ですけど)。後は適当に暇そうな学生さんを捜して、2,3枚撮って貰いました。

式は午前10時30分に始まりましたが、卒業生はまず決められたガウンを取りに行き(もちろん有料)、大聖堂の決められた場所で受付(registration)を済ませて式の入場券を貰い、そして式の始まる30分くらい前に大聖堂を囲む回廊の所定の場所に整列します。私は大聖堂から10分程度のところのB&Bに泊まっていたのですが、8時には宿舎を出て、決められた作業を済ませました。ちょっと早すぎて時間がかなり余りました。

式が始まる前には保護者など、学生や大学関係者以外の人達は既に着席しています。その上で、まず、私も含め、卒業生が生演奏の吹奏楽団の演奏と共に行列して(procession)入場します。大学院生は、学部生の後を歩きます。その後に教授達、そして名誉博士号を授与される方が入場します。そしてここで出席者全員が起立した後、最後に学長や副学長など、大学首脳部が入場します。またこの行列の一部として、mace(職杖[しよくじよう])と呼ばれる儀礼の杖が運び込まれます。この杖は、大学が、王室から大学としての認可(Royal Charter)を受けたことを示す具体的な印だそうです。こういう具合に、行列を中心として儀式が組み立てられる点は、非常にヨーロッパ的で、古代や中世以来の伝統を感じます。

式が始まると、イギリスの大学では名誉職である学長(Chancellor)や日本の学長にあたる副学長の挨拶、名誉博士号の授与と授与された方の挨拶などがあります。式が11回もあるので、毎回名誉博士号を授与される出席者は一人のようです。私の出た式では、Philip Howardさんという有名な料理家でした。ケント大学の卒業生で、大学では微生物学を専攻されたそうです。大学時代の自由な興味の広がりを、その後の人生においても生かす事が大切、というようなお話でした。 その後、式の主体である学位授与に入ります。日本の大学で普通する様に、まとめてひとりの代表が学位記を受け取るというのではありません。卒業する学部生と大学院生がひとりひとり名前を呼ばれて学長の前に進み出て、学位記(卒業証書)を受け取ります。これに1時間くらいかかります。この卒業する学生の事を英語で 'graduand(s)' というそうですが、今回初めて知りました。Ph.D の学生の場合、学位記を受け取る時に学長がガウンの襟に当たる部分を付けてくれることになっていますので、その折には、一言二言言葉をかけてくれます。

現在のケント大学の学長は、元のBBCジャーナリストで現在は作家のガヴィン・エスラー(Gavin Esler)さんです。彼はスコットランド出身ですが、大学の学部はケント大学の 英文科(School of English)卒 で、英米文学を専攻し、卒業後は、同じく文学で、リーズ大学大学院のMAを取っています。私は、彼がBBCに居た頃出演していたNewsnight や Hard Talk などの討論番組をしばしば見ていました。そうした番組に相応しい、大変舌鋒鋭いジャーナリストでしたが、現在は作家としての仕事に集中しているようです。そのエスラーさんが私のガウンの襟を付けて下さる時、「私の娘は今日本に居るよ」とおっしゃいました。後でネットで検索して見たのですが、長女はロンドン大学アジア・アフリカ研究所を出た後、日系企業に勤めておられるようです。私は、「長らくあなたのファンなんです」と言いましたら、笑っていました。まあ、実際ファンですから(^_^)。

式が終了した後は、入場したのとは逆の順番で出席者が退場しました。私はレンタルしていたガウンを返却し、B&Bに戻って預けていた荷物を受け取って、駅に行き、ロンドンの宿舎に向かいました。

博士論文の口頭試問は昨年2018年9月11日にあり、その時に既に小さな間違いの訂正を済ませれば合格(pass with minor corrections)と言われていました。そして、多分9月中には修正版の論文を提出し、10月末(10月27日)には、試験官の再チェックも終わって、最終的に合格したとの連絡がセクレタリーからありましたので、その時点で卒業できることは分かっていました。形式としての卒業式のためだけに、沢山の費用を使って出かけるのは贅沢すぎると思って、当初は行かないつもりでした。でも、高齢の両親が学位取得をとても喜んでくれたので、彼らに写真を見せるだけでも行く甲斐はあると思い、出かけることにしました。こうして出席してみると、やはり行って良かったとつくづく思います。両親や妻、妹に喜んで貰えたし、更にG先生に直接お礼を言えたのも大変良かったです。式には妻も一緒に来たいと言っていたのですが、どうしても仕事が休めずにそれは叶わず、結局、誰も知り合いのいない式になり、いささか寂しい想いはありました。式の後、G先生に送った報告メールで、知り合いがいなくて写真を撮ってくれる人を捜すのに困った、と書いたら、「自分が行けば良かった、でも式に同行できる人数は限られているので、当然家族が行くのだろうと思っていた」と返事がありました。しかし、彼はロンドンに住んでいるし、式に出るためには朝非常に早くお家を出なければならないから、とても出席をお願いできません。いずれにせよ、ヘスラー学長と短くても言葉を交わせたのはとても良い思い出だし、ロンドンへ戻る電車の中では、何とも言えない満足感に包まれました。早い人は3年で終わるところを、何しろ10年もかかってしまったことは研究者としては大変恥ずかしいのですが、しかし、自分の人生で最大と言って良いプロジェクトをやり遂げたことは、他の学生と比べて見劣りがしても、とても満足です。更に、イングランドの大学で英米人の学生に混じって英文学、それも中世英文学という分野で博士号を取得出来たのは、どんなに長い時間がかかっても、もともとこんな大それた事をやるほどには頭の良くない私にとって、出来すぎと言えるでしょう。

さて、長文になったので、今回はここで一旦終わります。でも、口頭試問の事や論文の提出前後の事など、色々、自分のための備忘録として書いておきたいことはあるので、後日、ここに書こうと思っています。また、私が論文で悪戦苦闘している間、博士論文に取り組んでおられる方々のブログが参考になりました。特に、当時はブラッドフォード大学におられ、今は日本で国際協力が専門の大学教員をされているTakaoさんのブログや、イギリスの日本語教師、デコボコ・ミチさんのブログなどは大いに参考にし、また、元気づけられました。そういう意味で、もしかしたら、私のブログも反面教師みたいな意味で、どなたかの役に立つかも知れませんね。

関連した投稿:執筆が暗礁に乗り上げて、諦めそうな状況だった頃のこと。

2018/08/22

チョーサーとガワーが出てくる中世ミステリ、Bruce Holsinger, "The Invention of Fire" (Harper, 2015)

Bruce Holsinger, "The Invention of Fire"
(Harper, 2015) 480 pages.

☆☆☆☆ / 5

作者のBruce Holsingerはアメリカのバージニア大学の中世英文学の先生。既に数冊の研究書を出版しており、専門家としてもかなり知られている方のようだ。一方で、近年は中世イングランドを舞台にしたミステリを書き始め、これが2冊目。最初の作品は "A Burnable Book" (2014)でかなり好評を博したようで、今回の本が2冊目。私は、ブログに感想を書きそびれたが、最初の本も去年読んでいて、結構面白かった。私の様に中世英文学に関心のある読者にとっては、彼の本は特に面白い。というのも、主人公が、チョーサーの友人で、今も読み継がれている詩人、ジョン・ガワーに設定されているからだ。そして、チョーサー自身もガワーの友人として出てくるし、14世紀末の世相も色々と細かく反映されていて、日頃勉強してきたことが頻出し、かつ知らない事も多々学べるので楽しい。巻末には筆者が参考にした書籍も書かれている。

さて、小説の場面設定は、1380年代、リチャード2世の治世におけるイングランド、特にほとんどはロンドン市中とその近郊で起きる事件を扱う。ワット・タイラーの乱の後、イングランドの政局は極めて不安定で、若い王の治世の存続が危うくなりつつある。エドワード王時代の終わりには最有力者であったジョン・オブ・ゴーントは、イベリア半島に遠征したまま。権力の空隙を縫って、グロースター公トマス・オブ・ウッドストックが王室を牛耳りつつある。そうした中、糞尿も流れるロンドンの下水用の溝で16人の死体が一気に発見される。ガワーは彼の友人で、ロンドンの治安を預かる司法官の、Common Serjeant of Londonである、ラルフ・ストロード(この人は現実に存在した人で、やはりチョーサーの友人)、及び、王の側近の貴族で大法官(The Lord Chancellor)のサフォーク伯、マイケル・ド・ラ・ポールから、この殺人事件の捜査を依頼される。

何故詩人ガワーがそんな捜査を依頼される設定になっているかというと、当時は文筆で生計を立てることは出来なかったので、公務員であったチョーサーみたいに、ガワーは何らかの生計の手段を持っていたと思われるが、それがはっきり分かってないからだ。但、ガワーがイングランドの法や政治に関心が深かったことが作品からうかがえるので、彼は法律に密接な関係がある職を持っており、ロンドンにかなり存在した法律家のひとりではないかという推測もある。Holsinger先生は、そこで、ガワーが一種の私立探偵として活動し、ロンドンの様々な情報源を操りつつ、事件を解決していくという設定にしているわけ。Holsinger版ガワーは、現存する作品から受ける印象よりもかなりいかがわしい人物で、有力者の弱みを握って情報や譲歩を引き出したり、コインをばらまいて情報を買うと言った、公の司法官ではやりづらい手段を使って活動する。でも当時の役人にとっては、賄賂と正当な収入の差は紙一重だったから、これが実情かも知れない。とにかく、興味深い人物設定だ。

さて、タイトルになっている"The Invention of Fire"だが、この時代、それ以前から戦争で使われてきた火薬を使った砲(canon) が小型化し、近代初期になって戦争の主な武器となっていく火縄銃へと開発が進んでいく時代。14世紀後半から15世紀にかけて使われたのは、hand canon (当時の綴りで、handgonne)と呼ばれ、個々人が携帯可能だったが、いちいち着火しなくてはならず、非常に手間のかかる「銃」で、着火を担当する助手が必要だった。それが助手なしでも操作でき、連続して発射できる火縄銃タイプへと変わっていく時代を背景に、王を脅かす陰謀と、その陰謀で使われる小型の銃器の開発を組み合わせて、ミステリに仕上げているわけである。

チョーサー自身も、ケント州の治安判事(Justice of Peace)という名誉職をやっており、その資格でガワーと共に捜査に加わる時もある。ガワーは使用人はいても一人暮らしの孤独な男で、フィリップ・マーローみたいな一匹狼なんだが、チョーサーは公務員で、形ばかりとは言え家族持ち。ガワーが事件にどんどんのめり込んでいくのに対して、チョーサーにとって人生の主な関心は詩作にあるようだ。こうしたHolsingerの描く二人のキャラクターの違いも面白い。

私にとって特に印象に残ったのは、登場人物のひとりで重要な目撃者、ロバート・フォークがかってケントの海辺の町New Romneyの聖史劇で役者を務めた、というような記述があったこと(Haper社版167頁)。New Romneyの聖史劇の脚本は残っていないが、上演史料が発掘されてはいて、それについて論文がいくつか書かれている。こういうことを書くあたり、さすが専門家、と感心。

色々と興味深い作品だが、ストーリー展開の面白さでは、同じ歴史ミステリでも、C. J. Sansomのマシュー・シャードレイク・シリーズや、エリス・ピーターズの修道士カドフェル・シリーズ等と比べ、いまひとつという印象。スピード感があって息を飲む、という様なところはない。しかし、それを埋め合わせるだけの情報豊かで濃密な雰囲気作りがあり、特に中世ヨーロッパ好きにとっては大変楽しめる作品だ。

2018/08/12

Kenneth Ives(演出)"The Caretaker" (BBCのドラマ, 1981)

Kenneth Ives(演出)"The Caretaker" (BBC1, 1981)

鑑賞した日:2018.7.22
劇場:British Film Institute, Southbank, London
上映時間:2時間

演出:Kenneth Ives
脚本(原作):Harold Pinter
デザイン:Barry Newbery
照明:John Treays
音響:Richard Chubb

出演:
Warren Mitchell (Davis, a tramp)
Jonathan Pryce (Mick)
Kenneth Cranham (Aston)

☆☆☆☆ / 5

Harold Pinterの現代古典、"The Caretaker"を1981年にBBCがテレビドラマにして放送した。私が渡英中、そのドラマがサウスバンクにあるBritish Film Instituteで上映されたので、見に行った。

この劇には非常に単純なストーリーしかない。Davisというホームレスの男を哀れんで、Astonが彼を自分のアパートに住まわせようとする。そこにAstonの兄弟のMickがやって来て、このアパートは自分のものでもある、と絡んできて色々と難癖を付け、Davisを追い出そうとする。しかし、MickはAstonにも大分遠慮があり、ごり押しは出来ず、兄弟の間に一種独特の緊張感が漂う。Davisは2人の間のそうした遠慮のある関係を利用し、「管理人」(The Caretaker)気取りになって何とかアパートに居座ろうとする・・・というような話。

3人の名優の緊迫感溢れる演技が凄い。元々同じ俳優やスタッフでナショナル・シアターで上演された公演を、ステージをスタジオ・セットに移しただけで、そのままやっているようなので、NT Liveを見ているような感じだった。若い頃のJonathan Pryce、「カミソリのような」とでも言いたい演技にすっかり魅せられて、2時間、飽きずに鑑賞した。

Astonの役柄は慈愛溢れるが謎めいていて、やや人間離れしたキリストのような人物。一方Mickはずる賢く、Davisに色々な悪知恵をささやきかけるイアゴーのような役柄。Davisはこの2人の兄弟に振り回され、迷ったり、強気になったり、自分も色々と知恵を巡らしてサバイバルを計る。こうしてみると、善と悪、そしてその2つの要素の間で揺れ動く哀れな「万人」という道徳劇的な構造を持っていることが分かる。但、中世劇ではないので、どの人物もそれ程単純ではなく、キリストのようなAstonも時には暴君になったりもする。それどころか、慈悲深い神、誘惑する悪魔、悩み迷える人間、という3つの極(役柄)をAston、Mick、Davisの3人が交替して演じているようにも見える。

今回の上映の思わぬボーナスは、Astonを演じたKenneth Cranhamが劇場にやって来ており、簡単な挨拶をしてくれたこと。気さくなおじいさんだった。その後、私と同じ列に座って上映を見ていたようだ。

良い作品なのに、イギリスでもDVDなど出ていないのが大変残念。